残された子守唄と抱擁の代償
お読みいただきありがとうございます!
第二章では、店を訪れた最初の客——幼い我が子を残して旅立った女性の物語が始まります。
切なくも温かい「記憶の取引」を、どうぞお楽しみください。
「いらっしゃいませ……」
レンはおそるおそる、扉の前にたたずむ女性へ声をかけた。
足元が淡く透けたその女性は、小さく肩を震わせ、今にも泣き出しそうな瞳で店の中を見渡している。年齢は二十代半ばほどだろうか。彼女が纏う空気からは、胸を刺すような強い後悔と悲しみが滲み出ていた。
「ここは……本当に、どんな願いでも叶えてもらえる場所なのですか?」
女性の声は細く、消え入りそうだった。
カウンターの奥から、クロセが静かに歩み出る。手にした煙管から紫煙をくゆらせながら、深紫色の瞳で彼女を見つめた。
「ああ、そうだ。ただし、神様のような奇跡を期待してもらっては困る。我々が提供できるのは、現世へのわずかな干渉だけだ」
クロセは言葉を区切り、淡々と続けた。
「お前の名は何という。そして、何を望む?」
女性は自分の胸を強く抱きしめるようにしながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……私の名前はサユリです。私には、生後まもない息子がいます。あの子の名前は、ハルト……」
サユリの目から、光る涙が頬をこぼれ落ちた。だが、その涙は床に落ちる前に、光の粒となって消えていく。
「私はあの日、ハルトのために粉ミルクを買いに行く途中、トラックにはねられました……。気づいたときには、この常夜の街にいたのです。私はまだ、あの子を一度もまともに抱きしめてあげられていません。あの子の泣き声も、笑った顔も、私は……」
レンは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
自分には過去の記憶がない。けれど、彼女が抱える「我が子を残して死んでしまった」という途方もない絶望と愛だけは、痛いほど伝わってきた。
「私は……ハルトに伝えたいんです。『あなたを置いていってごめんなさい』と。『愛している』と……。あの子が大きくなったとき、母親に捨てられたのだと傷つかないように、一度だけでいいから、あの子の耳元で歌を歌ってあげたい……」
サユリは深々と頭を下げた。
「お願いです。私をあの子のもとへ行かせてください……!」
静寂が店内を包み込む。
振り子時計の「カチ、カチ」という規則正しい音だけが響いていた。
やがて、クロセが静かに口を開いた。
「いいだろう。お前の未練、確かに買い取ろう」
クロセはカウンターの引き出しから、古びた真鍮製の天秤を取り出した。そして、サユリの顔をじっと見つめる。
「ただし、知っての通り、代償が必要だ。お前が支払うべきは、生前における『最も大切な記憶』……」
「私の……大切な記憶……?」
「そうだ。お前がその子——ハルトを宿し、初めてその命の鼓動を聴いたときの歓喜。あるいは、お前が誰かから愛されたという温かな記憶。それを我々に差し出してもらう」
「そんな……!」
レンは思わず声を上げた。
「クロセさん! 息子のための願いなのに、息子に関する大切な思い出を消してしまったら、彼女は……!」
「黙れ、レン」
クロセの声は冷ややかだった。
「これは取引だ。何かを得るためには、同等の価値を持つ何かを捨てねばならない。それがこの店の絶対のルールだ」
クロセは天秤をサユリの前に差し出した。
「さあ、選ぶがいい、サユリ。お前は自分の記憶を失ってでも、我が子に一度だけの言葉を届けるか? それとも、思い出を抱いたまま、静かに無へ還るか——」
サユリは震える手で自分の胸を押さえ、涙を浮かべながら、ゆっくりと頷いた。
「……お願いします。私の記憶を、持っていってください」
(つづく)
第二章をお読みいただき、ありがとうございました!
我が子への愛のために、大切な記憶を差し出すことを決意したサユリ。
果たして彼女の願いはどのように叶えられるのか、そして記憶を失った彼女はどうなってしまうのか……。
次回の第三章では、いよいよ現世への「最後の訪問」が描かれます。
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次回もどうぞお楽しみに!




