第二章:背徳の夜と、最強の異端審問官
第二章:背徳の夜と、最強の異端審問官
パーティーの喧騒から遠く離れた、リュクス・アンペリアルが所有する最高級ペントハウスの最上階。
パリの美しい夜景を一望できる豪奢な寝室で、エレーヌ・リジュは真っ白なシーツに乱れた黄金の髪を散らし、甘い吐息を漏らしていた。
「エレーヌ……愛しているよ。君はなんて美しいんだ」
優しく知的なフランス人青年、テオドール・ブラン。
彼の誠実で温かい手が、リジュの白磁のような肌を優しく撫で、その輪郭を確かめるように熱い口づけを落としていく。彼はリジュをこの世で最も尊い宝物のように扱い、純白で平穏な愛で彼女をすっぽりと包み込んでいた。
リジュもまた、テオの広い背中に腕を回し、彼から与えられる愛に応えようと必死に縋り付いた。
テオを愛している。彼こそが、裏社会の権力闘争が渦巻くリュクスの女帝としての重圧から自分を解放してくれる、唯一の「光」なのだ。この純白の平穏な日常こそが、自分が女として手に入れた最高の幸せのはずだった。
だが――。
(あ、ぁ……だめ……っ)
目を閉じ、愛するテオドールに優しく抱かれ、絶頂へと昇りつめようとするまさにその瞬間。
リジュの脳裏に、あのパーティーの入り口で見た「極黒の少女」の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって襲いかかってきた。
『素晴らしい場を設けていただき、心より感謝いたします』
雪の通訳を通して放たれた、あの極めて優雅で完璧な令嬢としての言葉。
だが、あの少女の妖しく輝く「黄金の瞳」だけは、言葉とは裏腹に、リジュの魂の底の底までを完全に見透かしていた。まるで「いつでも貴様をひざまずかせ、支配してやれるぞ」と告げるような、圧倒的な魔王の覇気。
「あっ、あぁぁ……ッ!!」
リジュの口から、テオに抱かれているからではない、全く別の次元の悦びを帯びた叫びが迸った。
黄金の瞳を思い出しただけで、リジュの下腹部――子宮の奥深くが、焼け焦げるように熱く疼き始めたのだ。
脳髄を痺れさせるような、究極の快感。
(ひれ伏したい……! あの黒いドレスの裾にすがりつき、靴を舐め回して、私を好きにしてくれと乞い願いたい……ッ!)
テオドールという純白の恋人に抱きしめられながら、リジュの魂は、極東からやってきた十七歳の少女の足元で歓喜の涙を流し、平伏していた。
その圧倒的な背徳感と、己の理性が根底から壊されていく快感に、リジュの肉体はガクガクと激しく痙攣した。
前世の記憶を持たないはずの彼女の肉体の奥底から、かつての軍師「李儒」が抱いていた主君への狂信的な愛と、ドロドロとした『闇の魔力』が暴走しかけ、リジュの青い瞳に一瞬だけ黒いモヤが掛かる。
「エレーヌ……? どうしたんだ、ひどく汗をかいている。まだ具合が悪いのかい?」
絶頂の余韻の中で息を弾ませるリジュを心配し、テオドールが優しく彼女の額の汗を拭った。
「……ううん、大丈夫。テオが、優しくしてくれたから……」
リジュは荒い息を整えながら、テオの胸に顔を埋めた。
その瞳からは、恐怖と絶望の涙がひとしずく、白いシーツへとこぼれ落ちた。
(私は、おかしくなってしまったの……? テオというこんなに素晴らしい人がいるのに、どうして……。このままあの少女……恋問持子が近くにいれば、私は間違いなく、自ら進んで彼女の犬に成り下がってしまう……!)
リュクスの女帝としての地位も、誇りも、そして何より愛するテオドールとの未来も。
すべてを投げ捨てて、狂ったようにあの少女に尽くす奴隷へと堕ちてしまう。自分の心が極東の少女に完全に壊されてしまうという恐怖に、リジュは声を出さずに泣きじゃくった。
やがてテオドールが深い眠りについたのを確認すると、リジュはそっとベッドを抜け出し、シルクのガウンを羽織って書斎へと向かった。
暗い部屋の中で、ただ一人。リジュの青い瞳に、冷徹な光が宿る。
(私の心を、日常を壊す『毒』……。……消さなければ。女としての私の幸せを守るために、あの少女を、この花の都で完全に排除しなければならない)
リュクスの強大な権力と財力は、表のファッション業界だけにとどまらない。
リジュは、ヨーロッパの裏社会に深く根を張るパトロンとしての絶対的な権限を行使し、暗号化された専用の端末を起動した。
呼び出すのは、ヨーロッパの裏社会において「五本の指」に入る絶対的な実力者。
彼女ならば、あの得体の知れない極東の少女すらも、跡形もなく消し去ることができるはずだ。
「……私よ。『異端狩りの聖女』を動かしなさい。極秘の、そして最優先の抹殺任務よ」
端末の向こう側にいるエージェントに対し、リジュは女帝としての、あるいはかつて魔王の軍師として冷酷な策を巡らせた李儒としての、氷のように冷たい声で命を下す。
「標的は、あの黒髪の少女……恋問持子、ただ一人よ。……けれど」
リジュの脳裏に、持子の隣にいた知的なマネージャーの女(雪)と、ピンク髪の小娘(鮎)の姿がよぎる。
もし持子を抹殺する際、あの二人が邪魔に入るようなことがあればどうするか。
「もし、あの取り巻きの二人が巻き込まれたとしても、それは構わない。処理してちょうだい。私の平穏な日常を守るために必要な、些末な犠牲よ」
愛するテオドールとの純白の日常を守るためなら、他者の命などどうなってもいい。
冷徹な決断を下したリジュは、ゆっくりと端末の電源を切った。
***
同時刻。パリ郊外に位置する、歴史から見捨てられたような古い修道院の地下。
そこは、神への祈りよりも、血と硝煙の匂いが染み付いた冷たい石造りの空間だった。
「――リュクスの女帝からの直々の依頼? ターゲットは、極東から来たモデルの小娘だと?」
蝋燭の揺らめく光の中、硬質なブーツの足音が響き、冷ややかで傲慢な声が落ちた。
声の主は、聖職者のような純白の法衣と、近現代の軍服を掛け合わせたような異質なタイト・コスチュームを纏う女だった。
身長は一八〇センチに達する長身。
女性らしい柔らかな曲線美を残しながらも、その肉体は極限まで鍛え抜かれた、しなやかで無駄のない「鋼のような細身の筋肉質」であった。純白のタイトな装束の上からでも、彼女が常人離れした身体能力と体幹を持っていることがありありと分かる。
月明かりを溶かしたような、美しい銀髪。それを戦闘の邪魔にならないよう厳格に結い上げているが、こぼれ落ちた銀糸が、彼女の白く整った顔立ちに冷たい影を落としている。
氷のように冷酷で、しかし神への狂信の炎を宿した灰色の瞳。
すれ違えば誰もが振り返るほどの絶世の美女でありながら、その美しさは抜身の刃のように鋭く、近寄りがたい絶対的な「格好良さ(クールネス)」を放っていた。
彼女の名は、ベアトリス・ド・ロシュフォール。
『ロシュフォール(強固な岩山)』という由緒ある貴族の苗字を持つ彼女は、ヨーロッパの裏社会で「ロシュフォール卿」と呼ばれ、畏怖される存在だ。
彼女はただの殺し屋ではない。
過去にルーマニアの深い森に巣食っていた吸血鬼教団の拠点を単騎で強襲し、数百の吸血鬼どもを一夜にして灰に変え、さらにはパリの地下で暗躍していた大規模な悪魔崇拝組織をも、文字通り一人で壊滅させた実績を持つ「生ける伝説」である。
「くだらん。我ら『異端審問会』は、貴族の小間使いではない。たかが極東の猿一匹を片付けるために、この私を動かそうというのか?」
ベアトリスは、長い脚を傲慢に組みながら、手元の資料を忌々しそうに見下ろした。
だが、そこに写る黒いドレスを着た恋問持子の写真を見た瞬間――彼女の灰色の瞳が、スッと細められた。
「……なるほど。ただのモデルではないな。写真からすらも、虫唾が走るほどの濃密で穢らわしい『闇』の臭いがする。これは……放置すれば、この神聖なるヨーロッパを汚染する悪魔の雛だ」
ベアトリスは、神に仕える者としての狂信的な正義感と、異端を決して許さない冷徹さを持ち合わせていた。彼女にとって、自身が信じる「光」こそが絶対であり、それにそぐわない闇はすべて焼き尽くすべきゴミでしかない。
「良いだろう。リュクスからの莫大な献金への礼として、そして何より、主の威光を穢す薄汚い極東の悪魔を断罪するために、この『聖女』自らが手を下してやろう」
ベアトリスが右手をスッと虚空に掲げると、その掌から眩いほどの純白の光が溢れ出した。
それは、魔術や呪術の類ではない。彼女の狂信が顕現させた、神の奇跡そのもの。
大理石すらも豆腐のように切り裂き、あらゆる物理攻撃と魔術を弾き返す、ロシュフォールの名の通りの『絶対的な光の結界』。そして、その光は瞬く間に手元へと収束し、闇の魔力を根源から焼き尽くす一本の「光の槍」となって彼女の手に握られた。
ジーーッ、と。
光の槍が放つ圧倒的な高熱と魔力が、周囲の空気を歪ませる。
「悪魔崇拝の豚どもを串刺しにしたこの光の槍で、極東の魔女の心臓を貫いてくれる。……処刑場は、そうだな。パリの地下に眠る、あの穢れた墓所がふさわしい」
冷徹で狂信的な強者、ベアトリス・ド・ロシュフォール。
研ぎ澄まされた銀髪の美女の口元に、絶対的な自信に満ちた傲慢な笑みが不気味に浮かび上がった。
女帝エレーヌ・リジュの背徳の恐怖と、最強の異端審問官の狂信。
二つの思いが交錯し、パリの華やかな夜の裏側で、極黒の魔王を断罪するための冷酷な罠が、静かにその口を開けようとしていた。




