その54
口付けられている事よりも、まず自分の舌先が感じる鉄錆びた味に生理的な嫌悪を感じた私は、すぐにハクジャの左腕を掴んで自由になろうともがく、が、びくともしない。
「ぐっ・・・む、うっ・・・」
それならばと、彼の胸に爪を立てて必死に腕を突っ張るが、その動きも残った片手にすぐに押さえ込まれて、図らずも触れてしまったハクジャの体が死人のように冷たい事に気付いて背中を震わせた。
そうやってもがく間にも、彼の口から滴るようだった血液が、ぬめるような感触と共に少しずつ私の口内へと入ってくる。
ドロリと、粘性のある感触を舌の上に感じて、私は塞がれてあげられない悲鳴の代わりに、無駄と分かりつつも全身であらがった。
「っ・・・!くう・・・っ」
「・・・・・・」
渾身の力を込めてみても、やはり捕らえられた上体はふりほどけない。
無言のまま、傷ついている筈の右手だけで私の両腕の動きを封じたハクジャは、獣めいた縦長の瞳孔でじっとこちらを見つめている。
一体、彼は何がしたいのか。
私なんかをこんな風にからかって何が楽しいというのか。
悲しさと悔しさに四肢を震わせながら、私は、せめて口内の血だけは吐き出したいと、合わさった彼の唇からずらすように顔を横へと反らせた。
が、そんな少しの動きも許される事はなくて、すぐさま、ハクジャの口が私の口へと追いすがってくる。
「ぐ・・・むっ」
結果的により深くなってしまった口付けに、必死の抵抗で舌先でせき止めていた血が、勢いよく私の喉へと流れ込んできた。
呼吸も苦しくなりつつあった私にはどうすることも出来ず、あっと思った瞬間には、ゴクリと、その鉄臭い液体を喉を鳴らせて飲んでしまっていた。
その何とも言えない後味と、どう仕様もない後悔に顔を青ざめさせていると、私が血を飲んだことを確認するかのように歯列をひと舐めしてから、ようやくハクジャが顔を離した。
「・・・・・・」
何というか、もう言葉も出ない。
私は、口の周りに残る血の跡を気にする余裕も無く、呆然と部屋の中に立ち尽くした。
犬に噛まれたとでも思って忘れてしまいたいが、その犬が実は人間だった場合はどうなるのか。
こんな事、一体何と言ってネストールさんに申し開きすれば良いのだろう・・・。
私は俯かせた頭を手で抱えて、身悶えするように体を捩った。
って、何で私がネストールさんに言い訳しなくちゃならないのっ?
そもそも、あの陰険軍師がさっさと助けに来ないから、こんな事故が発生してしまった訳で。
ああっ、そう考えると、何だかネストールさんの方が憎くなってきたぞおっと、私が最大限、今起きた事から逃避していると、目前のなんちゃって吸血鬼からぶっきらぼうな声が私にかけられた。
「おい、考え中のところ悪いが、お前には回廊を抜ける為の魔法を掛けた」
「・・・ま、ほう?」
「そうだ。血肉を媒介にした、教主がオレから力を奪うのにやっているのと似たようなものだ。で、現状、呪縛に掛かったオレには、お前に伝えるべき言葉が無い。だから、お前が直接、教主を見極めてこい」
「はあ・・・?」
何事もなかったかのように、落ち着いて話すハクジャが恨めしくて、私は精一杯の嫌悪を声音に乗せて聞き返した。
魔法を掛ける為だか知らないが、あんな事をやった後ならまず私に言うべき事があるだろう?
それに、彼は自分のやりたい事に私を利用したいだけみたいだし、素直にお願いを聞いてやる理由もない。しかも、彼はさっき教主を「主」と呼んでいた。つまり、ハクジャは私をここに監禁した教主の部下な訳で、そんな下克上ちっくな事に協力するとか、なおのことお断りである。
大体、私はこの部屋から出られないのだ。よしんば、協力しようとなったとしても、動きようがない。
「ふん、気に入らないってツラをしているな。だが、安心しろ。無理強いするのはこれっきりだ。お前がどんな判断をくだそうと、今後お前をどうこうするという事は無い。というか、姿すら見せたくない。オレはお前みたいな女はもうこりごりなんだ」
「はあ・・・?」
本日二度目のはすっぱな私の声が室内に響く。
いつもの小心な私からは考えられない態度だが、さすがにあんな事された後にこの言葉では呆れもする。
というか、こっちこそ、小型犬が正体のセクハラなんちゃって吸血鬼とか願い下げである。ふんだっ。
「まあ、そんな事はどうでも良い。とにかく、お前はさっさと行ってこい」
そして、ひとつ息を大きく吐いたハクジャが、ギラつくような赤い目をこちらに据えて、一旦は離れていた距離を再びずいと詰めてきた。
「ひっ・・・」
身にしみた恐怖というか、嫌悪に、勝手に身が竦んで背後の壁にこつんと背中が当たる。
脳内弁慶ですいません!だって、怖いんだもの!ていうか、血は拭おう?白い肌と前髪に血が点々としていて、見た目の迫力が凄まじいことになっていらっしゃいますよ?いや、多分、私の顔もそんな感じだとは思うけれど。
息を呑むようにして、壁にこすりつけた背中を出口の方へと逃がすが、当然、部屋の扉には鍵が掛かっていて開ける事は出来ない。というか、出れたとしても私の足には鎖が繋がっている訳で、逃げる事は不可能・・・って、あれ?
「く、鎖が・・・無い・・・?」
確認するように見下ろした先には、無理矢理七分丈にしたズボンの裾から覗く自分の足しか無く、ふと視線を巡らせば、部屋の中央に鎖に繋がったままの足枷がパカリと錠部分を開けて転がっている。
「気付くのが遅いな。扉の鍵も今、開けた。教主のところまではオレが掛けた魔法で迷わず行ける筈だ」
そして、淡々と続けられるハクジャの言葉が、あまりの驚きに呆とする私の耳を通り過ぎていった。
室内ではずっとはめたままだった足枷が無くなって、軽くなった足が何となく心許なく感じられる。
「おい、さっさと行けと言っただろう。魔法が切れたら、お前、回廊で迷って死ぬ事になるぞ?」
「・・・!?」
「教主が昔に掛けた迷いの魔法でな。神殿内部の特定区画を定められた人間以外が歩くと、迷宮に取り込まれて出られなくなる。確か『無限回廊』と呼んでいたか」
何、そのちょっと格好良い名前。
って、厨二的な何かをくすぐられている場合じゃない。
私は、手洗いの時に歩いた部屋の外の薄暗い通路を頭に思い浮かべた。はからずも、連れてこられた時にダンジョンっぽいなと思った事があったが、まさか本当に迷宮だったとは。
鍵も開けたとハクジャは言っていたが、そんな不気味な通路にこの部屋が直で繋がっているかと思うと、足下からヒヤリとした冷気が立ち上がってくるようだ。
ん、でも、ちょっと待てよ?
何だか、部屋から出てそのおっかない通路、『無限回廊』を抜けて教主に会いに行くの決定、みたいな流れで話しているが、別に行かなければ良いのでは?
大体、会いに行って私にどんなメリットがあると言うのか。
ただ、ハクジャがそれを望んでいるというだけで、下手をすると、教主に気に入られているらしい今の待遇も失って、過去、この部屋に監禁されたという7人だかと同じ結末を辿りかねない。そんな危ない橋を私が渡る必要、無いよね?
「お前、まさか、部屋から出ていかないつもりか?」
「・・・・・・」
「・・・本当にこりごりだ。いいか、さっさと出ていくんだ。そして、教主のあり方をその目で見てこい。さもないと」
さもないと?
「今度は接吻だけでは済まさんぞ?」
ズゾゾと、全身の後ろ半分を踵から背中まで撫であげられたような悪寒に、私は跳ねるようにして扉へと急行した。
薄く笑ってねめつけるハクジャに急かされるようにして、私は慌てて扉のノブに手をかける。
すると言われた通り鍵は開いていて、肩をつけて弾みを付けると、重い扉はわりかしスムーズに押し開く事が出来た。
私は、開いた扉の先に頭だけを出して、きょろきょろと外の様子を窺った。
そして、誰も居ないのを確認すると、いつの間にやら部屋の椅子に座り込んでいたハクジャへと振り返った。
すでに出血は止まっているようだが、手首を包帯の上から押さえて息を荒げている様子は、小型犬が正体のセクハラなんちゃって吸血鬼といえど痛々しい。私は心配になって歩みを戻しかけるが、すぐに赤い目に睨みつけられて動きを止めた。
「行きは灯りだけを追っていけ。帰りは逆に暗がりだけを。魔法は夜明けまではもつから、それまでに引き上げろ。分かったな?」
こくりと、私は鉄扉を後ろ手にしたまま、ハクジャに頷いた。
そんな私を見やって、険のある表情を解いた彼は、広角を皮肉っぽく上げて口を開く。
「行ってこい、この引きこもり女」
「・・・・・・」
その憎たらしい言葉に、私はさっさと部屋の外へと体を滑り込ませると、バタンと、力一杯扉を閉めた。
所詮、私の力なのでたかが知れているが、静かな通路には案外とその音は大きく響いた。
ひたひたと、壁伝いに歩く私の足音が、長い通路に小さく反響している。
私が監禁されていた部屋の近辺は燭台が多めで明るかったのだが、ちょっと進むと、道幅を把握するのも難しい程に暗い通路が伸びていた。ハクジャが掛けたと言った魔法のお陰か、通路の右側だけに2メートル間隔くらいで明かりが点っており、薄暗いなと感じる程度で問題なく進めている。
その明かりに手を翳してみると、熱は感じず、また翳した筈の手の影も出来なかった。もしかしたら、これは私だけが見えている幻視めいたものなのかもしれない。
つらつらと考えて、暗闇への恐怖を紛らわしていると、分岐路へと差し掛かった。
T字に分かれた通路の左の方にだけ、ずっと壁にあった魔法の明かりが続いている。
私は迷う事なく左へと曲がると、いよいよ迷宮じみてきたなと額の汗を拭った。
私が部屋を出て歩きだしてから、体感ではあるが、既に30分くらいが経っている。その間、通路はずっと直線で、時折思い出したように見慣れた鉄の扉が点在する以外は、変化のない場景が続いていた。
成人男性の歩く速度が時速4キロと聞いたことがあるから、30分ならその半分で2キロ。で、私の足だと考えるとさらにその半分で1キロ。幾ら大きな神殿だとは言え、内部の、それも私を監禁するような用途で使う区画が、直線だけで1キロも広さがあるものだろうか?
「でも、所詮、体感だからなあ」
と、ひとりごちていると、長い直線から初めて曲がった道はすぐにまた左へと曲がっていた。
一本道なので当然そのまま魔法の明かりも続いており、私はやや肌寒く感じる体を暖める意味も兼ねて足早に通路を進んでいく。すると、今度は10メートルも進む事無く通路は左へと折れていて、更にまた同じくらい進むと通路が左に折れていた。ちなみに、感じる限り通路に勾配は無い。
「・・・・・・」
もはや、何も考えるまいと、私は、不思議と疲れを感じない体に後押しされるように、まっすぐと伸びたその通路をひたすら前へと進んでいった。




