72話
気怠るげなのに、何とも重苦しい空気を撒き散らしている。
散漫な動作で上座に胡坐を掻く信長に、これまで騒がしかった議場は一気に静まり返っていた。
「何と……何と、礼を云えば良いのかな…………皆も、聞いていると思うが……」
この場に集まっているのは歴史に名を残る傑物クラスだけだ。
例え数百年先であろうとも、その名が褪せず人々の間で語り継がれる特級の人間。
それだけに、即座に分かった。まずい、この状態はまずい。
今の信長は完全に枷が外れてしまっている、投げやり気味で何一つとして心を動かそうとしていない。
能力的な面で心配? いいや、違う。多分、今、この状態の信長こそが一番恐ろしいのだ。
心の熱が失せ、ただただ目的だけを遂行するための機械が如き有様。
普段のあれでも十分以上に凄まじい力を発揮しているが、その比ではない。
理屈ではなく、本能で誰もが悟っていた。この信長に勝てる者は居ない――と。
例え仮にこの場に居る総ての人間が明智陣営についたとしても、だ。
だが同時に、この信長と雪斎を相争わせてはならない。
この国が、日ノ本が地獄に沈んでしまう。
地獄より浮かび、信長自身が成そうとしている世の中は最終的に完成はするだろう。
だが、それは先のこと。今、そして百年二百年は地獄のような有様になる。
それではいけない。未来を見ながらも、今と過去を軽んじることがなかった信長だからこそ良き世界が創れるのだ。
だがこれは駄目だ、この信長は駄目だ。完全に未来しか見ていない。
最終的に完成される、良き世の中だけしか見えていない。
「今回の一件は総て俺の手落ちだ」
消沈し、言葉に意気はなく、ただただ慙愧の念だけが込められている。
だと云うのに恐ろしくて恐ろしくてしょうがない。
鈍感な人間であれば恐れず、信長は弱くなったと鼻で笑えるだろう。
が、不幸なことにこの場に居る人間は誰もが鋭く才気に満ち満ちた人間だ。
それゆえに嫌が応にも理解出来てしまう。
「……信長様」
「? どうした勝家、悪いが先ずは謝罪をさせ――――」
そんな信長の言葉を無視し勝家は立ち上がり、つかつかと上座の信長に歩み寄り――――
「この……大うつけがぁ!!!!」
胸倉を引っ掴んで鼓膜が裂けんばかりの一喝を見舞った。
突然のことに信長のみならず、他の列席者もポカーンと大口を開けて固まっている。
「お、おい……か、勝家……?」
少し、少しだけ信長に纏わりついていた陰鬱な気が晴れた。
凛々しい武人の清浄なる気に触れたからだろうか。
目をぱちくりさせる信長だが、勝家は決して手を緩めない。
「そのようなザマで何を成そうと云うのか!?
世で己が一番愚かで罪深いと云わんばかりのその自己陶酔……醜いにもほどがある!!」
それはまた強烈な痛罵だった。
しかしだが、勝家の云うことは正しい。ある意味、信長は自分に酔っているのだ。
不幸に耽溺し、どうしようもなく痴れている。
痴れているから、目が曇り、遥か先しか見えなくなってしまっている。
それではいけない。それでは何も成せはしない。
「喪った者は戻らんし、その声を、想いを聞くことすら出来んのだ!
生者が何をしようと、それは結局のところ自己満足でしかない……。
どれだけ重く想おうとも浅井長政やお市様はもう死んだ! もう居ない!
御身は取り残されたのだ! この世に、この巷に! 先に逝ってしまった者らにはどうやっても追い縋れはせん!!
責任を感じておるのであろう? であれば何だそのザマは!?」
逝ってしまった者らは決して喜んで死んだわけではない。
無念、後悔、雑多な負の感情を抱いて逝ってしまった。
負の感情と云うことはつまり、不本意だと云うこと。その終わりは望んだものではないと云うこと。
もっと――――生きていたかったと云うことに他ならない。
「その者らが死の淵で願った今日を軽んじて、明日よりももっと先だけを見つめる……それは死者への侮辱に他ならん!!」
逝ってしまった者らが生きられなかった今日を生きている。
ならばその今日を疎かにしてはいけないだろう。
遥か先だけを見据えて、今と目先のことを見ないと云うのはあまりにも舐めた生き方だ。
逝ってしまった彼らがどうしても掴めなかった今日だ、それに唾を吐くのならばそちらの方が無責任だ。
「責任を感じておるのであれば、しかりと目を開けろ!
今此処にあるものを再確認しろ! その手にはまだ喪ってはならぬものが残っているであろうが!!」
振るわれた左手、パァン! と小気味良い音が議場に響き渡る。
それはそれは見事な平手打ちであったそうな。
「――――」
信長は言葉を失っていた。
説教の内容に感じ入ったのも確かだが、
「(……俺、そういや親父にもぶたれたことねえんだよな)」
前世でもそう、自分と母を捨ててしまった父親の顔はもうロクに思い出せもしない。
信長が関心を持っていないと云うことだが、それは父親も同じだった。
相互に無関心で、そしてだからこそ顔を思い出すことも出来ない。
今世は無関心ではなかったけれど、信秀は自分を叱ることがなかった。
咎めるべきことをやっていたのだが、咎めることで信長がそれを材料に利用して織田を出奔しかねないから。
是が非でも家督を継がせたかったから怒れなかった。
だから、だろうか。
ぶたれた頬がとても熱い。単純な痛みと云うのであればこの程度屁のようなものだ。
それ以上の苦痛を味わったことは幾らでもある。
謙信の時なんて、それはもう酷かった。
だが、過去どんな痛みと比肩してみても勝家の平手打ちほど心に響いたものはない。
「(俺のために本気で叱ってくれる誰かが居る……)」
なあ、それってとても凄いことではないか?
なあ、それってとても嬉しいことではないか?
冷え切っていた心に、じわりと熱が染み出して全身に広がっていく感覚がこんなにも心地良い。
ああ、そうだ。その通りだ、分かっていることで、云われるまでもないこと。
こんなことすら見落としてしまうほどに、自分は打ちのめされていたのか。
未だ勝家の衝撃から立ち直れていない皆の顔を見渡す。
これだけの、これだけの人間が心から自分を信じてくれている。
信じて、此処に集ってくれたのだ。彼らを愛おしく想う気持ちに嘘はない。
別れは何時か来るものだけど、だからこそ今を大切にしよう。
馬鹿げた仕儀で来る別離なんて望んじゃいない、ならばこの手にあるものをしっかり握り締めておくべきだ。
喪ってしまった大切な何か、二度も三度も四度も繰り返したくはない。
そんなドマゾな性癖を持ち合わせた覚えは無いだろう?
だったら、繰り返さないように、他に辛いことがあっても今ある大切なものを喪わないように努力すべきだ。
死者を無かったことのように忘れてしまうのは悲しいことだ。
それでも、じゃあ喪ったものばかり数えていれば良いのか? それは違うだろう。
まだ喪いたくないものがあって、そのために戦わねばならないと云うのであれば勇気を以って踏み出そう。
その途上で、この手から離れてしまったもの、抱いてやれなかったものを喪うことになるとしても。
今を生きると決めたから、彼らが生きられなかった今日を自分は生きているから。
信長から、怖気が走る冷たさが消えてゆく。
血色の悪かった身体に血が巡り、心までもが熱くなる。
先ほどまでの信長は確かに恐ろしく強かった、だけどそれは"ひとり"の強さだ。
信長が持つ最も尊い力は自らの輝きを以って他者の心に火を灯し、共に歩んでゆく"みんな"の強さ。
「……諫言、確かに聞き届けたぜ」
一度俯き、再び顔を上げた時、信長の顔は不敵で見る者の胸を高鳴らせる太陽の如き笑顔に変わっていた。
「この御無礼、戦働きを以って清算する所存に御座ります」
「よせよせ、お前は正しいことをしたんだ。間違ってたのは俺だ。それとも何か? 自分の行いは間違ってたって?」
「いいえ」
力強く云い切った、それがまた何とも小気味良い。
「だったら侘びだとか清算だとかそう云う野暮はよそうぜ」
大馬鹿者に平手打ちをしたからってそれが何だ。
悪いと思う必要は無い、気負ってしまうなんて馬鹿らしいだろう。
「ありがとよ、かっちゃん。お前は最高の家臣だよ」
織田家の筆頭家老たる人間は柴田勝家以外にはあり得ない。
今回の出来ごとはそれを如実に示していた。
「ありがたき御言葉……!!」
額を打ち付けんばかりの勢いで礼をし、勝家は再び自身の席へと戻った。
さあ、仕切り直しだ。先ず、何を云うべきかな? いいや、考えるまでもない。
真っ先に伝えたい、聞いて欲しいことは決まっている。
「皆――――ありがとう」
それ以外に何があるのか。
ありがとう、それだけで十分だ。これ以上言葉を連ねても野暮なだけだし照れ臭い。
感謝の言葉を受け取った者達は軽く頭を下げ、それに応えた。
「よし……じゃあ、俺が来るまでの話し合いで決まったことについて聞かせてくれるか?」
「ええ。私の裁量で許可した部分もあるけれど、それ以外は信長様に許可してもらわねばいけないもの」
代表して帰蝶が東西の抑えや、東国勢の親族、その保護について簡潔に説明する。
実に真っ当なものであり信長としても拒否する理由は無い。
「成るほど、分かった。ならばその通りに頼む。で、安土に避難して来る親族だが……」
安土城は居住空間も持ち合わせているので城に入れても良い。
が、屋敷を幾らか新たに建造するのもありだろう。
「俺の屋敷と、それとマーリン、可能なら新たに幾つか屋敷を建ててもらって良いか? そこに入ってもらおう」
魔道の力を使えば一瞬だ。
まあ、消耗が後に響くと云うのであれば却下するつもりだが。
マーリンも敢えて云われずともそこらは察していた。
察した上で、
「了解。いきなり城に詰め込まれたんじゃ不安になるでしょうしね」
一日寝れば回復する程度の消耗しかないので要請を受け入れた。
「つーわけだ、俺の屋敷か新たに建てられる屋敷に皆の親族を入れると良い」
先ほどマーリンも云ったがいきなり城では避難させられた側も不安がるだろう。
ひょっとして此処まで敵が来るのか? と。
だからこその屋敷だ。安土に来て直ぐに城へ放り込まれるよりは安心出来るはずだ。
「……っと、そういや親族の話題で思い出したんだが、氏真」
「はい?」
「いやほら、お前んとこの嫁さん大丈夫か?」
早川殿は北条氏康の娘、つまりは元北条家の人間だ。
だと云うのに信長は容赦なく北条家を滅ぼそうとしているわけで……。
「ああ、そこは御気になさらず」
苦笑気味に氏真が返す。
確かに状況だけ見れば早川殿が凹んでいるとかそう云うことがあっても不思議ではない。
が、ところがどっこい。早川殿はむしろキレている――――北条に対して。
「武田攻めの際に北条が……そう誘導されていたとは云え武田方に組したことで北条の御家が滅ぶことは覚悟していました。
とは云えあれは先代当主たる氏康の責で、その後を継いだ氏政や他の親族に累が及ぶのは忍びない。
それで北条攻めが行われる際に助命を考えていたようですが……でもまあ、今回のことがあったでしょう?
今川にとっての大敵たる雪斎に組するだけでも赦せないが、民を軽んずる外道の法にまで手を染めた」
最早その時点で氏政や小田原に居る他の親類は北条にあらず。
氏康は確かに大名としての欲に溢れ織田に敵対していた。
それでも、雪斎から誘いをかけられれば迷うことなく断っていたと云う確信がある。
最低限超えてはならぬ一線を弁えている、と云うことだ。しかし氏政はそれを超えてしまった。
手厚く民を保護するのが北条で、民は国の根幹。
その大前提を忘れて外道の法に手を染めるのであれば最早是非もないと早川殿は憤慨していた。
「北条は基本的に親族会議でことを決めているわけで、だからこそ拒否することも出来た。
しかし雪斎に、明智に就いた以上は他の身内の考えもまとまっていると云うことで……妻はそのような者らは知らぬ、滅んで当然だと」
「ほう……何と云うか、存外気が強いんだな」
数えるほどしか顔を合わせたことはないが早川殿はおしとやかで柔和な女性と云う印象だった。
しかし、成るほど、確かに意思の強さは垣間見えていたし秘めているものは熱くても不思議ではない。
「ええ、なのでそこらは問題ありません」
「そうか。ならば、俺も気にするのは止めよう……で、皆、他に何か決まったことは?」
と聞いたところで藤乃があ、と声を漏らす。
「どうした?」
「ああいえ、信長様が来られる前に御婆ちゃんに何かあったようで」
「ん?」
全員の視線がマーリンに集まる。
多くの瞳に射抜かれているわけではないが魔女は小揺るぎもせず、その吉報を告げた。
「島津から連絡があったの」
信長の指示通りに情報を送った際、島津以外の面々にはそのまま紙片の鳥を転移させた。
それは託すべき人間が手で触れれば書状に変化するように仕組んでいた。
それだけで大体分かってくれるだろうから。しかし、島津にだけは別だ。
家久個人は慣れているかもしれないが、彼は島津の当主ではない。
島津の当主たる義久とも信長は文でやり取りしていたが、それはあくまで信長だけ。
マーリンの存在は知っていても、いきなり手紙だけポンと寄越しても分からないだろう。
だったら家久に送れば? と思うかもしれないが先にも述べたように当主は島津義久だ。
最初に彼に渡すのが礼儀と云うものだろう。
それゆえマーリンは雪斎と同じく自身の影を送り、聖剣の魔女としての立ち位置を使って義久に直接謁見。
そこで、ことの仔細を述べたのだが彼からはしばし滞在して欲しいと云われた。
何のことか分からなかったがそれなら、と影は島津の本拠に残していたのだが義久からようやくアクションがあったのだ。
「まあ、詳しい内容は本人に聞いてみると良いでしょう」
ぱちん、と指を鳴らすと議場の中心に五人の人間が出現する。
それは微妙に透けていて、この時代では例える言葉が無いが未来的に云うならば立体映像。
五人の立体映像が出現したのだ。四人は信長も何となく分かった。
先ず、一番前に座っている冷たい刃を想起させる美丈夫が直接顔を合わせたことはないものの島津義久だろう。
そして少し後ろに控えているのが家久を含む他の兄弟達。
隣に座っているのは少年、まだ十代の少年――しかしその瞳には煌く何かがある。
つまるところ、英傑の類だと信長は判断した。
『こうして顔を合わせるのは初めてですな信長殿、某は島津義久と申す』
ぺこりと頭を下げる義久に少しだけ驚いた。
御国言葉が出ていないのだ、家久が滞在していた時は気を抜くと御国言葉が出ていたのに。
「織田信長だ、会えて嬉しいぜ義久。こっちに合わせてくれてるのか? 律義者だな」
正直、信長も薩摩の言葉は少々難しいのでありがたかったが……。
『いやいや、違うでごわす。兄上は元々、何時か都見物に行く際に恥を掻きたくないからおい達には内緒でこっそり勉……』
と家久が補足するも、
『へぶぅ!?』
振り向きもしないまま叩き込まれた義久の裏拳によって強制的に黙らされてしまった。
『ち、ちなみに他の兄上達が黙っておるのは勉強してなくて馬鹿にされるのが怖……』
『きぇえええええええええええええええええええええええええええええええ!!』
あまつさえ残る兄二人から追撃まで叩き込まれてしまった。
『御見苦しいところを。では、早速本題に入りましょう』
「そりゃ良いけど家久大丈夫? 死んでない?」
『薩摩では日常茶飯事に御座る。どうか御気になさらず』
流石は修羅の国である。




