鈍色の剣
Ⅰ
その日から剣の稽古と魔法の訓練、それから学業の合間を縫ってインクルストに剣を教える日々が続き。気が付けば、この世界に来て三週間ほどの時が過ぎていた。
相変わらず、イリアンヌの動きは御しきれず、エリーの両親は苦労しているようだ。だが、その甲斐あって別荘での一件から今日までイリアンヌに大きな動きはなく。比較的に平和な日々を送れている。それが酷く危ういバランスの上に、成り立っているのだと知りつつ。
「んー」
午後の座学の授業が終わり、休み時間に差し掛かった頃のこと。
「シュウ、どうかしたの? 一時限目からずっと上の空じゃない」
「あぁいや、別に上の空って訳じゃあないんだけれど。ちょっと気になることがあってな」
「気になることって?」
「もしかしたら、誰かがエリーを狙っているかも知れない」
気になること、それは敵意である。今朝アークインド学園に登校した際、俺は微かにだが、たしかにそれを感じ取った。どこの誰から発せられた敵意なのかは知らないが、現状が現状である。警戒を怠る訳にはいかず、朝からずっと四方に気を配っているのだ。
エリーが俺のことを上の空だと言ったのは、これが原因だろう。
「……それはこの学園の生徒?」
声が一段低くなり、声量も絞られる。
「いや、たぶん違う。奴さん随分と気配を消すのが上手い。かなりの熟練者だ。貴族の坊ちゃん嬢ちゃんが殆どを占めるこの学園の生徒に、こんな芸当が出来るとは思えない」
「そう決めつけるのは早計じゃない? 気配を消す魔法を使っているかも知れないでしょ?」
「そんな魔法を使う生徒を知ってるのか?」
「それは……知らないけれど」
仮に、そんな魔法を使う生徒が実際にいたとしても、現段階での特定は無理だ。
アークインド学園に在籍する全ての生徒の魔法を把握している訳じゃあないし。先生に開示要求した所で、素直に教えてくれる筈もない。こればっかりはエクイストの名前を出しても無理だろう。
個人情報の漏洩なんて致命傷だ。
「それに、だ。もし気配を消す魔法を使っていたとしたら、相当な持久力だぞ。今朝、敵意を感じてから今この時まで五時間か六時間くらい経っている。魔法ってそんなに持続するものか?」
「常識的に考えれば不可能ね。けれど、定期的に休みを入れれば出来ないこともない。休むときには此処を離れれば良いだけだし。それにそもそもシュウに敵意を感じとられて、私の誘拐を中止した可能性だってあるわ」
「姿を見せずにチャンスを窺っているのに、定期的に休んでちゃあ意味がない。この時点で敵が気配を魔法で消せるって線は消滅している。敵意を感じ取られて、作戦を中止したって可能性は拭い切れないが、たぶんそれもないよ」
「どうして?」
「考えても見ろよ。イリアンヌはエクイストの別荘を襲撃したんだぜ? そんな強引な手に出たってことは、相手に時間的余裕がないか、相当痺れを切らしているってことだ。そんな状況下で、敵意を気取られたからって中止するとは考えにくい」
そう聞くと、エリーはしばし考え込んだ後に、ゆっくりと口を開く。
「そうね。考えて見れば、相手はもう引くに引けない状況にある。敵意を気取られて、存在が露呈したのだから、今日を逃せば次の日からもっと警戒が厳しくなる。最悪、学園に登校してこない。仕掛けるなら今日、今この時でしか有り得ない。イリアンヌに余裕がないなら、尚更」
エリーに「そう言うことだ」と返事をする。
だからこそ、俺は警戒を怠れなかった。生徒の多い教室や、先生がいる授業中はさほど心配なかったが。廊下を移動する際や、襲われやすい場所を通るときは、細心の注意を払いながら移動していた。さながら見えない敵と戦っている気分である。
「これで本当に敵が誘拐を諦めていたら、お笑い種ね」
「そうであってくれるほうが良いんだけれどな」
エリーを危険に晒すくらいなら、居もしない敵を警戒しているほうがずっと良い。間抜けで滑稽なことだが、安全という言葉の前では儚く霞むていどのことだ。
「でも、どうしてそれを早く言わなかったのよ」
「理由は二つ。エリーに話したら、じっとして居ないのが分かり切っていたのが一つ。もう一つは、時間を掛ければ特定できると踏んでいたからだ」
「特定できてないじゃない」
「耳が痛いが、その通り」
敵意を感じ取った次の瞬間に、敵は完全に行方をくらましていた。それ以降、向こうも慎重にならざるを得なかったのか。俺が警戒の糸を張り巡らせた範囲には、決して踏み込んでは来なかった。
それでも何処かで強襲をかけてくる筈だ。狙い目はエリーの周りにいる人間が少数になったとき。つまり手洗いに行った際や、放課後のタイミングだろう。だが、それをただ待つだけでは、防戦一方だ。勝つためには、こちらから攻める必要がある。
「だから、こっちから攻めに行く」
「具体的には?」
「俺が人気のない所へ行って、敵を誘い出す。向こうも護衛は排除して置きたいだろうから、食い付いてくるはず。そして襲いかかって来たところを、返り討ちにしようって算段だ。上手く行けば捕縛できるし、逃がしても今日の安全は確保出来るだろう」
「随分とアバウトな作戦ね」
言う通りだが、複雑怪奇である必要がないのも事実だ。
「けれど、監視されている可能性が高い現段階で、悠長に罠を張っている余裕もない。パパとママに連絡して応援を呼ぶことも出来るけれど。もしそうしたら、敵が強行手段に出て他の生徒に危害が及ぶかも知れない。結局のところ、シュウの言ったアバウトな作戦に踏み切るしかないのよね。攻めに転じるなら」
「言っておくけれど。このアバウトな作戦に、エリーは参加させないからな」
面倒なことを言い出す前に、釘を刺しておく。
「……分かってるわよ」
「その微妙な沈黙はなんだ」
絶対に分かってなかっただろう。
代々、非好戦的であるというエクイスト家の令嬢がこれなんだもの。俺の予想は見事に当たっていた訳だ。言ったことじゃあない、早くもじっとして居られなくなっている。釘を刺していなければ、きっと「私も戦う」と言い出していたに違いない。
「良いか? エリー。護衛の対象が前線に出て戦ってちゃあ、護衛役の意味がないだろ。じっとして居られないのは分かるけれど。今日の所は我慢してくれ、俺がなんとかしてくるからさ」
「分かってる……でも、シュウ。きちんと生きて帰ってくるのよ」
「善処するよ。それじゃあ行ってくる」
席を立ち上がって、教室の出入り口へと向かう。
「ん? あれシュウくん、どこに行くんだい? もう授業が始まるよ」
教室を出た矢先に、ベッキーと鉢合わせとなった。
「ちょっと野暮用があってな。それを片付けに行くんだよ。あ、そうそうベッキーに頼みがあるんだけれど」
「頼み事? なになに?」
「エリーの様子を見ててくれないか? 無茶しないようにさ」
「無茶? ……あー、はいはい」
それらの会話から、現状をなんとなく察したのだろう。エリーとベッキーは気の置けない仲だ。エリーの性格を熟知しているし、それなりにエクイスト家の現状も知っているはず。だから、俺が言葉にしていない意図さえも、彼女は容易く悟ってしまえるのだ。
「お安い御用だ、と言いたい所だけれど。人に物を頼むときは、それ相応の対価を払わないとねぇ」
「ふむ……まぁ、頼み事をするんだ、それは仕様がない。なら、俺は何を対価にすればいいんだ?」
「おっと、別に今すぐに払えとは言わないよ。それはシュウくんが野暮用って奴が終わってからで良い。そのほうが何かと得だ。あたしはその間にゆっくりと、対価の内容を考えているからさ」
「なるほど、この商売上手め」
「褒めたって何も出ないよ」
褒めてなんて居ないんだけれど。まぁ、それは別に良いか。
「それじゃあエリーのこと、頼んだぞ」
「はいよ。エリーはきちんとあたしが見ておくから、安心して行っておいで」
その言葉を背にして、俺はどこか広く開けた場所を探して廊下を歩く。
後顧の憂いは断てた。ベッキーと言う見張り役が居れば、エリーは無茶が出来ないだろうし。なにより、エリーがレベッカ・オルケイネスと一緒にいることが、この上ない防御になる。
七大貴族の一角たるオルケイネス家の令嬢だ。ベッキーとエリーが一緒にいる状況で、イリアンヌは決して手出し出来ない。なぜなら二人を襲うと言うことは、七大貴族のうち二つを敵に回すことになるのだから。
「さて、敵さんはどう出るかな?」
そう独り言を呟いた頃には、すでに教室は背後にない。ここはエリーから遠く離れた学園内、真っ直ぐに伸びる人気のない廊下である。授業開始の鐘の音は、少しまえに鳴り終わり。今はただ静寂だけが鎮座している。
「まぁ、決まり切ったことだけれどな」
言い終わるや否や。刀の柄に手を伸ばしながら、素早く背後を振り返る。
視界に捉えるは鈍色に光る剣、すでに鋒は弧を描いている。一息もつく間もなく、それは身を斬り裂くだろう。その対象が、ただの魔法使いだったならば。
剣による攻撃を脳が認識するより早く、肉体が行動を開始する。身体に染みついた動作は、一つの無駄なく役割を遂行し。刀は抜かれ、刃は軌道をなぞる。一息の間に割り込んで、斬り込んで、鈍色の剣を直前で阻んだ。
「よう、やっと会えたな」
一瞬の鍔迫り合いの後、薙ぎ払うように剣を振るい。敵を、黒いフードを被った薄気味悪い男を、強引に後方へと追い立てる。これで距離が少し開く。そう思っていたのだが、次の瞬間に俺は敵の姿を見失っていた。
「消えた? 後ろかッ」
唐突に姿を消し、そして唐突に現れる気配。それは背後にあり、俺は再び後ろを振り返るという行動を取らされる。そうして改めて視界に捉えた敵の姿は、変わらず黒いフードの男だ。さっきと変わらぬ鈍色の剣をもって、俺に斬撃を浴びせてくる。
同じ格好をした敵が複数いるのか? それとも幻を見せられている?
そう思い浮かべるうちに、またしても敵は消え。また視野の外、死角に移動している。一合二合と打ち合い、消えて、また現れる。それ何度か繰り返すうちに、敵の魔法がなんなのか。だいたいの見当が付いてきた。
「瞬間移動、か」
高速移動ではない。走る、歩くを省略し、消えて現れる瞬間移動。それがこの黒いフードを被った男が使う魔法だ。どうやらエリーの読みは外れていたみたいだな。気配を消すどころの話じゃあない。
「チッ」
魔法を見破られるや否や。敵は瞬間移動を駆使して、一瞬のうちに距離を取る。
今の様子だと、捕まえるのはほぼ不可能に近いだろう。壁を越えて瞬間移動されたら、その時点で見失う。追いかけても無駄、徒労に終わるだけだ。
仮に捕まえられたとして、斬魔の刀を身体の何処かに当て続ければ、一応は魔法の発動を防ぐことができる。だが、それはあまりにも現実的じゃあない。身を切る覚悟で抵抗されれば、確実に逃げられてしまうのだから。
と、なれば、俺に出来ることは限られてくる。
「あんたの魔法、たしかに見破った。生きて帰ったら、俺の雇い主にこの事を洗いざらい喋ってやるから覚悟しておけ。エクイスト家は明日から厳重警備だ。絶対に攫えやしないぞ、たとえ瞬間移動が使えたとしてもだ」
捕まえられないのなら、戦闘を長引かせて出来るだけ情報を得る。そして、出来れば一撃を浴びせて、しばらくの間、戦闘不能にさせる。それくらいが良いところだ。
「自分の魔法を秘密にしておきたいのなら、俺を殺してみることだな。もっとも、あんたのその貧弱な剣技剣術じゃあ、どだい無理な話だろうがな」
煽るように言葉を発し、黒いフードの男を挑発する。口調はイリアンヌを手本とした。
「よく喋る口だ。そんなに早死にしたいか」
その結果、思惑は思いの外、上手く行く。
鈍色の剣を逆手に持ち替えたフードの男は、瞬く間に姿を消し。そして俺の死角に場所を移す。先ほどと同じ手だ。投擲をして来ないということは。それ用の武器を携帯していないということか。
「馬鹿の一つ覚えが通用するのは最初だけだッ」
振るわれた鈍色の剣を、刀の一振りによって弾き返し。一歩、間合いに踏み込み、刀の軌道を翻す。進行方向を変え、フードの男を強襲した刃。しかし、それは人の身を斬ることなく、その場にある空気だけを断つに終わる。
また瞬間移動が発動した。攻撃から逃げられ、背後を突かれる。俺はそれに対抗すべく、またしても身体の正面を背中と入れ替えた。
「へっ」
けれど、この攻防ではっきりとしたことがある。
それは瞬間移動と瞬間移動の合間。つまり連続して魔法を使う際に、フードの男は必ず一呼吸を挟むということだ。魔力の生成に呼吸が必要となる以上、それは瞬間移動をするたびに魔力を作っているということに他ならない。
フードの男が一呼吸で作れる魔力の量は、魔法一回分しかないのだ。
魔法の燃費が悪いのか。奴の魔力生成量が少ないからか。具体的な原因はあずかり知らぬところだが、そうと分かれば付け入る隙は幾らでも作り出せる。
「よう、あんた」
斜め下方向へと振るわれた鈍色の剣を受け止める。
「その魔法、燃費が悪いのか?」
投げかけたその言葉は、フードの男の動揺を誘う。
それは些細なことだった。ほんの一瞬、僅かな時間。弱点を見破られて動揺したフードの男は、剣に込めていた力が緩む。必然的に軽くなる剣戟に好機は生まれ、十分すぎるほどの隙が生じる。俺はそれを見逃さなかった。
「貰ったッ!」
鈍色の剣を上方向へと押し上げ、強引に攻撃の糸口をこじ開ける。同時に、がら空きとなった腹部に、右足を突き出して靴底をあてがい。体内の空気を吐き出させると共に、前方へと蹴り飛ばす。
足が浮き、空中を強制移動させられるフードの男は、けれど辛うじて廊下を転がることなく持ち堪える。だが、それも織り込み済みだ。吐き出した空気を吸い上げる暇など与えない。
蹴りを繰り出すと共に駆けだしていた俺は、すぐにそれに追い付き。体勢を大きく崩した所へと、研ぎ澄ました一閃を薙ぎ払う。空を裂いて馳せる刃は、たしかに人間の肉体を斬り裂いた。
「浅いッ」
飛び散る鮮血と、宙を舞う鈍色の剣先。
刀はフードの男を斬りはしたが、刻んだ傷は浅い。その肉体に刃が入る直前、軌道上に差し込まれた鈍色の剣によって太刀筋を逸らされたからだ。すぐに二撃目を放ち、二の太刀を浴びせにかかるが、時すでに遅し。
フードの男は大きく息を吸い、瞬間移動した。攻撃はあえなく空振りに終わり、刃は敵を逃してしまう。
「ここまでだな」
まだこの目で敵の姿は捉えられている。フードの男は俺の攻撃範囲外に移動しただけで、逃げた訳ではなのだから。でも、戦闘自体は此処で終わらざるを得ない。俺と敵との距離は、さほど遠くない。けれど、瞬間移動の魔法を扱う相手を前にして、この距離は致命的だ。何をしても取り逃がすだろう。
「貴様は必ず……この手で殺す」
フードの男は今一度、大きく息を吸って姿を消した。上の階か、下の階か、それとも横の空き教室かも知れない。いずれに瞬間移動していても、もう奴を追うことは不可能だ。
「……五メートル前後か」
そう呟きながら刀を振るって、刃に付着した血を払い。鞘に収めて、来た道を戻っていく。エリーの所に行って報告だ。先の戦闘で得た情報を伝えなくてはならない。エクイスト家に帰ったら作戦会議だな。色々と対策が必要だ、なんとかしてエリーを守り抜かないと。