2-6 触れたい夜
夕月はベッドの端に座ったまま、ぼんやりとスマホの画面を眺めていた。
翔吾は今夜出掛けていて、久しぶりに1人の夜だった。
タイムラインが流れていく。誰かの猫、食事の写真、知らない誰かの空。翔吾からの通知がないことを確認して、画面を閉じる。
「翔吾、いま何してるかな。」
声に出すほどのことじゃなかった。
寂しさを紛らわそうとした声はただ、彼の不在を確かめただけになってしまった。
夕月は、ソファの背にかけてあった翔吾のTシャツに目をやった。
クリーム色の、少し首元の伸びたやつ。出かける直前まで、着ていた物。
それをそっと取って、ベッドに運んだ。
横になって、顔を埋めて、ため息をつく。
「……いないのに匂いだけ残してくの、ずるい」
煙草と、少しだけ汗の匂い。
指先に翔吾の肌の感触を思い出す。
寝る前に、ゆるく腕を回してくれるあの重さと温度。
それを今、勝手に再現している自分が、ちょっとだけ恥ずかしい。
「見られたら、馬鹿にするかな……。」
返事はもちろんない。でも想像の中の翔吾が、包むように抱き寄せてくれる気がした。
気がつくとカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
いつのまにか眠ってしまった様だった。
肩にタオルケットがかけられていた。
翔吾の背中が、寝ぼけた視界に柔らかく映り込む。
「…翔吾。……おかえり」
「おう。おはよう。クーラー寒くなかったか?」
翔吾の視線に気がついて視線を落とすと、腕の中の大きなTシャツがしわくちゃになっているのに気づいた。
気まずさが頬に熱を差す。
照れ隠しの言葉は、とっさのものだった。
「……ごめん。服、涎垂らしたかも」
翔吾が笑って夕月の頬に手を添える。
「ばぁか。どうでもいいよ。そんなこと。」
夕月は顔を逸らしかけたが、翔吾の腕が静かに頭を引き寄せた。
「今度は中身入りと寝てくれるともっと嬉しいけど。」
「今すっごく恥ずかしいんだから、そういう事言わないでよ……。」
「なんで? 俺めちゃくちゃ嬉しいけど。」
「だから、やめてって……。」
昨夜より強い香りに包まれて、自分で感じた吐息の熱が尚更恥ずかしかった。
──今、何時だ……?
時間も背景もわからない薄闇の中、翔吾は夕月を抱いていた。
何だか、いつもより胸も肩幅も一回り大きい気がした。髪も少し伸びた気がする。
それでも、その女は夕月の顔で笑っていた。甘い声で何度も名前を呼ばれるのが心地良かった。
食い込むほど強く肌に指を立て、思うまま欲望をぶつけた。
「……夕月、」
名前を呼んだ瞬間、翔吾は跳ね起きた。
「うーわ、ガキかよ……。」
頭を抱える翔吾の隣では夕月がすやすやと眠っている。
ぬるつく下半身に舌打ちしながら、夕月を起こさないようにベッドを降りた。
「くっそ、気色悪りぃ…。」
ぶつくさ言いながらシャワーを浴びてパンツを洗う。
最初の衝撃が過ぎると、沸々と自己嫌悪が湧いてきた。
夕月とはそれなりの頻度で身体を重ねているし、夢精するほど溜まっているとは自分でも思えなかった。
夕月をあんな風に抱いた事はなかった。夢に現れたのは、夕月の顔を貼り付けた欲望の幻影だった。
「……大事にするって言ったのに。」
ベッドの脇に座り込んで夕月の寝顔を見つめていると、先日自分のTシャツを抱いて寝ていた姿を思い出した。
「夕月、ほんとに、俺なんかで良いのかよ。……圭介の方が似合ってたんじゃねーの。」
頬をつつくと、僅かに眉がよった。
今の言葉を聞かれたら、きっと夕月は眉を吊り上げて怒るだろう。泣くかも知れない。
自分の中に渦巻く獣欲も女々しさも自覚して、それでも夕月の手を離してやれそうになかった。
カーテンの隙間から差す月の色だけがうっすら壁を照らしていた。
夕月は翔吾の寝息に耳を澄ませながら、そっと手を伸ばす。
伸ばしきる前に指は止まった。
ただ彼の肩に触れようとしただけなのに、言葉にならない気持ちで胸がつかえた。
触れたいという感情は、やわらかく温かく、胸の奥から泡のように浮かびあがるものだった。
けれどそれを晒した途端、自分が浅はかな欲を見せてしまうがした。
慎み深くあれ、と育った。
ヤれない女に価値はない、と突き飛ばされた。
焦るな、と言われた。
ではこの指先は、どこへやったらいい?
夕月は伸ばした手を胸元に引き戻し、もう一方の手で掴んで抑える。熱を沈めようときつく瞼を閉じた。
その時、翔吾の手が頬に触れた。目を開けると、翔吾がじっと見つめていた。
「……起きてたの?」
バツが悪くて、つい少し咎めるような響きになった。
「……悪い。またなんか悩んでるみたいだったから。」
本当は今、優しく触らないで欲しかった。
口に出してはいけない事を言ってしまいそうだったから。
「……私ね、前に、ヤれないならいる意味ないって言われた。」
タオルケットで顔を隠して告げると、野郎、と翔吾の凶暴な声が聞こえた。
「でもね、翔吾はエッチしなくても、私のこと大事にしてくれたでしょ。……私、触られるなら、翔吾がいいって、思った。今もちょっとだけ……、ぎゅってして欲しいって思ったの。」
喋っているうちに止まらなくなって、とうとう言ってしまった。
翔吾が息を吸ったのが聞こえた。
「……女の子が、こんな事言うの、おかしいよね。」
恥ずかしくて、いたたまれなくて泣いてしまいそうになった時、勢いよくタオルケットが捲られた。
翔吾が夕月の腕を掴む。涙が溢れて流れる前に、翔吾の指先が拭い去っていった。
なぜか翔吾の方が辛そうな顔をしていた。
「夕月、絶対おかしくない。だから泣くな。いくらでも抱きしめてやるし、触ってやる。でも、」
翔吾は一旦口を閉ざした。言葉を探しているようだった。
「ごめん、そんな糞野郎と同じだと思いたくないけど、俺も男だから……、夕月が欲しいって思ってくれたら、それは嬉しいと思っちまう。……正直、もっと色々したいと思った事もある。」
「翔吾、やっぱり我慢してた?」
「……違う。我慢したとか、お前の事責めるつもりじゃなくて……、ほんとに、お前の事大事にしたかったんだよ。」
翔吾はゆっくりと夕月を引き起こして抱き寄せた。
「だから、もし夕月が触りたいと思ってくれるなら、俺も、我慢するのちょっとだけやめる。いい?」
頷くと一度頭をなでて、翔吾はベッドを降りて行った。
バスタオルと水のペットボトルが数本。何も言わずに準備をし始めた翔吾に耳が熱くなった。
改めて向かい合った翔吾は、今までとは少し違う、どこか真剣さを秘めた顔をしていた。
「……俺、本気出すから。お前が、こういうの悪くないって思えるまで。だから、夕月も触りたかったら触っていい。絶対嫌いにならない。恥ずかしいとか、みっともないとか絶対思わないから。」
その言葉に夕月は頷いて、翔吾の手に身を委ねた。
「今日ちょっとかっこよかった?」
「んー……?」
少しだけ弾んだ翔吾の声に、うとうとしていた夕月は目を開いた。
「……ちょっと、恐かった。」
「えっ!」
「嘘。」
翔吾の焦った様子に夕月はくすくすと笑う。
大切に大切に施された翔吾の「本気」は夕月にとって未知の経験だった。 間合いを測るように少しずつ、でも確実に夕月の肌に熱を灯した。
思い出すと頬が熱くなって、夕月は枕に顔を埋めた。そのまま、くぐもった声で応える。
「……いつもかっこいいけど。…今日はちょっと違うかっこよさだった。」
「そっか。」
翔吾が少し笑って、夕月の赤くなった耳に触れる。
「正直、俺もこんな風に触ったの、お前が初めてだった。……本当は、もっとめちゃくちゃにしちまうかもって、怖かった。」
夕月は顔を上げないまま、翔吾の言葉を聞いていた。
「……これが、俺の本当の「本気」なんだってわかった。」
「私も。……もっと素直になろうって、思った。」
顔を伏せたままの、夕月の髪を翔吾の手が撫でる。
翔吾が触れたところから自分が解けていくようで、その心地よさに目を閉じた。
朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。 空気はぬるく、柔らかい。腕の中に、夕月がいた。
昨夜力尽きたままにうつ伏せて、小さく寝息を立てている
白い肩の上に髪が乱れていた。翔吾がそっと指先で梳いてやると、微かに眉を動かす。 まだ夢の中にいるようだった。
翔吾は、動けなかった。動きたくなかった。
この腕の中にいる彼女は、ただの恋人じゃなかった。
夕月自身の全てで、翔吾の全てを受け入れてくれた。
「……俺、ほんとにここにいていいんだよな。」
腕の中の夕月の、その安らかな寝息が翔吾にとっての答えだった。
翔吾は、夕月の髪に顔を埋めて、そっと目を閉じた。
「……お前、神さまみたいだな。」
その言葉は、ただ、翔吾の胸の奥に灯る光に、夕月という名前をつけただけだった。
朝の光が、少しずつ強くなっていく。
眩しさをかんじて目を開けると、カーテンの隙間から青い空が見えた。
寝過ごした、と思って起きあがろうとしたけど、怠くて諦める。
ベッドの脇に座った翔吾が夕月の髪を指先でそっと梳いていた。その手が、ほんの少し震えているのを感じた。
「……泣いてた?」
尋ねた声は昨夜の名残か、驚くほど掠れていた。
翔吾は一瞬、動きを止める。そして、夕月の額にキスを落として、 笑いながら言った。
「別に。俺の彼女が可愛いなーって思ってただけ」
「嘘つき」
「うん。嘘」
翔吾はあっさり認めた。でもそれ以上は何も言わなかった。夕月も問い詰めなかった。代わりに翔吾に向き直ってその手を握った。
「……ありがと」
「何が?」
「全部」
翔吾はいつも夕月の弱さも面倒くささも責めなかった。最初に翔吾を連れて帰ったのは夕月だったけれど、いつのまにか夕月の方が翔吾に救われている。
「夕月、もう少し寝よ。」
翔吾がまたベッドに上がってくる。
今日だけ、朝ごはんも洗濯も忘れて2人で眠ることにした。




