第一章:邂逅のレセプションと、疼く魂
第一章:邂逅のレセプションと、疼く魂
パリの中心部に位置する、十九世紀の宮殿を改装した最高級ホテル。
そのメインバンケットを完全貸し切りにして行われた「リュクス・アンペリアル」主催のレセプションパーティーは、まさにこの世の春と富を煮詰めたような豪奢な空間だった。
絢爛豪華なクリスタルの大シャンデリアが眩い光を放ち、天井に描かれた精緻なフレスコ画の下では、オーケストラによる優雅な生演奏が流れている。ヨーロッパ中の王侯貴族や各界のセレブリティたちが、シャンパングラスを片手に幾重にも談笑の輪を作っていた。
その華やかな喧騒の中心で、リュクスの若き女帝エレーヌ・リジュは、自身の微かな震えを悟られまいと、隣に立つ恋人の腕にそっと手を添えていた。
黄金の髪を優美に結い上げ、サファイアのような青い瞳を持つ彼女は、弱冠二十五歳にして世界的コングロマリットの実権を握る、圧倒的な美と知性の結晶だ。体にぴったりとフィットした純白のオートクチュールドレスが、彼女の洗練されたプロポーションと若き権力者としての威厳を引き立てている。
「少し緊張しているのかい、エレーヌ?」
不安げなリジュの横顔を覗き込み、優しく微笑みかけたのは、フランス人青年のテオドール・ブランだった。
テオドール――愛称「テオ」は、フランス語で「白」を意味するブランの名の通り、純白で平穏な日常を象徴するような、誠実で知的な青年だ。仕立ての良いライトグレーのタキシードに身を包む彼は、裏社会の権力闘争とも繋がりを持ち、常に重圧と戦い続けるリュクスの女帝にとって、唯一肩の力を抜いて「ただの一人の女性」に戻れる絶対的な安全地帯だった。
「ふふ、ごめんなさい。テオがいてくれるから大丈夫よ。ただ……」
リジュは、テオの温かく大きな手に自身の指を絡めながら、小さく息を吐いた。
「阿寒湖の氷上モニター越しに見た、あの極東の少女……私の『氷の花』に、直接会えると思うと、どうしてか胸が酷く騒ぐの。まるで、ずっと昔から彼女を知っているような、奇妙で、抗いがたい感覚……」
テオが安心させるようにリジュの頭を優しく撫でようとした、まさにその時だった。
ギィィィン……ッ、と。
パーティー会場の巨大な木製両開き扉が、重々しい音を立てて開かれた。
瞬間、数百人のセレブリティたちのざわめきと、オーケストラの演奏までもが、まるで目に見えない巨大な手に首を絞められたかのように、ピタリと止んだ。
「――っ……」
フロアにいる全員の視線が、入り口に現れた三人の異邦人に釘付けになる。
先頭を歩くのは、夜の闇そのものを織り込んだような、漆黒のベルベットドレスを纏った少女だった。
身長一七五センチ。神が自ら設計図を引いたとしか思えない「黄金比」を描く、完璧なプロポーション。透き通るような白磁の肌と、腰まで届く艶やかな黒髪。そして、妖しく輝く「黄金色」の瞳。
その美貌は、見た者全員が呼吸を忘れるほどの「美の暴力」を放ち、一歩歩みを進めるたびに、シャンデリアの光すらも彼女の絶対的な覇気に呑み込まれていくようだった。
その後ろには、知的なネイビーのパンツスーツを完璧に着こなす社長の立花雪と、春らしいピンクの髪を華やかなアップスタイルにまとめ上げ、淡い桜色のパーティドレスに身を包んだ本多鮎が控えている。
(くぅぅぅっ! この素晴らしい持子様の入場シーン! この最高級一眼レフで、なめ回すように連写したい……ッ! しかし、私は持子様の忠犬にして、早大進学を決めたインテリタレント……! このような格式高いパーティーにカメラを持ち込むなどという無粋な真似、持子様の顔に泥を塗るゆえ絶対にできぬ……! ええい、私の網膜よ、一秒間に百フレームの画質でこの光景を脳裏に焼き付けなさい!)
鮎は背中でカメラを持てない悔しさに悶絶しながらも、表向きはトップモデルとしての洗練された笑みを顔に貼り付け、完璧なエスコート役として優雅に歩みを進めていた。
「……来たわね。彼女が、恋問持子よ」
リジュは小さく深呼吸をして女帝としての威厳ある笑みを浮かべると、テオを伴って彼女たちのもとへ歩み寄った。
「ようこそパリへ、マドモアゼル・コイトイ。そして、スノーの皆様。お会いできて、光栄です」
リジュは、少しだけアクセントに癖はあるものの、流暢で丁寧な日本語で挨拶をした。彼女ほどの地位にある者が、極東のモデルのためにわざわざ日本語を学んで出迎えること自体が、最大の敬意の表れだった。
しかし――挨拶を終え、持子の黄金の瞳と真正面から視線が交わった瞬間。
リジュの頭の中から、苦労して覚えた日本語の語彙が、一瞬にして真っ白に吹き飛んだ。
「あ……」
ドクンッ、と。
リジュの魂の最も深い底底で、冷徹な軍師「李儒」が歓喜の産声を上げたのだ。
持子が放つ、常人には感知できないほど微かな、しかし絶対的な「闇の魔力」と支配者の覇気。そして、貂蝉の器が放つ絶世の美貌。それがリジュの理性を一瞬にして焼き切り、本能を激しく揺さぶる。
(な、に……これ……?)
リジュの顔から血の気が引き、足が竦む。動揺を隠しきれなくなった彼女の口からは、無意識のうちに母国語であるフランス語が、早口で溢れ出し始めた。
「Ah, pardon... Merci infiniment pour le merveilleux miracle du tournage au lac Akan. Votre beauté restera à jamais gravée dans l'histoire de notre marque Luxe...」
(あ、申し訳ありません……。阿寒湖での素晴らしい奇跡の撮影に、心から感謝いたします。あなたの美しさは、我がリュクスの歴史に永遠に刻まれるでしょう……)
突如としてパニックに陥ったようにフランス語をまくしたて始めたリジュを見て、持子は黄金の瞳を瞬かせた。
勉強が絶望的に苦手であり、他国の言語を「いかなる軍略よりも難解な呪術」として激しく拒絶する持子にとって、今のリジュの言葉は完全に呪文にしか聞こえない。
「……む。雪。この美しい女帝は、流暢に日本語を話しておったかと思えば、突如として早口で横文字の呪文を唱え始めたが、なんと言っておるのだ? わしは横文字はからきしだ。通訳を頼む」
「ええ、分かっているわ。持子を目の前にして、少し圧倒されてしまったみたいね」
雪が落ち着いた声で持子に耳打ちする。鮎もまた、早大に合格するほどの極めて優秀な頭脳を持っているため、リジュのフランス語のニュアンスをある程度は理解できていた。しかし、ビジネスの場において完璧な通訳と交渉をこなす雪の語学力と洗練された間合いには敵わないと分かっているため、一歩引いて静かに微笑みを保っている。
「『阿寒湖での素晴らしい奇跡の撮影に、心から感謝いたします。あなたの美しさは、リュクスの歴史に永遠に刻まれるでしょう』と仰っているわ」
雪はリジュの言葉を、持子が理解しやすい優雅な日本語へと瞬時に変換して伝えた。
持子は雪の通訳を聞きながら、ただ静かに、黄金の瞳で眼前の女帝を見据えていた。
(ほう……)
持子の内なる魂――かつて三国志の時代を暴力と恐怖で支配した魔王・董卓の魂が、微かに、しかし確かな熱を帯びて反応している。
持子の眼差しは、リジュのサファイアの瞳の奥底、その美しい肉体の内側にある「魂の形」そのものを完全に透過して捉えていた。
(間違いない。この女の魂……かつて我がために毒杯すら厭わなかった軍師、李儒ではないか)
魔王が恋に溺れ破滅していく姿に慟哭し、最期まで己の知略と冷徹さを捧げ尽くした忠臣。その魂が、千年の時を超え、この花の都で世界の頂点に立つ女帝として転生していたのだ。
持子の口角が、ほんの僅かに釣り上がる。
己の前に平伏させ、再び絶対的な「下僕」として支配してやろうか――かつての暴君であったなら、迷わずそうしていただろう。
だが、持子の視線は、青ざめて震えるリジュの隣で、彼女の腰を優しく支える青年、テオドールに向けられた。
純白のオーラを放つその誠実な青年が、リジュにとってどれほど大切な存在であり、心の拠り所であるか。人間の脆さと、誰かに愛されることの温かさを知った今の持子には、痛いほどによく分かった。
(……かつては我がために泥を被った忠臣が、今生ではあのように純白で、心から愛する者を見つけたか。ならば、その幸せを壊すのは野暮というものだ)
孤児であった自分を救ってくれた雪の無償の愛を知り、鮎や美羽たち下僕との絆を通して「壊すのではなく守りたい」と願う優しさを知った持子は、すでにただの暴君ではなく、真の王としての器を大きく成長させていた。
持子はスッと目を細めると、かつての主君としての傲慢さを一切消し去り、極めて優雅な、非の打ち所のない令嬢としての笑みを浮かべた。
「雪、伝えてくれ。――素晴らしい場を設けていただき、心より感謝いたします、リジュ代表。あなたの素晴らしいブランドの顔となれること、大変誇りに思いますわ。これからも、良きパートナーとしてよろしくお願いいたします、と」
持子が日本語で堂々と告げると、雪はこくりと頷き、その言葉を洗練された美しいフランス語に乗せてリジュへと伝えた。
それは、現在の「リュクスの女帝」としての立場を最大限に尊重した、あくまで対等なビジネスパートナー、あるいは優雅なモデルとしての完璧な振る舞いだった。
しかし――持子が完璧な気遣いを見せたその一方で、前世の記憶を持たないはずのエレーヌ・リジュの肉体には、制御不能な凄まじい「異変」が起きていた。
「ぁ……」
持子の黄金の瞳に見つめられ、雪の通訳を通してその言葉を耳にした瞬間。
リジュの背筋に、高圧電流のような痺れが走った。
ドクンッ、ドクンッ。
持子の放つ闇の魔力に当てられ、リジュの下腹部の奥深く――子宮が、焼け焦げるように熱く疼き始めたのだ。
経験したことのない究極の快楽と、絶対的な服従への渇望。
目の前に立つ極黒の少女の足元に今すぐ崩れ落ち、額を大理石の床に擦り付け、「我が王」と叫んでその黒い靴を舐め回したい。己の築き上げた権力も、女としての誇りも、すべてを投げ打ってこの少女の所有物になりたい。
そんな狂気じみた衝動が、大波となってリジュの脳髄を打ち据えた。
「ぁ……くっ、あ……っ」
立っていることすら困難になり、リジュの足から力が抜け、膝がガクンと折れそうになる。
「エレーヌ!? どうしたんだ、顔色が真っ青だよ!」
すかさずテオドールが力強い腕で彼女の腰を抱き止め、心配そうにその顔を覗き込んだ。
テオの温かい体温と、彼から香る爽やかなオーデコロンの匂いが、リジュの意識を辛うじて現実に繋ぎ止める。
(駄目……私は、私はリュクスの女帝よ……! テオという、愛する人がいるの……! なのに、どうして、こんなにも……っ、跪きたくて、たまらないの……!?)
純白のテオドールと、漆黒の持子。
リジュは必死にテオの腕にしがみつきながら、荒い息を吐いて己の魂の暴走をねじ伏せようと抗った。
「申し訳、ありません……少し、貧血気味のようで……」
震える声で、フランス語でなんとか取り繕うリジュ。
雪からその通訳を聞いた持子は、一瞬だけ、かつての忠臣を労うような、慈しむような目を向けた。
「リジュ代表、どうかご無理をなさらず」
持子が優雅に微笑みながら告げると、雪がそれを即座に洗練されたフランス語で通訳し、リジュとテオドールに伝えた。
持子たちが雪と鮎の完璧なエスコートによってフロアの奥へと歩み去った後も、リジュの体の震えは止まらなかった。
愛するテオドールの胸に抱かれ、「大丈夫かい? 少し別室で休もう」と優しい言葉をかけられながらも、彼女の脳裏には、どうしても持子のあの「黄金の瞳」と、圧倒的な支配者のオーラがフラッシュバックしてしまう。
疼く子宮を押さえながら、リジュは自身の心が極東の少女によって根底から壊されていく恐怖と、抗いがたい甘美な背徳感に身を震わせていた。
花の都の華やかな光の下で、千年の時を超えた闇の因果が、静かに、そして確実に彼女の魂を蝕み始めていた。




