13話
柔らかな陽光が目蓋の裏に差し込む。
ゆっくりと目を開けてみればそこは見慣れた自分の部屋――ではない。
「……ああ、市の部屋で眠っちまったのか」
女物の着物が布団代わりに身体にかけられている。
恐らくは眠ってしまった自分にお市がかけてくれたのだろう。
微妙に身体が動いているが、
「(まあ、貧弱そうだから俺を布団まで運ぶのは無理だよな)」
そして時間も時間だし使用人も呼び難い。
それに、使用人も織田家のドンを布団まで運べと云われたら恐縮するだろう。
苦肉の策として着物だけでも――と考えたのかもしれない。
「(記憶飛ぶぐらい飲んだが…………大丈夫だよな?)」
酒の勢いで妹をヤってしまったなどと笑えない。
信長は身体をチェックし、情事の痕跡が無いかを確認。
セルフチェックの結果、性豪信長は自分の自制心は酔っても変わらぬことを確信。
「(ま、妹相手じゃおっ勃たんから心配のし過ぎか。にしても……お市は何処行ったんだ?)」
部屋の中には自分しか居ない。
相も変わらず白檀の匂いが鼻について軽く苛吐くが、だからと云って香木を叩き折って放り出すわけにもいかない。
妹の部屋で癇癪を起こすなどあり得ないだろう。
「あ、おはようございます兄上」
「おぉ……市か……何処行ってたんだ?」
「先ほど目覚めて、顔を洗いに……あ、お水を持って来ますね」
部屋に戻って来たお市だが再びパタパタと部屋を出て行く。
「別に気にせんでも良いのに……ん? アイツ、胸大きくなってない?
それに何か大人びているような……ああ、そう云うことか」
胸の大きさは夜だったから目測を誤ったのかもしれない。
そして、大人びているのは昨夜の酒宴はお市にとっては一つの区切りだったのだろう。
自分が色々考えていたようにお市も色々と考えていた。
何を考えていたかを知ろうとするのは――――
「(野暮、だよな)」
兄の口からいずれ嫁に行ってもらうと告げられたのだ。
もう後戻りは出来ない。
心の中で想えども、しかし武家の女として立派に役目を果たす。
その胸中は如何ほどか、ある意味で振った相手が気遣うのは礼を失すると云うもの。
「御待たせ致しました、これを」
「うむ」
戻って来たお市から水と濡れた手拭いを受け取り、喉を潤し顔を拭く。
「今日も良い天気で御座いますね」
「ああ……ちょっと暑いぐらいだが、まあ夏も近いしなぁ」
今は五月――だが、それは戦国時代の暦。
未来における暦法の上では六月だ。色々とややこしいので説明は割愛する。
ちなみに信長は天下を獲ったら暦についても変えるつもりで居るがそれはどうでも良いことだろう。
「また今度、かっちゃんでも誘って琵琶湖に遠泳しにいこうかねえ。いや、どうせならこれも催しに……」
信長は領民への娯楽の提供として相撲大会などのレクリエーションも開いている。
だもんで、ただ泳ぎに行くだけでこれもレクリエーションに出来ないかとついつい思案してしまう。
「遠泳大会ってのも悪くねえな」
賞品も出してやればやる気も出るし、参加するだけでもそれなりに楽しめるはずだ。
為政者としての顔で考えごとをしている信長を見てお市は頬を綻ばせていた。
ああ、やっぱりお兄様は良いなぁ――と。
「こう云う時、金持ちに生まれて良かったと思うぜ……親父様様だな」
信長自身も引き継いだ事業以外にあれこれとやっていて収益は見込めている。
しかし、その事業に手を出せたのも先代信秀が築いた基盤あればこそ。
先達の苦労苦心、その結晶が織田家を潤しているのだ。
おかげで他所とは比べものにならぬほど鉄砲も仕入れられるし領民のためにも多く金を使える。
資金を惜しまず領内を盛り上げる、盛り上げれば領内が肥えていき新たな金を生み出す。
好循環を生み出せるのも最初の投資に使える金が多くあるからこそ――信長は思わず駿河へ向けて拝んでしまった。
多分今頃信秀がくしゃみをしていることだろう。
「私はお父様の凄さがよく分からないのですが……どんな感じなのですか?」
「ん? ああ……元々俺らの家は庶流だったのは知ってるか?」
「え、そうなのですか?」
「うむ。しかし親父殿がその豪腕で併呑して今の織田になってな。
その中であれこれと金も稼いで大いに財政を潤してくれたから引き継いだ俺も上手くやれてるわけよ」
伊達に尾張の虎などと呼ばれてはいないのだ。
「っと……そろそろ俺は戻るがお市」
「はい?」
「近い内に他の兄弟達も集めて茶会を開く、家族同士で仲を深めるためにな。参加してくれたありがたい」
「……是非に!」
などとアットホームなやり取りをしている織田家。
しかし、織田家が平穏であっても他総てが平穏などと云うことは当然あり得ない。
畿内では既に不穏の兆し、更なる乱世の火が今か今かと爆ぜようとしている状態だった。
大和国と河内の国――奈良と大阪の国境に存在する信貴山城。
その天守では腹の中が暗黒天体になっている者達が密談をしていた。
内訳は男三人――三好長逸・三好政康・岩成友通の通称三好三人衆。
そして最後の一人が女、名は松永弾正久秀。
これより後、歴史に残る大逆事件を起こすことになる四人だ。
「公方様の増長、昨今目に余る――そうは思いませんかな?」
三好長逸がそう切り出す。
久秀と共に三好家を支える双璧、三人衆のリーダー格だ。
「然り然り。現実と云うものを分かっておられぬ御様子」
政康が話を引き継ぐ。
この会話こそが幕府のハリボテ具合を示していると云っても過言ではないだろう。
日ノ本の実質的支配者――であるはずの室町幕府。
その幕府の将軍を調子に乗っているなどと云っているのだから権勢も無きに等しい。
欠片も存在しない忠、向けられているのは侮蔑のみ。
こんな状況でも足利復興を目指す現将軍義輝は素直に凄い。
並みの者では諦めて放り捨てていただろう。
義輝ほどの人間、他家に生まれればもっと楽で幸せな道も探せただろうに。
そう考えると不憫な男である。
「やれやれ……男の癖に随分と回りくどい物言いじゃないかえ?」
松永久秀、齢はもう五十を超えている。
だと云うのにどうだろう? 見た目は三十を数えたばかりの熟れ頃にしか見えない。
年増と云えば年増だが、女としては脂が乗っていると云っても過言ではない。
狐を想起させる知性と毒が滲む瞳。
内側にはね気味となっている肩まで無造作に伸ばされた髪。
露出の多い遊女のような派手な着物。
これが武士であると誰が想像出来ようか。
悪女――それ以外の形容以外がまるで浮かんで来ない。
この場に居る面子はどいつもこいつも悪人だが、中でも久秀は他三人とは役者が違う。
「此処は妾の城だえ、何をおためごかす必要があらんや」
コロコロと喉を鳴らす久秀に三人も笑みを返す――が、コイツら別に仲が良いと云うわけではない。
三好三人衆からすれば久秀は女の癖に自分達と並んでいる――いやさ、一歩先んじている目の上のタンコブ。
機会があれば排除してやると思っている。
今は利害の一致を見ているから手を組んでいるだけ。
「聖剣を抜いた織田信長の台頭、畿内を牛耳っていた三好も今は昔。
長慶様が身罷られ、早いとこ畿内を牛耳るために我らの傀儡になり得ぬ現公方が邪魔で邪魔でしょうがない。
素直にそうお云いよ。少なくとも妾はそう思っておるが、三好の御三方は違うのかえ?」
「……いいや、違わんよ」
「であろ? さあ、実りの無い話は止めようじゃないか。妾はせっかちな性質ゆえ」
女狐め、と云う悪態を喉の奥で殺し長逸は大きく頷く。
「最近御所の護りを固めようと改修を行っているらしいが、それを待つほど我らも人好しではない」
「しかし、軍を動かす名目はどうする?」
「清水寺参詣、とでもすれば良いんじゃないかえ? どの道悪名は免れぬ。であればテキトーでも構わんであろ」
既に兵も密かに集めているし、鉄砲の数も十分。
ハッキリ云ってしまえば今日にも行動を起こせる状況だ。
「後釜には現公方の従兄弟にあたる義栄殿を傀儡として立てるつもりだが……松永殿」
「ああ。和田や細川らはそれを認めず対抗馬を立てるだろうねえ……京に一人と大和にも誰だったか……そう……公方の妹君……」
さして興味もない名前なのでイマイチハッキリとしない。
別に加齢によってアルツハイマってるわけではないのである。
「覚慶であろう。女の身ではあるが、しかし還俗して将軍になれぬこともない」
女の身であろうともむしろ大逆人が立てた傀儡よりゃよっぽど大義名分がある。
「松永殿、公方殿を討った後、即座に大和へと向かって欲しい。京におるもう一人の弟は我らが始末する」
「覚慶を殺せて御言いかえ? 放って置いても良いと思うが……ま、長逸殿の頼みだ。承ったよ」
その後、一時間ほど細かい打ち合わせを行った後、解散と相成る。
一人になった久秀は目を瞑り、何時か見た光に思いを馳せていた。
「……嗚呼」
感極まった艶声が漏れる。
瞳の裏に浮かび上がるのは今は亡き主君、長慶の命で京に詰めていた頃に見たあの光景。
業務の疲れを癒すために羅城門の清浄な空気を当たりに行った際、偶然立ち会ってしまった。
歳若い若者が聖剣の選定に挑み、そして聖剣を引き抜く瞬間に。
あの瞬間、胸に去来した感情をどう例えたものか。
感動――などと云う言葉では決して括り切れないほどの衝撃。
光が暗雲貫き蒼天を露にし、穿たれた雲の隙間から差し込む太陽のスポットライト。
あの日あの場所あの瞬間、世界の主役は間違いなく織田信長だった。
史実において梟雄だ何だと云われる松永久秀。
正確な歴史における久秀はともかく、今この瞬間を生きている久秀は梟雄に相応しい精神性を持っている。
しかし、しかしだ。信長がエクスカリバーを抜くまでは忠臣の鑑でもあった。
主君三好長慶を支え、三好家の柱石として一生を使い果たすつもりだったのだ。
だが、あの日見た光が久秀を忠臣から梟雄へと変貌させた。
云ってしまえば恋だ、恋は人を狂わせると云うが松永久秀と云う人間もその通りに狂ったのだ。
これまで心の重きを占めていた長慶の姿は消え失せ、信長しか見えなくなった。
老いらくの恋と笑わば笑え、久秀自身も自覚はしている。
世継ぎのためにとテキトーな男から種を頂戴し子を産んだ。
さりとて男女の恋やら愛などには微塵も興味がなかった。
なのでこれは初恋だ、生まれて初めて抱いた遅咲きの恋。
布団に顔を埋めてバタバタしてしまうほどに恥ずかしい。そんな歳かよ弾正久秀と自分を哂いもした。
だけど、
「……恋慕うてしもうたのだからしょうがないわえ」
網膜に焼き付いた光は目を閉じても消えることはない。
久秀は信長と直接の面識はない。
しかし顔を合わせずとも、言葉を交さずとも、自信があった。
自分は誰よりも信長の考えていることを理解しているのだと。
「ふふふ、織田に降る時は何を手土産にしようかえ。ああそうだ、茶器じゃ」
信長の茶の湯好きは有名だ。
まあ、それはプレミア付けをして土地や城の代わりに褒美とするための布石なのだが。
だとしてもそのためには色々茶器やら何やらを蒐集しなければならないので茶器を土産にと云うのも間違いではない。
「如何なる理由であれ、の」
久秀もその辺りは看破していた。
マーリンや藤乃ですら信長が意図を説明せねば理解出来なかったのに、だ。
茶器プレミアム作戦を知るのは信長当人とその意図を説明された彼の女のみ。
家臣に気付かれてはならないので当然と云えば当然だが基本的には内密。
だと云うのに久秀は読み切っている、信長を理解していると云う自負もあながち間違いではないのだ。
「さて、何を送ろうか……」
久秀個人は茶の湯が好きで茶器も大好き。
それゆえ名器を幾つも所持しているが、信長に渡すと云うのならば惜しくはない。
「――――ももとせに、ひととせ足りぬは九十九髪。我を恋ふらし俤にみゆ」
伊勢物語の一節をそらんじる久秀。
濡れた声がやけに艶かしいが、これは中々に皮肉が利いている。
この歌の背景を簡単に説明するなら子供が三人も居る良い歳したババアが若い男に現を抜かしていると云ったもの。
そら、松永久秀と織田信長にピタリと嵌まるではないか。
物語の老女も片想いだったし、久秀も片想い。現状にそくした教養人らしい彼女なりの自虐であり諧謔。
「うむ、献上するのは九十九髪茄子で良いであろう」
一千貫もの金をかけて手に入れた一級品の茶器。
巷の茶人達の間では垂涎ものの一品だが、久秀はそれを惜しげもなく渡すことに決めた。
九十九髪茄子は後世において天下三茄子に数えられ、その中でも最も高い評価を受ける茶器だ。
信長への献上品にこれ以上のものはあるまい。
「ふふ、楽しみじゃのう」
心地良い眠気が身体を満たしていく。
夢と現の境で久秀は想う。
今、この段で信長が考えている大戦略を看破しているのは自分しか居ないと云う自負がある。
だからこそ此度の暗殺が成れば間違いなく第一功。
信長と対面する際に自分が気付いて、その上で行動を起こしたとあれば信長はどんな顔をするのだろうか。
「嗚呼――――待ち遠しい」
そう呟き、久秀の意識は夢の世界へと旅立って行った。




