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2話

 お市オ●ニー事件から数日。

 道三は正徳寺にて酒を呷りながら信長を待っていた。


「母上、どうぞ」

「ああ」


 傍らに居た斎藤義龍が空になった母の盃に酒を注ぐ。

 実に気が利く――などとは云わない。

 見え透いたご機嫌取りだ。が、それを悪いとも思わない。

 ご機嫌取りも、それはそれで一つのやり方だから。


「(この子はこの子で、悪くはないんだがねえ……)」


 道三は高齢だ、子に家督を譲り渡していても不思議ではないどころか当然。

 それでも未だ彼女は斎藤家の当主のまま。

 嫡子としては不満に思うかもしれない――が、義龍はまったくと云って良いほどに不満を見せていない。

 どころか、母をよく助けて家を支えている。無論、打算あってのことだ。


 道三存命の内に家督を譲り受けた場合、不安がある。

 そう、弟の孫四郎だ。当主となった途端に可愛がっていた孫四郎を家督にと自分を引き摺り下ろす可能性がある。

 そんなことになってはたまらない。そうなれば道三を殺すしかないから。

 親殺しの汚名は後々まで足を引っ張る、なるべくならばやりたくない。


 だからこそ、辛抱強く待っている。

 道三が死に、邪魔者が居なくなったところで万全の状態で家督を継ぐ時を。

 老いた母、先は長くない。そう思えばニコニコと媚を売ることにも耐えられる。

 道三はそんな息子の意図を読み取り、その上で何もしていなかった。

 いや、これからする予定ではあるが。


「しかし何だい義龍、その格好は?」


 自分の義息子とは云え、織田信長は今や時の人。

 領土的にも勝っているのだ、正装をするのが当然。実際道三は正装をしている。

 が、義龍は粗野とは云わないが見苦しくはない軽装。


「噂とは無責任なもの。某は自分の目で見たこと以外は信じませぬ。

母上には内密でありましたが、ちと草を忍ばせていましてな。

信長殿はえらく粗野な、それこそ、そこらの民百姓と変わらぬ出で立ちで娼婦のような女を伴い此方に向かっておる模様。

聖剣を抜いて、今川を降し、増長したのか……或いは噂のような神算鬼謀の徒ではなくまことのうつけか。

ま、どちらでも構いませぬが、礼を払わぬ相手に礼を払う必要はないと判断致しました」


 ドヤ顔でペラペラと語ってのける義龍、彼は気付いていない。

 細められた道三の瞳の奥に覗く失望の光に。


「母上も着替えられてはどうでしょう? 衣服は既に準備しておりますが」

「……いや、あたしは良いよ。わざわざ着替えるのも面倒だ」


 それからしばし、無言で盃を呷っていると家中人間が来て信長到来の報を告げる。


「お館様、織田信長様が参られました」

「そうかい。では、出迎えるとしよう。行くよ、義龍」

「ハ!」


 そう云って外に出てみれば、


「――――」


 義龍は言葉を失った。

 ピシッ、と決まった正装を着込んだ信長と多くの鉄砲を装備した護衛衆。

 キチンと身なりを整えているのは信長だけではない。

 娼婦のようだと評していた藤乃やマーリンもまた場に合わせた、しかし主よりは目立たぬ正装に身を包んでいる。

 威風堂々とした陣容に、義龍は俯き歯を食い縛る――恥をかかされた。


 先ほどの自分の言動を思い出し、信長に対する見当違いの悪感情を抱いているようだ。

 義龍は嫉妬深い人間である。

 栄光に満ちた覇道を歩んでいる信長に対して、それはそれは根深い妬み嫉みを抱いている。

 だからこそ、僅かでも見つけた失点に喜んで喰い付いてしまう。

 道三が評したように義龍は要らぬ意地、見栄で本来の能力を発揮出来ない人間だった。


「御久しゅう、と云うべきか御初に、と云うべきか」


 信長は無論、史実の逸話を覚えていた。

 その上でちょっとした遊びにとやってみただけなのだが……。


「(息子が釣れるかね)どちらが良いかな? 姑殿」

「どちらでも構わんさね。さ、立ち話も何だし中に入ろうか」

「ええ」


 藤乃とマーリンを伴い屋内へと移動する。

 食事と酒が用意されており、割と空腹だった信長は思わず頬が緩んでしまう。


「娘も一緒だと思ってたんだがねえ」

「ん? ああ……まあ、一応誘いはしたが遠慮しておくとのことだ」

「成るほど。嫁いでしまえば親より男かい。寂しいこった」

「ハ……意地悪だな。理由は分かっているだろうに」


 道三の後ろに控える義龍の視線を感じ、苦笑を浮かべる。

 成るほど、確かに道三や帰蝶の評価は間違っていない。


「(よくよく嫌われる人間だな、俺も)」


 とは云え、これならこれでやり易い。

 義龍は間違いなく織田に牙を剥く、恐らくは近隣の連中も煽って――だ。

 ならば躊躇いは無い。

 妻の実兄で、自分にとっても義兄弟にあたるがこれも戦国の習いだ。

 信勝のように信長が好感を持っていたのならば嫌な気分にもなっただろうがそれもない。

 迷う要素は一つも無く、道三が没すれば即座に美濃を奪うつもりで居た。


「(ま、名分無くして攻め込めば多少の悪評は買うだろうが……そこもまあ、上手くやるさ)」


 またぞろ何か腹の黒いことを考えているようだが、結果として信長が策を弄する必要はなかった。

 何せ美濃攻略の名分はあちらがくれることになるのだから。


「帰蝶とは、上手くやっているのかい?」

「ああ、円満な夫婦をやらしてもらってる。夫の至らぬ部分を補佐してくれる良い女だよ」


 虚飾なき賛辞に、ほんの少しだけ道三の顔が戦国大名のそれから母のものへと変わる。

 シビアでドライな価値観を持ち、策謀に彩られた人生を送って来ては居るが彼女もまた人の親だ。

 利害が絡まぬ部分では素直に子を想える。


「見目麗しく察しが良くて夫を立ててくれる。良い嫁さんを貰ったよ、嘘偽りなくそう思う。ありがとよ、道三」

「フン……ただの先行投資さね。しかしこの分だと、見返りは期待出来そうだ」


 斎藤は一度織田の手で滅び、そして何時の日か織田の庇護下で再興する。

 道三が帰蝶に語って聞かせた読みは当然の如くに信長も承知の上。

 だとしても、だ。


「(……主家を乗っ取ってまで手に入れたもんが、一度滅ぶことをよく受け入れられるな)」


 更に言えば信長が天下を獲るなんて保証は無いのだ。

 だと云うのに道三は躊躇いなく賭け金を乗せた。


「生粋の博徒だよな、アンタって」

「アンタにゃ言われたくはないねえ。大博打の末の今じゃないのかね? 信長、あんたは賭ってものをよく知ってる」

「ほう……」

「丁寧に丁寧に、そこに至るまでに隙間を埋めていく。そうして最後に残るのが"運"。掛け値なし、等身大の自分だけが持つ運」


 それを盤上に乗せて、純粋な勝負が出来る。


「そいつを競わせるのが何よりも楽しい。桶狭間、あれが正にその象徴さね」


 出来得る限りの手を打ち望んだ桶狭間の戦い。

 しかし、現実問題として篭城ならまだしも寡兵で大軍にぶつかったのだ。

 織田側が霧散する可能性も――いや、その可能性の方が高かった。

 勝利を引き寄せたのは運と、敢えて云うのならば執念かと道三は笑う。

 深い皺が刻まれた顔を更に皺くちゃにしているのに、これがまた美しい。

 良い歳のとり方をしたからだろう。


「美濃一つ奪うのに四苦八苦してたあたしだ、アンタみたいな楽しい賭けはついぞ出来ず仕舞い。羨ましいよ」

「そりゃ油売りと大名の嫡子、立脚点が違うからしゃーない」

「いやどうかね? 仮にあたしがアンタの立場でも同じことが出来ていたか、そもそも思いついてすら居たかどうか」


 結局のところ、個人の資質、その違いだ。

 持って生まれた宝、共に十全に活かせている以上は宝そのものの価値により差が生じる。

 道三とて自分を卑下しているわけではない。素直にそう思っているのだ。


「似た母子だな。帰蝶もアンタも褒め殺しが上手い。尻の据わりが悪いぜ」

「滅多に褒めないあたしの賛辞だ、素直に受け取っておきな」


 道三が手ずから信長の盃に酒を注ぐ。


「へ……確かに毒しか吐かなそうだもんな、この蝮婆は」


 信長もまた返礼として道三の盃に。

 酌み交わす酒は美味く、道三はほんの少しだけ感傷に浸っていた。

 もしも同世代に生まれていたのならばどうだったろうか。

 これからは信長達若者の時代で、自分はもう去り往くのみ。

 それが少しばかり寂しかった。


「ところで、虎は元気でやってるのかい?」


 自分と少しばかり歳は離れているが同じ時代を駆け抜けた好敵手。

 さっさと隠居してしまった信秀の動向も少しばかり気になっていた。


「今川で不自由なく暮らさせてもらってるよ。

元々文化系に疎い親父だからな、今は氏真に手ずから歌やら蹴鞠を教えてもらって悠々と第二の人生を満喫してるぜ」


 信長に届いた近況を報せる文では、連歌会に参加させてもらって嬉しかったとか書かれていた。

 史実においてはとっくに病でお亡くなりになっている信秀だが、幸せそうで何よりだ。


「奴が歌? 蹴鞠ぃ? 似合わないにもほどがあるさね」

「俺もそう思うが……まあ、折角面倒な荷物を降ろせたんだから好きにさせてやろうじゃないか」

「その面倒の大部分がアンタだったんじゃないかい?」

「そこを突かれると俺としても返す言葉がねえよ」


 口に運んだ漬物は食感もさることながら実に良い塩気が効いている。

 現代に比べると食事の質は悲しいほどに違う。

 素材の味がどうとかでフォロー出来るレベルではない――が、信長は飲食関係に不満を持ったことはない。

 大抵、これはこれでと納得出来てしまうから。


「信長」

「あん?」

「アンタは……美濃にゃ、来たことないんだよね?」

「ん? おお……まあ、通り過ぎたことがあるぐらい……かな?」


 諸国漫遊の際、行きは美濃を通って行ったので美濃を訪れたことはある。

 しかし特に立ち寄ったところもないし、何よりあの頃は独身だ。

 道三に顔を合わせる理由もない。


「そうかい」

「ああ。それがどうしたよ」

「いや何、美濃は良いとこだよ。尾張に負けんほどにね。今度来た時はよく見てみると良い」


 ふと、信長は不穏な空気を感じる。

 顔を合わせた当初から向けられている義龍の嫌い嫌いビームでは勿論、ない。

 孕んだ不穏、滲む毒、しかしそれらが向かう先は――――。


「帰蝶に色々と案内してもらいな。その時にゃ、あたしはもう居ないだろうがねえ」


 寿命か? いや違う。仮に寿命だとしても、ならば何故帰蝶なのか。

 次代は義龍で、友好を望むのならば息子に案内してもらえと云うべきなのに。

 言葉の意味を察せぬほど信長は愚鈍ではない。

 信長の大戦略は読めずとも、手近な指針の一つ二つが読めぬほど道三は愚鈍ではない。

 後ろに控えている藤乃とマーリンもまた、道三の言葉の真意を理解していた。

 もしもこの場に帰蝶が居れば、


「(気付いて……取り乱してただろうなぁ……さて、どうするかねえ)」


 信長としては好意に甘えてしまっても何ら問題はない。

 どころか早期に行動を起こせる分、楽だ。

 とは云え、思うところが無いわけでもない。


「どうした?」

「……いや、そうだな。そうさせてもらおう」


 一先ずは肯定。

 しかし、独自に動かないとは一言も云っていない。

 またぞろ面倒なことになって来たと思いながらも信長はグルグルと思考を巡らせ始める。


「(あー……とっとと俺とは無縁の勢力滅ぼしてえ! 何でこう身内絡みになると……)」


 身内が絡むと七面倒臭いことになるのが信長のジンクスだった。

 道三の提案にそのまま乗っかれば面倒なことなど何一つとして生じはしないだろう。

 だが、その結果として生じるものを捨て置けるほど信長はドライではなかった。

 それゆえこうして苦労するのだが、そこもまた魅力の一つなのかもしれない。


「ああ、存分に美濃を楽しみな。アンタの腰のものにゃ劣るが、それでも美濃は刀剣なんかも中々良いのがあってねえ」

「ほう……それなら世話になってるかっちゃんやらに贈答するかねえ」


 織田家の代表的な家臣が貰って嬉しい褒美は大体以下の通りだ。

 藤乃→金とか銀とか大好きだけど信長様から何か貰うなら一日占有権利でしっぽりムフフが良い。

 勝家→武器、甲冑、名馬。

 長秀→美味しい御飯、珍しいものならば尚良し。

 と云う具合なので勝家のために良いものを造らせて贈ろうと決意する信長だった。


「美味いものも沢山あるから期待すると良い」

「おうともさ」


 その後も当たり障りの無い会話を続けながら食事を続け、二人の会見は終わりを迎える。

 義龍や他の家臣を伴って信長を見送った道三は遠くに消えた背中を見つめたまま口を開く。


「兵助」

「何でしょうか御館様」

「織田信長と云う男をどう見たかね? 忌憚のない感想を聞かせておくれ」


 信長が去った方向へ視線を向けたまま、道三はそう述べた。


「目を、奪われますな」

「ほう……」

「臣に手渡された外套を羽織る、馬に飛び乗る、何てことのない所作でも実に目を引きます。

その背は雄大で、あの御方に着いて行けば先ず間違いはないのでは? と思ってしまいます」

「べた褒めじゃないか」


 しかし兵助の云う通りではある。

 端麗な容姿、自信に満ち溢れた瞳、超然とした態度。

 世界を構成する大多数の弱者が拠り所とするには信長と云う男は打ってつけの人材だった。


「だが間違ってはいないよ」


 そうして道三はニヤリと哂い、引き金を引く。


「我が子らはあの男の門前に馬をつなぐようになるだろうて」


 義龍にも聞こえる声量でのこの発言。

 これは自身と息子――いやさ、斎藤家にとっての破滅の引き金だった。

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