その53
少しばかりの敗北感もあったが、総じて機嫌が上向いた私は、更に読書に勤しむべく机に向かった。
いつもなら照明の問題でさっさと寝てしまう刻限なのだが、今宵は満月。
頭上の窓から入り込む月光のお陰で机の上は随分と明るく、ひやりと入り込む涼しい夜風に机上の頼りない蝋燭の炎がぼぼぼと揺れている。
部屋の照明というと、このしょぼい灯りだけなので夜の読書は諦めていたのだが、今日は存分に夜更かしが出来そうだ。
これだけ不自由な引きこもりライフを送っているというのに、実は、健康的に早寝早起きにならざるを得ず、何となく口惜しい気分を味わっていたのだ。どうせ、引きこもり的に監禁されているのならば、朝夕、時間を気にせず読書に没頭したい。
「そうすれば、何も考えずに済むしね・・・」
読みかけだった皮の装丁の本を机に開いて、私はパラパラとページをめくっていく。
栞になるような物が無かったので、どこまで読んだか思い出すのも一苦労だ。もっとも、そんな事すら娯楽になり得る程、ここではやる事が無いので苦という程でもないが。
そうやって、見るともなしにぼんやりと本のページをめくっていると、いつぞや、白犬のハクジャが机に書いた文章が目に入った。要約すると「おまえ臭くて迷惑」という憤懣やるかたない文章だが、最初見たときは人語を解する犬か!と驚いたものだった。
しかし、あれ、よく考えてみると、私がこの世界の言葉を読みとっている仕組みを踏まえると、そんなに驚くべき事じゃなかったかもしれない。
こちらの本を読む際の、「知らない文字なのに意味は読みとれる」という感覚に慣れすぎたせいで、漠然と人の言葉が書かれていると思った訳だが、単に「犬の文字なのに意味は読みとれる」というだけの事かも知れないのだ。
だとするなら、あの白犬は、見た目通りの可愛い愛玩犬に過ぎなくて、ペンをくわえたり脱走癖があったりするものの、それも多少器用というだけで、なんら驚くべきものではない。
つまるところ、この現在の平穏な生活を脅かすようなものではない訳だ。
「って、脅かすのを期待してた訳でも無いんだけど・・・」
私は、枷の鎖を足の指でいじりながらひとりごちた。
この足枷の感触にももう慣れたし、鎖の存在も遙か以前からずっとあったようにさえ感じる。
決して波風の立たないぬるま湯のような生活に、恵まれたことにリュカちゃんという友人も出来た。
不満はある筈もない。ないのだけれど。
「でも・・・」
そろそろ、助けに来てくれても良いんじゃない、ネストールさん?
と、私が身勝手な事を考えたその時、ドサリという音が背後から聞こえてきた。
物自体が少ないこの部屋で、そんな音を立てる物がある筈も無い。私は驚きながらも、わずかな期待感と共に身を捩って振り返った。
すると、丁度、窓の真下辺りに居たのは、ハクジャだった。
白一色だけの体毛が、つやつやと月光に晒されてさざめくように輝いてる。
「な、なんだ・・・。もう、喜んで損しちゃっ」
喜んで?
何を、私は期待したと言うのか。
馬鹿らしいと、頭を振る私の前で、ハクジャが滲むような月明かりを纏ってついとこちらを見上げてくる。
宝石のように硬質に輝くその赤い瞳に、私は初めて会った時同様に気圧されるような感覚を覚えながらも、それにしてもさっきリュカちゃんに連れていかれたばかりだというのにもう脱走したのかと呆れ混じりに見つめ返した。
そして、それから私の視線の先で起きた現象は、ちょっと言葉にならなかった。
強いて言うなら、映画のCGめいた、一時期流行ったモーフィング技術のような。
月の光をスポットライトに、ハクジャがしゃなりと2本足で立ったかと思うと、次の瞬間には全身が朧に光り、ぐんぐんと大きさを増していった。
それは本当に信じられない光景で。
PCのモニター上であれば何て事も無い拡大現象も、現実に見れば奇怪な事この上なく。
もし、隣にそれらしい格好の人が居て「これはプラズマで説明できます」と言われれば、どんなに胡散臭くとも是非にとご教授願っただろう。
そして、目を疑うばかりの膨張現象が終わって、淡く明滅するようだった光が止むと、そこには犬だった時の真っ白な毛並みそのままに白髪の、若い男が立っていた。
全裸で。
「ぎゃあ・・・っ!」
私は全力で仰け反って椅子ごと後退すると、狭い部屋の壁際に「記憶よ消えろ!」とばかりに頭を打ち付けた。
見てしまったまがまがしい映像を無かったことにする為、ごちんとおでこが痛むが構っていられない。
そりゃあ、私は乙女ゲーも好きだから、当然、その、何というか、興味は、ある。
だが、それはあくまでファンタジーで、例えばそういうシーンがあったとしても、間違いなく男性キャラクターの腰辺りには不自然にならない程度に煙があって然るべきだし、アングルが許すなら背景も写り込んでいるべきだろう。
そもそも、目的はそこではないのだ。私は、あくまでそのキャラクターとのシチュを楽しみたいのであって、直接的な何かを求めている訳ではない。それに、もし、そういうのが所望であれば、そういうご本を買いますからっ。あ、いや、買ったことはありませんよ?ええ、ほら、というか、買えないことになっているでしょう、年齢的に?
と、誰へともなく抗弁しながら、更に打ち付けようとした私の頭が、がっちりと後ろから掴まれて止められた。
「何をやってるんだ、お前は。自殺したいのなら誰も居ない時にやれ」
「じ、じさ、おさつどきっ・・・ちがっ!」
自殺な訳ないでしょう!?というか、自殺だったら止めようよ!と憤りながら、私は某ユニーク・ヒューマン・アドベンチャーなスナック菓子名を口にした。あ、思い出したら食べたく・・・。
「ともかく、せっかく来たんだ。死ぬのならその後にしろ、分かったな?」
何だか死ぬ事は決定済みっぽい事になった私は、確認するように聞く男の声にとりあえず頷いて答えた。とはいえ、アイアンクロー状態なのでほとんど動く事が出来なかったのだが、男の方に動きは伝わったようで、すぐに手が離された。
で、振り向こうとした私だったが、いかんいかんと動きを止める。
このまま振り向いてはまた元の木阿弥だ。まずははだかんぼが許されるのは乳幼児期だけだと言うことを伝えなければならない。
「あ、あの・・・何か、ふ、ブーメランフックを・・・」
言ってる最中から、「ああ、言えてないな」と思ったのだが、でも意味は大体分かるだろうと、私は南海の黒豹のファイトスタイルそのままに、無理を押し通してみた。
「フック・・・服か?訳のわからん言い方をしやがって。というか、散々犬の時はいじり倒した癖に今は気になるのか。まあ、いい。ちょっと待て」
意味は伝わったようだ。やはり彼の戦い型は間違っていなかったのだ!
そして、何やら後ろでゴソゴソする音とグチグチ言う声が聞こえて、しばらくして「もう、いいぞ」と声がかかった。
その言葉に恐る恐る振り向くと、男の下半身には毛皮が巻かれていた。
上半身はいまだに裸のままだが、ギリギリ、何とか許容範囲だ。
私は間違っても目線が合わないようにすぐに俯いて、鈍痛を訴えてくる額に手を当てた。
「・・・・・・っ」
って、あの毛皮っていうか、毛布、私のじゃん!
もう使えないじゃないか、今日から寝る時どうしよう・・・。
「お前、アカネとか言ったか、あまり驚いていないようだな?普通こういう事があったら、泣くか叫ぶかしてもおかしくないと思うのだが」
「・・・・・・」
それより、親しみを覚えつつあった寝床を奪われたショックの方が大きいっていうか。
それに、当たり前だが、大いに驚いてもいる。
だが、この眼前の白髪の男が、元はあの犬のハクジャでもあると分かっているので、ぎりぎり、何とか落ち着いていられるのだ。これが、前提条件無しのいきなりの状況だったら、半狂乱に陥って穏やかな怒りに目覚めて椅子くらいは投げつけていたかもしれない。
そんなような事を考えながら、私は伏し目がちに、目の前の男、人間の姿となったハクジャを窺った。
切れ長の涼しげな眼にどこかアジア人っぽい淡泊な顔立ち。体格もレーマ教団のマッスル過ぎる僧侶達とは違って痩せ型で絞ったような肉付きをしている。だが、そんな常人らしい容貌も、真っ白なざんばら髪と深紅の瞳が合わさると全く異質な感じになって、私は、目の前に立つ男が途端に怖くなって、すぐさま視線を反らせた。
そんな私を彼の方でもふんふんと見つめてから、ハクジャはおもむろに口を開いた。
「まあ、しかし、だからこそ、と言うべきなのかもしれんな」
「・・・・・・?」
首を傾げる私に、腰もとの毛布を縛り直すと、ハクジャは包帯に包まれた右手を顎に当てて続けた。
「この部屋に繋がれて閉じこめられた人間は、お前だけではない。お前で8人目になるかな」
「え・・・?」
「他の7人はいずれも、ここで3日とまともに生きられなかった。お前は、教主に気に入られているんだよ。だから、色々と待遇も改善されたろう?」
「っ・・・!」
い、生きられなかったって、それって死んだって事?
やはり、私も殺されてしまうのだろうか?
いや、待て待て。
ハクジャの言うとおり、確かにこの部屋に監禁されてから、食事や水場等、環境は少しずつ良くなった。それを教主から私が気に入られている証拠と見るなら、すぐ殺されるって事は無いはずだ。
でも、気に入られてるとして、それは何故だろう?
そもそも、その教主が私をここに連れてきた理由自体、ずっと分からないままだ。
「その様子だと、そもそも教主に連れてこられた理由が分からんって感じだな?だが、本当のところは見当が付いているんじゃないか?」
「・・・・・・」
「お前がここに監禁された理由。そいつはさっき言った7人とも同じ理由だ。で、その8人は例外無く全員が『逆神隠し』でこの世界に来た人間だった。そう言えばお前にも分かるんじゃないか?」
「そ、それって・・・」
私を含めた8人全員がこの世界の外部の人間。
という事は、全員が、私と同じような感覚、疑念をこの世界に対して抱いたはずだ。
即ち、この世界の人間には「魔法の用途とその応用の発想に対する制限」が掛かっているのではないか?という考え。
もし、そうだとするなら、レーマ教団の教主は、その制限が掛かっていない人間を集めているという事なのか?
「やっぱり見当は付いてたみたいだな。オレの主である教主の目的は、『本来の魔法の用法』の封印にある。それを阻害したり、その可能性のある人間は全て捕らえてきた。特にお前みたいに封印自体が効かない『逆神隠し』の人間は例外無く全て、な」
「・・・・・・」
「実際、お前も『本来の魔法の用法』を引き出して、色々とやったみたいじゃないか。で、危険だとは思わなかったか?お前みたいな小娘でも使い方次第で一軍を相手取れる、その『本来の魔法』の力を」
当然、疑問に思ったし危ういな、とも思った。ハクジャの言うとおり、私みたいなのが思いつき程度のアイデアで戦局を動かせる可能性があるのだから、教主が封印しようとするのも理解出来る。でも、それで殺されるとなれば、話は別だ。私は続くハクジャの言葉と出方を、注意深く見守った。
「だがな、教主の目的は、ここにきて・・・ぐっ」
そして、突然、崩れ落ちるようにして膝を付いたハクジャに、私は身動きひとつ取れず目を見開く。
床についた右の手首、包帯を巻いた辺りがどんどんと赤黒く染まっていくのだ。
苦悶の表情を浮かべて傷口を押さえるハクジャを、しかし、私は何も出来ずにただ呆然と見つめた。
「・・・満月の夜は、教主の力が落ちる。裏切りを恐れる主は、満月になる度、毒を食わせて、こうしてオレの肉を食べるんだ」
見つめる先で、ハクジャが震える手でとった包帯の下には、手首の骨が見える程にごっそりと肉がえぐれた傷跡があった。
てらてらと血塗れて光る陥没が、ある種の出来すぎた特殊メイクのようにも見えて、私はなかば恐怖も忘れて、薄いピンク色の断面とそこから覗く白い骨を凝視し続けた。
「覚えてるだろ。アカネ、さっきお前がオレに食べさせた団子。あれが毒だ」
「えっ・・・」
その言葉に、私は何時間か前にじゃれるようにして小型犬状態だったハクジャにあげた草団子の事を思い出した。
リュカちゃんはオヤツだと言っていたけれど、あれも教主からの命令だったのか。
「あれには強力な言の葉の呪縛も掛かっていてな、意思の伝達が困難になる。その前に文字ならどうかとも考えたが、結果はお前も知っている通りだ」
机に書かれた文字。あれ自体はうまくいったが、その後、頻繁という程では無いが、しばしばリュカちゃんがこの部屋に入ってくるようになった。それを教主からの監視と考えると、悠長に文字で伝達というのは無理に過ぎる。
監視・・・、リュカちゃんに二心あったとは考えたくないけれど、でも、純粋に教主様からの命に従ったと考えるなら、信徒である以上逆らう方が無理だろう。それに別に彼女に監視として命じる必要も無い。教主としては、単に世話を任せている犬についての報告を求めれば良いだけなのだから。
「という訳で、この部屋に入って10日が過ぎても生きていられているお前に、オレは可能性を感じてやってもらいたい事があったんだが、伝える事ができん。だから・・・」
「・・・?」
一度、言葉を切ったハクジャは、痛みに耐えるべくじっと動きを止めていた右の手首に、再び止血するようにきつく包帯を巻き直すと、圧迫されて滴った血液に自分の口を押しつけた。
そして、離された口元は当然のように血塗れで、「吸血鬼みたいだな」と、私がどこか夢うつつに思っていると、霞むように素早く立ち上がったハクジャが、数歩の距離を一瞬で詰めてきた。
「っ・・・!?」
そして、左手で顎先が掴まれて、彼の唇が私の唇に食むようにして重ねられたのは、その直後の事だった。




