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終章:二つの転生、それぞれの幸せ

終章:二つの転生、それぞれの幸せ


パリの夜明け前。リュクス・アンペリアルの最高級ペントハウス。

秒針の音だけが響く静寂の部屋で、テオドール・ブランは一睡もすることなく、祈るように両手を組んで恋人の帰りを待っていた。

不意に、重いオーク材の扉がゆっくりと開く音がした。


「エレーヌ……!」


弾かれたように立ち上がったテオドールは、入り口に立つ人影を見て息を呑んだ。

そこには、足元をふらつかせ、壁に寄りかかるようにして立つエレーヌ・リジュの姿があった。

純白だったはずの最高級のオートクチュールドレスは、地下墓所の泥と瓦礫で無惨に汚れ、所々が破れ果てている。美しく結い上げられていた黄金の髪も解け、幾筋もの泥が白磁の頬を汚していた。

世界的コングロマリットの女帝として、常に完璧な美と威厳を保ってきた彼女からは想像もつかない、痛々しい姿だった。

だが――テオドールは気づいた。

彼女のサファイアの瞳には、これまで常に付き纏っていた裏社会の重圧も、言い知れぬ不安の影もなかった。まるで憑き物が落ちたかのように、ひどく澄み切った、穏やかな光が宿っていたのだ。


「テオ……」


リジュは、愛する恋人の顔を見た瞬間、張り詰めていた糸がふつりと切れたように、その場に崩れ落ちた。


「エレーヌ!!」


テオドールは床に膝をつき、泥にまみれた彼女の体を、躊躇うことなく力強く抱きしめた。


「一体どこに行っていたんだ! その傷と泥は……君に何があったんだ!?」


「ごめんなさい、テオ……っ。ごめんなさい、私が、私が間違っていたわ……!」


テオドールの広い胸に顔を埋め、リジュは子供のように声を上げて泣きじゃくった。

己の女としての平穏を守るためとはいえ、かつて命を懸けて仕えた絶対的な王に、あろうことか暗殺者を差し向けてしまった自身の底知れぬ愚かさ。

そして、そんな大罪を犯した自分を「有能な臣下」として許し、あまつさえ『その男の元へ帰り、女としての幸せを全うしろ』と、これ以上ない慈悲を与えてくれた、魔王の果てしない器の大きさ。

かつて三国志の時代。

軍師「李儒」として暴君・董卓に仕え、主君のために血塗られた暗殺や策謀を巡らせ、最後は共に破滅の道を歩んだ。あの時代、李儒の魂にあったのは、ただ冷徹な忠義と、血の匂いだけだった。愛される喜びも、温かい日常も知らぬまま、毒をあおり、死んでいった。


それが今、千年の時を超えたこの花の都で。

絶対的な王は、かつて共に地獄を見た忠臣に対し、「今生では光の中で生きろ」と許しを与えてくれたのだ。


「私は、なんて愚かだったの……っ。あの方の深すぎる愛に、王の優しさに……私は……!」


リジュの嗚咽は止まらなかった。ドレスを汚した泥よりも深い、魂の底からの懺悔と、救済された歓喜の涙だった。


「エレーヌ。もう、何も言わなくていいよ」


事情など何も知らないテオドールは、リジュの震える背中を、どこまでも優しく撫でた。彼女が誰に対して懺悔しているのか、どんな闇の淵を歩いてきたのか、彼には分からない。

だが、彼女が深い絶望と葛藤の果てに、こうして自分の胸の中に帰ってきてくれたことだけは分かった。


「君がどんな過ちを犯したとしても、僕の腕の中が君の帰る場所だ。君はもう、一人で戦わなくていい。……無事に帰ってきてくれた。それだけで、僕は世界で一番幸せだよ」


テオの温かい体温と、彼から香る爽やかなオーデコロンの匂い。

リジュは彼の服を泥で汚してしまうことも構わず、すがりつくようにテオの背中に腕を回した。


「テオ……愛してる。愛しているわ……っ」


「ああ、僕もだよ、エレーヌ」


魔王の臣下としての魂の居場所と、一人の女としての幸せ。

決して交わることのないと思われた「真の闇(忠誠)」と「純白の光(愛)」が、王の慈悲によって完璧な調和を果たした。

二つの転生が交差した奇跡の夜。リジュは、愛する人の腕の中で、千年の渇きを癒すように静かに、そして幸せに泣き続けた。


***


一方、パリの中心にそびえる超高級ホテル。

その最上階に位置するスイートルームの広大なバルコニーで、恋問持子は一人、春の夜風に艶やかな黒髪をなびかせていた。

眼下には、オレンジ色の街灯に照らされた美しいパリの街並みが広がり、遠くにはエッフェル塔がシャンパンゴールドの光を放って瞬いている。


(……やれやれ。なまら長い夜であったな)


地下墓所での死闘を終え、シャワーを浴びて着心地の良いシルクのネグリジェに着替えた持子は、バルコニーの手すりに寄りかかりながら小さく息を吐いた。


(リジュの奴、今頃はあの男の腕の中で、女としての幸せを存分に享受しておるのだろうな。……ふん、全く、臣下の分際で羨ましいことだ)


持子は、パリの美しい夜景を見下ろしながら、少しだけ口を尖らせた。

かつての忠臣は、自らの魂を救済され、さらに愛する恋人との甘い日常までも手に入れた。

それに引き換え、すべてをねじ伏せ、すべてを許し、君主としての圧倒的な器を見せつけた自分自身は、こうして一人、冷たい夜風に吹かれている。

神が設計図を引いたとしか思えない黄金比ゴールデンバランスの美貌を持ち、覇王としての力を覚醒させても、その内面には孤児院出身という孤独な過去を抱えた、寂しがり屋の十七歳の少女の魂が同居しているのだ。


(これが、『玉座の孤独』というやつか。わしもあの絶世の美女のリジュと抱き合いたかったし、魔王とは、かくも孤独で報われぬ生き物なのか……)


少しの寂しさと、王としての宿命にセンチメンタルなため息を漏らそうとした、その時。


「はい、持子。約束の温かいカフェオレよ。あんまり薄着で夜風に当たってると、湯冷めするわよ」


背後から、落ち着いた大人の女性の香水とインクの香りがふわりと漂い、持子の頬に温かいマグカップがぴとりと押し当てられた。

振り返ると、タブレットを小脇に抱え、洗練されたルームウェア姿の立花雪が、眼鏡の奥で呆れたような、けれど海のように深い母性を湛えた瞳で微笑んでいた。


「ゆ、雪……!」


「あ、ズルいです雪さん! 私だって持子様に温かい飲み物をお持ちしたかったのに!」


雪の後ろからは、春らしいピンク髪を揺らしながら、本多鮎が尻尾を振るようにして飛び出してきた。


「持子様、夜風で冷えますから! 私の体温で、持子様のお体を隅々まで温めてさしあげますぅ! さあ、遠慮なく私を踏み台にして暖を取ってください!」


「うむ、相変わらず騒がしい忠犬よな、鮎」


持子は、足元にすり寄ってくる狂信的な鮎の頭を、苦笑しながらぽんぽんと撫でてやった。


「……どうしたの持子? なんだか、少し寂しそうな顔をしてたけど」


雪が、持子の内面を見透かすような真剣な眼差しで問いかけてくる。どんな強がりも、この至高の推しであり、絶対的なプロデューサーである彼女には通じない。

持子はマグカップを両手で包み込み、カフェオレの甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

そして、隣に並んで立つ「推し(雪)」と、足元で嬉しそうに尻尾を振る「忠犬(鮎)」の姿を、黄金の瞳で静かに見つめた。


(……なんだ。わしの玉座は、ちっとも孤独ではないではないか)


はるか極東の日本には、狂犬のレオや、ハリウッドに旅立った沙夜、泥棒猫の美羽、そしてあの恐るべき後輩の楓たちが待っている。

そして何より、自分の隣には、自分を暗闇から見出し、生きる意味を与えてくれた絶対的な存在がいるのだから。


「なんでもないわ、雪。ただ……この花の都も悪くないが、やはりわしの帰るべき場所は、貴様らがいる場所なのだと、そう思っただけだ」


持子は、魔王としての威厳も、十七歳の少女としての照れ隠しもすべてひっくるめて、極上の笑みを浮かべた。


「そう。……まあ、今夜の『偽物』の撮影は散々だったけど、おかげでリュクスという最高のスポンサーの全権を握れたわ。怪我の功名ね」


雪はフッと口角を上げ、タブレットのスケジュール画面を持子に見せた。


「明日は気を取り直して、リュクスの『本物』のメインビジュアル撮影よ。……それが終わったら、せっかくの春休みなんだから、思い切り羽を伸ばすわよ」


「ほう! ということは……!」


持子の黄金の瞳が、パァァッ! と星のように輝いた。


「ええ。TGV(高速鉄道)のファーストクラスの手配は済ませてあるわ。撮影が終わったら、南仏のコート・ダジュールからイタリアへ抜けて、ヨーロッパ中をバカンスして回るわよ。最高級の三ツ星レストランのフルコースも、本場のジェラートも、全部スノーの経費で食べさせてあげる」


「な……なまら最高ではないかぁぁぁッ!! さすがは雪! わしの至高の推し!!」


先ほどの「玉座の孤独」など完全に宇宙の彼方へ吹き飛び、持子は歓喜の声を上げてカフェオレのマグカップを天高く掲げた。


「ふふっ、やりましたね持子様! 本場ヨーロッパの美食ツアーです! もちろん私めが、全身全霊をもってお荷物持ちと食レポのサポートをさせていただきますぅ!」


鮎もぴょんぴょんと跳ねて喜び、持子の足元でさらに激しく尻尾を振る。

女としてのささやかな幸せよりも、すべてを従え、すべてを守り抜き、そしてすべてを喰らい尽くす覇道。

王としての孤独ならぬ、騒がしくも愛おしい覇道を往く覚悟を新たに、恋問持子はパリの夜明けの空に向かって不敵に笑った。


「さあ、見ているがよい世界よ! この魔王の美と覇道、そして胃袋の限界は、ここからさらに加速するぞ!!」


二つの転生が交差し、新たな臣下と絆を得た春のパリ。

花の都を舞台にした極黒の魔王の華麗なる蹂躙劇はこれにて幕を閉じ、舞台は煌びやかなヨーロッパ・バカンスへと続いていくのだった。


【春休みパリ編・完】


のはずだった。

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