23話
武田の本拠地である躑躅ヶ崎館にある信玄の私室にて。
「うぅむ……どうしたものかね…………」
部屋の主信玄は唸っていた。
悩みの種は無論、畿内にてバリバリやっている織田信長である。
布告より一月、織田に友好的な姿勢を示したのは筒井と浅井のみ。
他は風見鶏――まあ、六角だけは敵対関係にあった浅井が織田に就いたので対立せざるを得なかったが。
だもんで信長は早速六角攻めを行い二日で六角の本拠たる観音寺を陥落させてしまった。
とは云えゲリラ的に六角が抵抗しているので完全に滅ぼすまでにはもう少しかかるだろうがそれも時間の問題。
六角を片付けてしまえば後は京に居る三好を追い出してしまえば上洛は成る。
信玄は直に信長と顔を合わせ語り合った。
ゆえに分かる、あれは大人しく幕府を裏から操って実権を握るような輩ではないと。
何をするかは分からないが義秋擁立に動いたと云うことは幕府を利用するのだろう。
だが何のために、どのように利用するのかが分からない。
邪魔をするのならば織田領に侵攻して足を引っ張ってやれば良いのだが……。
「わしが後十年若けりゃあ、方針もスパっと決められるんだがのう」
信長の覇道だって阻める自信がある。
しかし現実問題として、信玄は老齢。
多く見積もった時間の中でそれなりに削り切れるとしても次代に託すにはちと不安だった。
それほどまでに織田の勢いは凄まじく、並大抵のことでは止められない。
それゆえ信玄も下手に敵対することが出来なかった。
「カァーッ! 謙信が病気か何かでさっさと死んでくれりゃあええんじゃがなぁ!!」
信長と同じようなことを口走る信玄、謙信の嫌われっぷりが窺えると云うものだ。
まあでも実際、謙信がいきなり病気か何かで死んでくれればまだ目もある。
「あ奴は上杉そのもの、謙信亡き上杉を平らげ肥え太ることが出来れば目もあるんじゃが……」
期待するだけ無駄だろうと溜息を吐く。上杉を呑み喰らってしまえば後は心配ない。
北条家とは一応まだ同盟が続いていて、現当主氏康のことはよく知っている。
仮に敵対したとしても自分が存命の内はあちらからは確実に攻めて来ない。
勿論此方が攻めれば迎撃し、報復のポーズとして一応の侵略はして来るだろうがあくまでポーズだ。
本気で甲斐を獲ろうと攻めて来ることはない。自分に勝てないことが分かっているから。
それゆえ織田に集中出来るのだが所詮は夢物語。
厳然たる事実として上杉謙信は今も生きているのだから。
「わしが存命しておる間は独立も保っておられる」
勝頼に家督を譲り信玄が没した後、最終的に従属せざるを得ないとしても、だ。
現状ではあれやこれやと国力を削られるのが目に見えている。
そして抗うだけの力を勝頼は持っていない、優秀な家臣団が居るとしても織田に頭を踏み付けられてしまう。
従属した後でも力を削られないように、織田でも下手に手出しが出来ないようにするにはどうすれば良いか。
必要なのは、
「……国力、じゃな」
基盤を広げ揺ぎ無いものとする。それ以上の手段は存在しない。
自分ならば今のままでも問題は無いが、次代の者達にとっては厳しい状況になる。
その厳しい状況に耐え織田家に従属した後でも変わらず武田の御家を保ち続けるには兎に角国力。
今のうちに領土拡大を図るべきだが、上杉に関してはもう何度もやり合っているので望み薄なのは百も承知。
信玄は運が悪かったと云わざるを得ない。
同世代に、それも近場に上杉謙信と云う男が存在しているのだから。
「となると北条か……いやだが、後背を気にしたくはないし北条とはこのまま同盟を続けたい」
となると道は一つしかないのだ。
西へ西へ武田の版図を拡げて行くしかないのだが三河・遠江・駿河。
それは織田の領地で、しかも西進すれば確実にかち合う家がある。
今川? ああうん、そりゃ今川ともやり合うことになるがそれは別に問題ない。
問題なのは、
「……徳川か」
信長からの信も篤く――と云うより徳川家康が信長の女であることは周知。
身内に対する甘さと、身内を攻撃された際の獰猛さは大国であった頃の今川が証明している。
「出来るだろうが小娘一人、どうとでもあしらってやれるが信長が出張って来るとなれば……」
仮に駿河、遠江、そして三河の一部辺りを併呑出来たとしても敵対は不可避。
そうなった場合、長い戦になるだろう。
その最中に自分が死んでしまえばお先真っ暗。
ただ攻め入るわけにはいかない、攻め入るタイミングが重要になって来る。
織田と一時敵対することは信玄の中ではもう確定事項だった。
「――――閃いた、同盟じゃあ!!」
他所と組む? 否、甲斐の虎がそんなありきたりなことをするものかよ。
「織田に同盟を申し入れる、そこで機を窺うとするかのう!?」
天啓天啓、と悩みが晴れたかのように笑う信玄。
織田との同盟、それは裏切りを視野に入れた同盟である。
「今、未だ上洛を果たしておらず三好を滅ぼしていないこの状況であれば確実に受け入れる……!」
信玄は驕りでも何でもなく、自分が信長にとっての脅威であると認識している。
そして実際に信長も脅威であると捉えている――両想いだ。
と云うのはさておき。上洛をする以上、三好は滅ぼさせねばならない。
しかし現状、三好はかなりの勢力を誇っている。
京に滞在する三好の軍勢を蹴散らして義秋を将軍させたとしても三好はまだ存在していて一気呵成に滅ぼせる相手ではない。
ないし、三好討伐のために動けば――――。
「元就も動くであろうな。あ奴もわしと同じで、次代のために地盤を築いておきたい時期のはずじゃあ」
西へ西へ三好を滅ぼして行けば必然と毛利に近付く。
接敵しないとは云え元就にとっては面白くないだろう。
間に挟まれている小勢力や本願寺を煽って間接的に織田と敵対するはずだ。
そして元就の暗躍に気付けぬほど信長は阿呆ではない。
更に西へ西へと進むのは目に見えている、でなくば元就の嫌がらせを受け続けることになるから行かざるを得ないのだ。
「信長も毛利を相手取るとなれば、本腰を入れにゃあならん」
そのためにも、東の脅威である信玄が同盟を提案すれば確実に受け入れる。
「後背の心配が無くなれば、大兵力を以って毛利と戦をするであろうよ」
そこを、裏切るのだ。
大兵力を以って毛利と当たっている間に武田は西へ侵攻し東海を切り取って行く。
即座に転身するにしても毛利を放っては置けないし、講和を結ぼうにも元就は弱ったところを見逃しはしない。
結果、東西に伸びた織田の領土は西から毛利、東から武田によって削り取られる。
削り取られ弱体化すれば一旦織田は停滞に入るだろう。武田や毛利に奪い取られた領土を奪い返すために。
その間にどれだけ国力を充実させられるかが信玄にとっての勝負の分かれ目となる。
「その後、わしに何があっても大丈夫なように勝頼へ遺言を託しておけば武田は安泰じゃ」
信玄は自身の死後、即座に織田と和睦するよう言い渡すつもりだ。
奪った領土のうち、三河を返還することで従属を認めさせる。
織田も認めざるを得ないはずだ、信玄が亡き後で弱体化したとは云え武田には国力がある。
敵対して滅ぼせなくもないだろうが、かなり骨が折れるだろう。
それならば一部とは云え領土を返還させ無傷で受け取る方がマシ。
「信長も、わしが同盟を破った時点で考えに気付くであろう」
ならば無駄なことはしないはずだ、自分の考えが看破出来るからこそ即座に意識を切り替えてくれる。
勝頼死後と云わず自分の存命のうちに和睦は成るかもしれない。
頭の良い男で損得勘定も速い、それならば旨味は無いと判断したのならば機敏に別の場所へ手を伸ばすはずだから。
信玄は悪名を被ることも厭わず最善手を導き出したと思っている。
信長が最初から全方位と戦争をするつもりだと知ればどんな顔をするのだろうか。
「ん? 昌幸か、入れい」
トントン、と戸が叩かれる。
呼び出していた昌幸が到着したのだと思い出し部屋の中へと招き入れた。
「失礼します」
「うむ、よう来てくれたのう」
「いえ、それより何用でしょうか?」
「ああいや……ちと、これからのことを相談したかったのじゃが……」
「じゃが?」
「すまん、もう思いついてしもうた!」
昌幸を呼び出した理由は対織田についての相談をするため。
彼女は少し遠くに居たので時間がかかったが、信玄自身その間に閃いてしまうとは思ってもいなかったのだ。
「うむうむ、予想以上に頭が冴えてしもうてのう」
「はぁ……まあ、それは何よりですが」
「後で昌信ら四天王にも相談するつもりじゃが、先ずおんしに話しておこう。忌憚なき意見を述べてくれい」
「無論」
そう云って信玄は先ほど閃いた策を昌幸に開示する。
昌幸はおお! や、成るほど! と興奮しながら相槌を打ち策の内容を最後まで聞き届けた。
その上で、
「流石です御館様! この昌幸、感服致しました! 隙の無い万全の策であるかと!!」
「ほっほっほ、落ち着け落ち着け。いやしかし、おんしも若いのう。まだまだ要勉強じゃあ」
「あ……はい」
しょぼーんと項垂れた子犬のような表情をする昌幸。
信玄はそれを見て大きく笑い、乱暴にその頭を撫でてやる。
「すまんのう、躑躅ヶ崎まで呼び出して。おお、そうじゃ弁丸らに会って行けい!」
弁丸と云うのは昌幸の息子だ。
昌幸は双子が生まれるや即座に双子を信玄に人質として差し出した。
『……堕ろすべきだったのですが、子に罪はないと思い産みたいと申し出た私の我が儘。
それを聞き届けてくださっただけでも十分に御座います。この子らはどうぞ、御館様がご自由にお使いくださいませ』
信玄はその忠義に感激すると同時に罪悪感を抱いたものだ。
何せ彼の視点では望まぬ相手に純潔を捧げさせ、その上に孕ませてしまったのだから。
信玄自身に堕胎させるつもりはなかったが、昌幸は堕胎するのが当然だと思っていたのだろう。
土下座をしてまで子を産む赦しを乞うて来たのだ。
そして、産んでやれただけでも十分だと母の情を殺し自分に差し出した。
信玄としては申し訳ない気分でいっぱいだった。それゆえ、預けられた子供達は手厚く養育されることに。
信玄自身があやすことも多々あり、本人的にも周囲から見ても実の孫のように双子は優しくされている。
信玄も平気で身内を切れるタイプだが、それはあくまで邪魔だったり敵対したからである。
忠義を尽くす臣に滅私の心で過剰とも云える配慮を取られれば申し訳なく思ってしまうのが人情だ。
それが我が子のように可愛がっている相手で、尚且つ原因が自分にあるのならば尚更。
それゆえ、信玄は定期的に躑躅ヶ崎館まで昌幸を呼び口実をつけて子と触れ合う時間を作ってやっているのだ。
だってそうでもしないとあまりも罪悪感が半端ないから。
「しかし、それは……」
だと云うのに昌幸は毎度毎度申し訳無さそうな顔で固辞しようとする。
体裁を気にし、自分を立ててくれているのは分かるがもう少し柔軟になって欲しい――信玄は常々そう思っていた。
「良い良い! 気にするでないわ。おんしの父にも兄にも、よう尽くしてもらっておる。
無論、おんしにものう。涙が出るほど嬉しいのじゃ、わしは。昌幸のように忠義に篤い家臣を持ててのう。
せめて感謝の気持ちを受け取ってくれんか? でなくばわしにも立つ瀬が無い」
「御館様……寛大なる御慈悲、何と感謝すれば良いのやら……」
じわぁ、と目を潤ませる昌幸。
「ますますの忠勤を以って必ずや報いてみせます!」
「うむうむ、期待しとるよ」
両手を地につけ深々と頭を下げる昌幸に良いからと頭を上げさせ、近くにあった葛篭を手渡す。
「これは?」
「おう、堺の方から流れて来た玩具じゃ。弁丸らにやろうと思うての」
「そのようなことまでなさらずとも……!」
「ぬはは! そう云うてくれるな昌幸や。爺になると個人的な金を使うことものうなってなぁ。
貯まるばっかりで、これでは銭も腐ってしまいよるわ。未来の武田を支える若虎がために使うてやるのが一番じゃて」
先行投資だと云って笑う信玄だが、無論方便である。
単純に孫のように可愛がっている双子が喜ぶ顔を見たかったからと云う実に好々爺然とした理由が真実だ。
「勝頼様にも気にかけてもらっているそうですし、私は……」
双子を可愛がっているのは何も信玄だけではない、次期当主である勝頼も同じ。
信玄は勝頼にだけは双子の父と、双子が生まれる経緯と、生まれてからのことを説明している。
能力だけではなく忠義にも篤い者に報いねばならぬと強く云い聞かせ、勝頼本人も尤もであると双子を目にかけているのだ。
何せ昌幸は自分の代を支えてくれる重要な柱の一本となるのだから。
そして昌幸の子らは自分と、そして自分の子を支えてくれる立派な武士になってくれる。
勝頼は本物の弟のように双子に接していて、それは昌幸の耳にも届いていた。
「よいよい、それよりはよう行ってやらんか。何時までも爺にかまっとらんでのう!」
「ハッ!」
と一度深く礼をし、大事に葛篭を抱えたまま昌幸は信玄の私室を後にした。
「……フフ、御優しいこと。虎も老いたものですわ」
昌幸に子への情が無いわけではない。
むしろ、あるからこそ双子を差し出したのだ。
あのように振舞って子を差し出してやれば子は良い暮らしが出来るであろう、と。
「やはり、わたくしは正しかった。とりあえず後で旦那様に書状を送っておきましょうか」
今日も今日とて元気に表裏比興、正に真田昌幸である。




