永劫の希望
何だか、とても長い夢を見ていたような気がする。俺は目を開けて、外の世界の明るさに驚いた。
「目、覚めたかな」
そう言ったのは、葛西ではなくて、八束さんだった。
「ここは・・・・・・?」
「保健室、だよ」
白い清潔なシーツが、俺の下に敷かれていたことに気付いたのは、今だった。
本当の、保健室だ。
八束さんの前には、象潟聡が目を閉じていた。
「まだ、目が覚めないんだ」
「・・・・・・よっぽど、信じられなかったんでしょうね、八束さんが生きてるのが」
「・・・・・・聡はね、僕と付き合い始めた頃から、MCT開発を放棄したんだ」
彼の独白が始まった。俺は、知りたかった答えの一つが、彼の言葉の中にあるような気がして、耳を傾けた。
「サンタクロース社から技術を奪おうとしていたムネモシュネは、それを許さなかった。だから、僕を殺したことにしたんだ」
「・・・・・・記憶だけを、遺して、ですか」
あの、湖での出来事。八束さんは、ずっと、山を見ていた。一体、いつ自分が死ねばいいのか、そのタイミングを見計らっていた。自分の記憶を、握りしめて。
「聡は、僕の記憶を再生しようとして、MCT開発に本格的に力を入れた。だけど、MCTが制限されて、予定調和が狂ったのには、本当に焦った。彼女は世界の脅威になろうとしたし、本当に、その一歩手前だった」
彼は、淡々と喋った。
「それでも僕は、きっと、彼女を信じてたんだと思う。いつか、目が覚めるんじゃないかって。・・・・・・結局は、こんな終焉を遂げてしまったけれど、僕は、七割方満足してる」
「・・・・・・あとの三割は?」
「彼女が、君達に、大きな傷を付けてしまったのが、どうしても飲み込めない」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・僕からのお願いだ、どうか、彼女を許してやってくれないだろうか」
「俺は・・・・・・不可抗力の罪の前でならいくらでも寛容になれます」
「ありがとう」
沈黙が、訪れた。聡の息だけが、狭い空間の空気に波紋を作っている。
およそ五分後。
「・・・・・・朝祇は、どこですか」
俺は背を向けている八束さんに尋ねた。こちらを向こうとしない八束さんに、俺は、不安になる。
「・・・・・・君を、待ってるよ。二人のサンタクロースが、君を待ってる」
俺の心臓が、一度、大きく脈打った。
朝祇と――都。
都が、俺を、待っている・・・・・・? どうして。俺なんかを。
「・・・・・・夜交君」
「・・・・・・なん、ですか」
俺の声は、震えていた。俺は、未知の世界に飛び込もうとしている。それが、たまらなく怖い。
「僕からの言葉だ。・・・・・・あんまり自分に嘘を吐き過ぎると、そのうち自分が何処を歩いてるのか解らなくなるよ」
どくん
俺は聞き覚えのある言葉に俯いて、
「・・・・・・・・・・・・俺、やっぱり嘘吐いてたんですね。あんなにも、都のことが」
「僕に言うべき言葉じゃない」
八束さんの温かい中断の言葉に、俺は再び顔を上げた。
もう俺の顔に、曇りは残っていない。
俺は、やっと気付けたから。自分が歩くべき道に。
「早く行きなさい。彼女は、ずっと、君を待ってたから」
八束さんの声に、俺は唇を噛んで、溢れ出してきそうな涙を、何とか堪えた。
俺は、保健室を、飛び出した。
都と朝祇は、体育館横の大きなニセアカシアの樹の近くにいた。
都は幹の近くに、朝祇は少し離れた位置に。
「夜交・・・・・・」
「心配、させたかな」
「あ、当たり前っ、でしょ・・・・・・」
足音がして、俺はその方向を見た。朝祇が去っていく、その足音だった。
「私、もうこれ以上、大切な人を失いたくなかったから――」
風が、流れた。都の涙が、姿が、眩しすぎる。だけど、俺は、目を逸らさなかった。
ただ、久しぶりの涙だけを流して、微笑んでいたと思う。
「夜交には、きっと、解らない言葉だと思う。きっと、はぐらかしちゃう言葉だと思う。だけどね、私には、言っちゃうしかもう選択肢が残ってないのっ」
解らない、言葉。
拒絶して、きっとはぐらかしてしまう、言葉。
「ずっとずっと待ってた。夜交のことを。いつか気付いてくれるんじゃないかって、いつも期待してた。だけど、夜交の壁は、あまりに高すぎて、厚すぎて、私の言葉なんて届くはずがなかった・・・・・・! まだ夜交には解らないかも知れないよ? だけど、私、夜交が解ってくれるまで、ずっと待ってるから」
その言葉の先を、俺はもう知ってる。
「夜交、私ね、君のこと、大好きなんだよ――?」
俺は、俯いて、言葉を探した。辛うじて言えたのは、
「・・・・・・ありがとう」
・・・・・・こんな、訳のわからない感謝の言葉しか言えないのか、俺は。
だって、俺は、感謝しきれないほどのものを、貰ってしまっている。
俺の、幼かった頃に築きあげてしまった壁を破壊するための言葉を、仕草を、与えられてしまっている。
それは、香春都の心。
それは、きっと、傷付いていて。
それは、与える度に削られていて。
それでも君は、俺のために笑ってくれた。
これでも、俺が、まだ真実を、本当の心を明かさないなんて――自分に嘘を吐き続けるなんて――そんなことしたら、俺はまた、自分を許せなくなる。
もう、嘘なんか、吐かない。きっと、それが幼いときに与えられるべき選択肢だった。
――やっと、解ったよ。問われ続けていた、質問の答えが。
真実が顔を覗かせて、俺は道化を脱ぎ捨てた。
――――彼女が待ってる。
――都が待ってる。
もう、待たせちゃいけない。クリスマスが過ぎてしまう。
だから俺は、サンタクロースの袋の中で一番輝いているものを、君に贈ろう。
「――ありがとう、愛してるよ」
*
俺はある日、朝祇と八束さん、都と共に、病院に向かった。
製造公式が消えて一週間、象潟聡は、一度も目を覚まさなかった。
「医者は、特に何も問題ないはずだ、っていうんだけどね・・・・・・」
八束さんは自分を安心させるかのようにそう言った。
俺と朝祇と都は、今日初めて、病院にいる聡に会いに行く。彼女達は今、何を思っているのだろうか。
「何だか、変な感じだね、今までずっと敵だと思ってた人のお見舞いに行くなんて」
朝祇は言った。
「だよね」
俺の横の都は、笑いながらそう言った。
「だけど、私はもしも聡さんが目覚めたら、一番いい終わり方になると思う」
「僕も、そんな終わりを期待しているよ」
「・・・・・・私は、もっといい終わりがあると思う」
朝祇は、ぼそりと言った。
「え?」
俺は朝祇の方を見た。
「ううんっ、何でもないの」
彼女はぶんぶんと首を振る。
「・・・・・・もうすぐ、病院だよ」
八束さんの言葉で、俺達は白い建物を見る。
この病院に来るのは、初めてだった。俺達は、眠る聡を目指す。
彼女は白いベッドの上で、毒の林檎を囓ったように眠っていた。
「聡・・・・・・」
八束さんは彼女の手を握った。
「・・・・・・彼女は、孤独だ」
俺がその言葉を放ったのだという事実に気がつくまでに、数秒の時間を費やした。
「何を、言ってるんだい」
八束さんの声が、やけに遠く感じる。それは、・・・・・・俺のいる空間が、象潟聡の記憶の中だからだろうか。
真っ黒な壁に囲まれた部屋に、彼女が一人でぽつんと立っている。一点の光もない、ただ広く、暗い世界。彼女の身体を、鎖が縛っている。
俺が、かつていた場所。
そこにいる彼女は、怯えていて。無言で、無表情で、あの時の俺のように、一つ、願っていた。
許して。
俺は病室に突っ立ったまま、彼女の記憶を見て、そして涙している。俺が手に入れたものは、彼女から奪ったものだったのか。そんな考えが頭をよぎる。
それとも、彼女は初めから孤独で、それを、嘘でがちがちに固めて、自分がどこにいるのか解らなくなってしまったのか。
許して、という言葉の行き先は、俺ではなく、都でもなく、ましてや朝祇でもなく、きっと、八束さんに向けられたもの。
「彼女は、大きな罪を犯したから、呪縛の鉄鎖に絡め取られてしまった。もう、自分で自分を許せない。だから、八束さんを待ってる」
「・・・・・・どうして」
「八束さんが象潟聡にとって、この世界で絶対の人だったからです。彼女自身と言ってもよかった。もうあなたしか、彼女を許すことができないんです」
八束さんは、大きな溜息を吐いた。悲しみの詰まった息に、俺は罪悪感を抱いてしまう。
「・・・・・・彼女は、罪を犯していない」
「精神的な問題なんですよ、きっと」
彼女の鉄鎖の主成分は、きっと俺達には計り知れないほどの複雑な感情だ。後悔、怒り、寂しさ、閉塞感――。それら全てを言葉にするのは、素数の法則を解くよりも難しいだろう。
「君じゃ、駄目なのか」
「・・・・・・怖いんですか」
「・・・・・・ああ、怖いよ。僕がいなかった長い年月の中で、彼女の気持ちが変わってしまったんじゃないかと思うと。僕は、傲慢だ。自分は何も特別な人間ではないのに、特別に評価されなければならない人間だというわけでもないのに、愛されたいと思ってしまう。――僕は本来、愛されるべきではない人間なのに」
「俺、言いましたよね。彼女の中を占領していた記憶は、あの、湖での記憶だったって。あなたを捨てるような人が、その記憶をずっと頭の中に置いておくと思いますか? サンタクロース社は、MCTが世界でトップだったんですよ? 辛い記憶は――消してしまおう、そんな考えだって、思いついたはずです。それでも彼女は、掌にあるあなたの記憶を追い求めて、あなたの思いを知ろうとした。そんな人が、八束さんを捨てたわけがない」
八束さんは、拳をぐっと固めた。
「彼女を、救ってあげてください」
俺はそう言って、病室を立ち去ろうとした。朝祇の気配がないことを感じ取って、ドアから出る寸前、病室の中を伺う。
「八束さん、これ」
朝祇は何かの紙を、彼に渡していた。
「・・・・・・ああ、僕は、こんな約束をしていたんだね」
彼は朝祇に微笑んで、そっと彼女の背中を押した。
三十分ほどの時間が経って。
「・・・・・・来て、くれるかな」
病室から顔だけを覗かせて八束さんは言った。俺達は病室前のソファを立って、白い部屋の中に入った。
「・・・・・・目が、覚めたんだよ」
八束さんは、嬉しそうに目を細めて、極めて穏やかに笑った。
「・・・・・・・・・・・・みんな、ごめんね、」
ベッドの上の聡が、俯いてそう言った。俺達は顔を見合わせる。
「全く、気にしてません。むしろ、俺達が礼を言いたい」
「どうして・・・・・・?」
「過去と踏ん切りが付いて、そして、大切なものに、たくさん気付けたからです」
聡はぽかんとしていたが、すぐに顔をくしゃりとゆがめて、大粒の涙を零した。
「聡・・・・・・、彼らは、誰一人君のことを恨んでいない。嘘は、ないよ」
それでも彼女は涙を流し続けて。
号泣する声を聞きつけた看護師達が来ても、その嗚咽混じりの泣き声は止まなくて、嬉しさとか、希望とか、これからとか、そんな、明るい未来の水溶液は、とどまることを知らなかった。
「朝祇、あの時八束さんに渡したものって、何だったんだ?」
病院からの帰り道、俺は朝祇に歩きながら訊いた。
「契約書だよ。・・・・・・誓約書かな?」
「何の約束?」
「言わないっ。秘密は守りますっ」
「何が秘密なんだ?」
「だから言わないってば。直に解るよ、ちゃんと」
「じゃあ、今教えてくれたっていいだろ」
「だーめ」
俺は、否定しながらも妙に上機嫌な彼女を見て、そっと微笑んだ。
*
数週間後、象潟聡と三塒八束の結婚式が、サンタクロース社敷地内で行われた。
俺も朝祇も、そして都も、あと筆箱の人も、その結婚式に招待された。高校生が参加するには、盛大すぎる式だった。だけど、この式には、俺達に対する謝罪の意味も込められているのだろう。
「朝祇、お前が渡したのって、婚姻届だったの?」
「そうだよ、象潟っていう名前出したら、直ぐに受付のお姉さんがくれたの」
「・・・・・・そうか」
いろいろ言いたいことがある。
「夜交っ、聡さん、とっても綺麗だよ、ほら」
都が前方を指さす。
「え? あ。ああ。そうだな・・・・・・」
ステージの上には、招待された人々に笑顔を振りまく象潟聡、いや、三塒聡がいた。
「はああ、チャイナドレス以外も、似合うんだな、あの人」
「・・・・・・・・・・・・」
感心していると、ジト目で睨んでくる女子が二人。
「・・・・・・ごめんってば」
朝祇の、サンタクロース衣装のブーツの踵が、右足の小指に刺さってもの凄く痛い。
「・・・・・・そう言えば、お兄ちゃん」
「話を始める前に足を退けてくれ。指に風穴が開く」
「ピアスだって思えばいいんじゃない?」
都が左足を踏んでくる。足にピアスなんて斬新すぎて着いてけない。
「二人とも近いぞ。外何度あると思ってるんだ。今は一応夏なんだからな」
「・・・・・・で、そう言えばお兄ちゃん」
足を退ける気はどうやらないらしい。
「市役所に行ったついでだったから、私達、正式な兄妹になったよ」
「ほ」
間抜けな声が無意識に投げ出された。
「市役所の人、お前でよく納得したよな・・・・・・」
「象潟の姓出したら、すぐにやってくれたの」
「・・・・・・そうか」
俺は何となくこの都市怖い、と思った。
「これからは、ちゃんとした、れっきとした兄妹だからね」
笑顔の朝祇が、眩しい。
「あ、そうだ。養子の申請もしといたから」
「――――は?」
*
結婚式が終わった後、着替えるより前に、八束さん達がやってきた。
「ということでよろしく、夜交君、朝祇ちゃん」
目の前の八束さんが、握手を求めてくる。俺はその手を握って、曖昧に笑う。
「ほんとですか、俺達が養子になったって」
「ほんとだよ? 聡も、賛成してた・・・・・・たぶん」
「ですよね、朝祇が養子縁組したときって、聡さん、ばっちり寝てましたもんね」
っていうか、養子縁組って、ちゃんと八束さんと聡さんの意思表示ができてないと駄目なんじゃないのか・・・・・・? 家庭裁判所にも行ってないぞ、俺達。最近の市役所って、何でもやるんだな。朝祇は明らかに未成年者なんだから、そう簡単に養子縁組するなよ・・・・・・。オーストラリアのコスプレイヤーか何かと勘違いしてたんだろうか。
「今までずっと命狙ってたみたいなものなのに、今日から家族なんて、何だか実感沸かないわね。・・・・・・夜交君は、何歳?」
ほら、この人、子供になる人の年齢さえ知らないじゃないか。
「一応まだ十六歳です」
「八歳しか変わらないのね、親子間で」
「見た感じ、姉弟の関係にしか見えないですよね。聡さん、見た目実年齢より若いし」
「・・・・・・お兄ちゃん」
だから、踵落としは止めてくれないかな? 我が、妹よ。
「これから家族となるわけだけど、たぶん家事は夜交君の方がスキル積んでるんだろうね。僕達の方が、君に教わることは多いかもしれない」
「そんなこと・・・・・・」
俺は曖昧にはにかんだ。
*
俺達が暮らす家は、今まで通り俺の家に決まった。表札には、『三塒』という文字が刻まれている。
三塒八束と三塒聡、そして三塒夜交と三塒朝祇。これが三塒家の家族だ。
今、俺達は都や筆箱好きの少年、葛西先生と夕食を食べている。久しぶりの、笑い声だ。
「いいな、朝祇ちゃん、私もついでに姉妹にしてくれたらよかったのに」
「都ちゃん、養子でも、一応ちゃんとした血縁関係になるんだよ」
「?」
「お兄ちゃんと都ちゃんが兄妹になっちゃったら、結婚できないよ?」
「――なっ、あ、さぎ、っちゃん・・・・・・」
最近、本当に朝祇がおかしい。何だか、妙に人間らしくなったというか、精神が年齢に追いついたというか、とにかく成長しているんだろう。うん。おかしいわけではないんだろうな。
「夜交、委員長を泣かせたら、っていうか女の人を泣かせたら、本当に駄目だからな」
「・・・・・・解ってるよ」
「でも夜交君、さらっと人を傷付けるの上手いよね?」
「先生、駄目ですよ、シアン化水素を夜交のご飯に入れちゃ」
「先生は堂々と殺人行為をするの止めましょうね」
「はーい」
彼女のしょぼくれぶりに、皆が笑う。
俺の目の前に、愛し合う二人。
俺と共に笑いあってくれる、友と先生。
俺の右には、守るべき家族。
そして、左には、都がいてくれている。
これだけいれば、もう求めるべきものは何もない。
ずっと感じることができなかった温もりに俺は抱かれて、
――ああ、俺は今、なんて幸せなんだろう。