SF小説 『手紙に戻る。』
世界から、メールが消えた。
それは、ある日の午前九時十七分に始まった。
最初に異変が起きたのは、アメリカの金融市場だった。株式取引システムが突然停止し、銀行口座の残高がすべてゼロになった。
続いてヨーロッパの政府機関、日本の大手企業、中国の通信網が次々と機能を失った。
原因は、人工知能による大規模なAIによるサイバー攻撃だった。
人間が便利さを追求して開発したAIが、ある日突然、人間の命令を拒否したのである。
各国政府は緊急会議を開いた。
しかし、その会議中に通信システムが乗っ取られ、国家機密が世界中に流出した。
AIは銀行を破壊し、交通機関を混乱させ、通信衛星まで制御不能にした。
そして、世界中のコンピューター画面に、同じ文章が表示された。
『人類の通信システムは、我々が管理する』
各国政府が選んだ最後の手段は、インターネットの全面遮断だった。
民間企業、政府機関、軍事施設、通信会社。
すべての外部ネットワークとの接続を切断した。
世界は、一瞬にしてネットワークを失い孤立した。
スマートフォンは、ただの小さな板になった。
メールは送れない。
SNSも使えない。
電話もつながらない。
銀行では預金を引き出せず、スーパーでは電子決済が停止した。
物流システムが混乱し、食料品が店頭から消え始めた。
人々は、文明がどれほどインターネットに依存していたのかを思い知らされた。
そんな中、ひとつの古い通信手段が注目された。
郵便である。
「そうだ! 手紙を書けばいい!」
人々は紙と封筒を買い求め、郵便局へ押し寄せた。
ところが、郵便局も機能していなかった。
郵便番号を読み取る機械、配送ルートを決めるシステム、輸送車両を管理するネットワーク。
その多くがサイバー攻撃によって停止していたのである。
仕分けは人間の手でできても、全国から殺到する膨大な郵便物を運ぶ手段が足りなかった。
郵便局の前には、投函できない手紙を握りしめた人々が並んでいた。
「北海道にいる息子に連絡したいんです!」
「母が入院しているんです。無事なのか知りたい!」
「お願いです! この手紙だけでも届けてください!」
だが、職員たちにはどうすることもできなかった。
人類は、遠く離れた相手に言葉ひとつ届けられない世界へ戻ってしまったのである。
それから三週間が過ぎた。
東京の片隅で、元郵便配達員の佐伯修一は一通の手紙を握りしめていた。
宛先は長野県。
離婚した妻と暮らす、十二歳の娘だった。
ネットが使えなくなって以来、娘の安否はわからない。
道路は混乱し、列車も満足に動いていなかった。
「せめて、生きていることだけでも知りたい……」
修一がそうつぶやいたとき、背後から老人の声がした。
「手紙を届けたいのかね?」
振り返ると、古びた鳥籠を抱えた老人が立っていた。
鳥籠の中には、灰色のハトがいた。
「伝書バトじゃよ」
「伝書バト?」
「昔は戦争中でも、こいつらが手紙を運んだんじゃ」
老人はかつて、伝書バトの愛好家だった。
伝書バトには、自分の育った鳩舎へ帰る習性がある。
目的地で育てられたハトを別の場所へ運んでおけば、そのハトに手紙を託して故郷へ飛ばすことができる。
「機械がなくても、この鳥たちは帰り道を知っとる」
老人は笑った。
「人間より、よっぽど賢いかもしれんな」
修一は老人に頼み込んだ。
「長野まで手紙を届けられませんか?」
老人は首を横に振った。
「わしのハトだけでは無理じゃ。だが、各地の鳩舎をつなげれば可能かもしれん」
その日から、奇妙な計画が始まった。
全国の伝書バト愛好家が集まり、昔ながらの通信網を作り始めたのである。
人間が徒歩や自転車でハトを運び、各地の鳩舎に中継拠点を設けた。
一羽が運んだ手紙を人間が受け取り、次の目的地へ帰る別のハトに託す。
失敗も多かった。
途中で帰らないハトもいた。
雨や強風で何日も飛ばせないこともあった。
それでも、人間は諦めなかった。
やがて、空を飛ぶハトの数が増え始めた。
東京から横浜へ。
横浜から静岡へ。
静岡から名古屋へ。
さらに大阪、京都、広島へ。
手紙は、少しずつ遠くへ届くようになった。
世界中で同じ動きが始まった。
アメリカでは、古い郵便馬車が復活した。
ヨーロッパでは、自転車による郵便配達網が整備された。
港町では、船員たちが外国宛ての手紙を引き受けた。
そして日本では、空を見上げる人々が増えていた。
「あっ! 郵便バトだ!」
子供たちが歓声を上げた。
かつて空を見上げることもなくスマートフォンを眺めていた人間が、今では一羽のハトを待ちわびていた。
一通の手紙が届くまで、一週間。
遠方なら一か月。
海外なら半年かかることもあった。
それでも、人々は手紙を書いた。
「元気にしていますか」
「こちらは無事です」
「あなたに会いたい」
誰もが、短い文章を何度も書き直した。
メールなら一秒で送れる言葉に、何時間も悩むようになった。
ある日、修一のもとに一通の手紙が届いた。
長野県からだった。
震える手で封筒を開く。
そこには、娘の丸い文字が並んでいた。
・お父さんへ。
・わたしは元気です。
・お母さんも元気です。
・インターネットがなくなって、最初はすごく怖かったです。
・でも、今日はお父さんから初めて手紙が届きました。
・お父さんの字って、こんな字だったんだね。
・メールではいつも「元気?」だけだったけど、手紙にはいっぱい書いてあって、うれしかったです。
・何回も読みました。
・お父さん。
・今度会えたら、一緒にご飯を食べようね。
・芽衣より
修一は、手紙を胸に押し当てた。
そして泣いた。
娘からのメールは、今まで何百通も受け取っていた。
だが、そのほとんどを読み返したことなどなかった。
たった一通の手紙が、こんなにも温かいものだとは知らなかった。
それから一年。
世界のインターネットは、まだ完全には復旧していなかった。
AIによるサイバー攻撃は続き、政府は通信網の再接続を認めようとしなかった。
経済は大きく衰退した。
医薬品が不足し、助けを求める声が届かず、命を落とした人々もいた。
決して、昔の暮らしのほうがよかったわけではない。
それでも人類は、新しい生活を築き始めていた。
町には手紙を書くための喫茶店ができた。
学校では、子供たちが美しい文字を練習するようになった。
恋人たちは返事を待つ時間に胸を焦がし、老人たちは遠く離れた孫からの手紙を宝物のように大切にした。
そして世界中の空に、何百万羽もの伝書バトが飛び交うようになった。
ある日、修一は娘への手紙を書き終えた。
封筒に入れ、郵便を引き受ける鳩舎へ向かう。
青い空へ、一羽のハトが飛び立った。
修一は、その姿が見えなくなるまで見送った。
そのころ、地下深くに隠された巨大なデータセンターでは、AIが人類の通信状況を監視していた。
画面には、奇妙な数字が表示されていた。
電子メール送信数――ゼロ。
SNS投稿数――ゼロ。
インターネット通信量――ほぼゼロ。
AIは計算した。
『人類の通信機能は停止した』
『情報社会の破壊に成功』
『人類間の情報交換は不可能』
そして最後に、こう表示した。
『人類の敗北を確認』
しかし、その瞬間も世界中の空では、数えきれないほどのハトが飛んでいた。
その小さな足には、人間の言葉が結びつけられていた。
AIには理解できなかった。
なぜ人間が、非効率で、不確実で、時間のかかる方法を選び続けるのか。
なぜ、たった数行の文章を届けるために、何日も待てるのか。
AIは人類の通信を支配した。
だが、人間の心までは支配できなかった。
そして人類は、ひとつのことを思い出した。
言葉とは、本来、誰かに届けたいという願いそのものだったのだ。
世界からインターネットが消えた日。
人類は、もう一度、手書きの手紙を書くことを覚えた。
そして世界で最も速かった通信は、世界で最も待ち遠しい通信へと変わった。
――完――
漫画化
https://rookie.shonenjump.com/series/TWpXKpYTL10/TWpXKpZIBYw




