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『春のパリと、三人の異邦人』

序章:春のパリと、三人の異邦人


凍てつくようなマイナス二十度を下回る極寒の阿寒湖での死闘――あの世界的ブランド「リュクス・アンペリアル」の巨額CM撮影から、数ヶ月の時が経過した。

季節は巡り、現在は三月二十六日。春休み真っ只中のフランス・パリである。

抜けるような青空の下、セーヌ川の水面が春のうららかな陽光を反射して、まるで砕けた宝石のようにキラキラと煌めいている。マロニエの街路樹が淡い緑の芽を吹き始めたシャンゼリゼ通りは、世界中から集まった観光客と、春の装いを楽しむパリジャンたちで優雅な活気に満ちていた。

歴史ある石畳の通りに、アコーディオンの軽快な音色がどこからともなく響いてくる。焼き立てのクロワッサンと芳醇なバターの香りがふわりと鼻腔をくすぐるこの華やかな街のど真ん中を、極東からやってきた三人の異邦人が歩いていた。


「見よ、雪! この壮麗なる凱旋門と、遥か彼方まで続く真っ直ぐな大通りを! うむ、悪くない。我が新たな領土として、そして魔王たるこのわしが歩く『覇道』として、実にふさわしいではないか!」


往来の人々が思わず足を止め、息を呑んで振り返るほどの「美の暴力」を撒き散らしながら、一人の少女が傲岸不遜に胸を張った。

彼女の名は、恋問持子。

身長一七五センチ。神が自ら設計図を引いたとしか思えない、日本人離れした完璧な黄金比ゴールデンバランスのプロポーションの持ち主である。本日の彼女は、春のパリにふさわしいシックな黒の薄手トレンチコートを羽織り、その下には彼女の極限までくびれたウエストと豊かな胸元を強調する、目の覚めるような真紅のシルクワンピースを纏っている。

透き通るような白磁の肌に、腰まで届く艶やかな黒髪。そして前世で自身を破滅に導いた絶世の美女・貂蝉に生き写しのその容貌と、妖しく輝く「黄金色」の瞳が、春の陽射しを浴びて神々しいほどのカリスマを放っていた。

その隣を歩くもう一人の美少女もまた、パリジャンたちの熱視線を一身に集めている。


「あぁぁ……ッ! パリの石畳を我が物顔で闊歩する持子様の後ろ姿……なんて、なんて神々しく、美しいのでしょう……ッ! その真紅のドレス、お似合いです!」


恍惚とした表情で持子を見つめるのは、かつて大手事務所のトップモデルとして君臨した本多鮎だ。

彼女の洗練された美しい容姿と豊かなバストはそのままに、彼女は春の訪れと自身の門出を祝うかのように、美しかった黒髪を華やかな「ピンク色」に染め上げていた。桜の花びらのような淡いピンクの髪が、彼女の纏うアイボリーの春物セットアップと絶妙にマッチし、モデル特有のオーラをさらに際立たせている。

絶世の美女の面影を持つ黒髪の魔王と、春らしいピンク髪の元トップモデル。

二人が並んで歩く姿は、まるで一流ブランドのランウェイがシャンゼリゼ通りに突如出現したかのようであり、周囲の通行人が思わず道を譲り、ため息をもらすほどに目立っていた。


「はいはい、領土の視察はいいけど、周囲の迷惑にならないように歩きなさい。それに、ここはまだあんたの領土じゃないわよ」


尊大な態度で腕を組む持子の背後から、冷や水を浴びせるように淡々とした声が響く。

タブレットを片手に、眼鏡の奥から知的な視線を向けているのは、芸能プロダクション『スノー』の社長兼マネージャーである立花雪だ。

彼女は上質なネイビーのパンツスーツに、首元にはエルメスのスカーフをあしらい、洗練された大人のパリジャン・シックを完璧に着こなしている。大人の女性としての余裕と、優秀なマネージャーとしての知的な佇まいは、前の二人とはまた違った魅力を放っていた。


「それに持子。さっきから高級ブティックで少し買い物をしているけれど、阿寒湖の過酷な撮影を乗り越えて、小樽で背負った三七〇万円の借金がようやく完済できたんだからね? これ以上、無駄な借金を作る気かしら?」


「わ、わかっておるわ! さっき買ったのは程々だ!日本で留守番をしておる下僕どもへのお土産だ! 魔王たるもの、臣下への褒美は惜しまぬものよ!」


「そう。お土産を買ってあげるなんて、あんたも随分と丸くなったわね。……まあ、経費じゃなくてあんたの自腹の範囲なら好きにしなさい」


雪がふっと口角を上げて微笑むと、両手に大量のブランド紙袋と土産物の袋を提げたピンク髪の鮎が、嬉々として雪にすり寄った。


「えへへっ、雪さん! 私、このお荷物運びの労働も、すべて持子様への愛ゆえにこなしてみせます! それに私、春から正式に早稲田大学生ですからね! このピンクの髪も、いいでしょう!」


「ええ、鮎さん。あんたの全教科トップクラスの模試の成績と、早稲田合格は立派だったわ。これからは『早大生タレント』としての売り出し方も本格的に進めていくから、そのピンク髪のキャラクターも良いわね」


雪に褒められ、「えへへ」と鼻高々に笑う鮎。狂熱的なマゾヒストでありながらも、勉学においては非常に勤勉で頭脳明晰な彼女は、新しい春に向けて見事に結果を出していた。


「さて、今夜の『リュクス・アンペリアル』のレセプションパーティーまではまだ時間があるわ。せっかくのパリなんだから、少し休憩しましょうか。持子、あそこのカフェに入るわよ」


雪が指差した先には、パリジャンたちで賑わう老舗のパティスリー・サロンがあった。ショーウインドウには、宝石のように色とりどりのマカロンや、芸術的なケーキが山のように積まれている。

その瞬間、持子の「魔王の威厳」は音を立てて崩れ去った。


「な、なまら美味そうではないか……ッ!?」


黄金の瞳を見開き、北海道の方言を丸出しにしてショーウインドウにへばりつく持子。


「おい雪! 見よ、あの極彩色の円盤マカロンを! なんだあの繊細なクリームの層は! こっちの金箔が乗ったチョコレートケーキも、わしを誘惑しておる! ええい、店ごと買い取ってくれるわ!」


食欲に極めて忠実な暴君は、食べ物を前にすると途端にチョロくなる。

数分後、カフェのテラス席には、テーブルに乗り切らないほどのマカロンのタワーと、色鮮やかなケーキの数々が並べられていた。春のパリの風に吹かれながら、持子は両手にマカロンを持ち、猛然たる勢いでそれを胃袋へと収めていく。


「んん〜〜〜っ! サクッとした歯触りの後に、口いっぱいに広がる濃厚なピスタチオの香り! 続いてフランボワーズの酸味が絶妙な調和ハーモニーを奏でておる! 素晴らしい、実に素晴らしいぞフランス! 曹操の豚めが喰らっていた宮廷料理など、この甘味の前では泥水も同然よ!」


どれだけ暴飲暴食しても、超代謝機能によってすべてを「美の燃料」や魔力に変換してしまうため、決して太ることのない無敵の肉体。持子は次から次へと本場のスイーツを平らげ、幸せそうに頬を緩ませていた。


「ちょっと持子。いくら太らないからって、そんなに頬張ったら口の周りにクリームがついてるわよ。ほら、じっとしてなさい」


向かいの席に座っていた雪が、ナプキンを手に取り、スッと身を乗り出した。

至近距離に顔を近づけ、持子の唇の端についたクリームを、まるで手のかかる娘を世話する母親のように優しく拭き取る。

雪の長く美しい指先が肌に触れ、彼女の大人びた香水とインクの香りが鼻腔をくすぐった瞬間――持子の動きがピタリと止まった。


「あ……ぅ……」


先ほどまでの威厳ある魔王の顔はどこへやら。持子の顔は一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まった。

「至高の推し」であり、恩人である雪に触れられ、さらには優しい微笑みを向けられたことで、持子の脳内はあっさりとメルトダウンを起こしていた。

以前は理性を保つために張っていた『一メートル結界』も、阿寒湖での夜を経て真の絆を結んでからは不要になり、今はこうして普通に、いや、普通以上に近すぎる距離で接せられるようになっている。


(と、尊い……ッ! 雪の指先が、わしの唇に……! ああああっ、阿寒湖の天空プールで抱きしめられて以来、わしの理性が雪に対して完全にバグっておる!)


完全に乙女のような限界オタクと化し、顔から火を出してプルプルと震える持子。その様子を、横の席で大量の紙袋に埋もれながら見ていたピンク髪の鮎が、ハンカチを噛み締めながらギリィッと歯軋りをした。


「くっ……! 雪さんはズルいです……! 私だって、持子様のお口の周りをペロペロと舐め回……じゃなくて、お拭きしたいのに……ッ!」


「はい、綺麗になったわ。……どうしたの持子? 顔が赤いけど、知恵熱でも出た?」


「な、なんでもないわ! 貴様、気安くわしに触れるな! あ、いや、もっと触れてもよいぞ!? むしろ撫でろ!」


しどろもどろになりながら顔を背けた持子は、ふと、カフェのテラス席から見えるパリの青空を見上げた。

――思えば、遠くまで来たものだ。

持子の脳裏に、ふと過去の記憶が蘇る。

あれは、高校一年の四月のことだった。極寒の北海道・札幌にある、名もなき学力底辺の高校。孤児院出身で、誰にも愛されず、孤独な底辺を這いずり回っていた自分。

そんな自分を、圧倒的なプロデュース能力と経営手腕で見出し、拾い上げてくれたのが、他でもない目の前にいる立花雪だった。

雪の力で、東京にある私立聖ミカエル学園の芸能科へと編入した。


そして――ちょうど一年前の四月。

札幌から東京にやってきて、丸一年が経ったまさにその『一周年記念日』の日に、己の内に眠っていた三国志の暴君「魔王・董卓」の魂が完全に覚醒したのだ。

そこからの日々は、まさに怒涛の覇道だった。

鮎やレオ、沙夜、美羽といった共犯者(下僕)たちを手懐け、数々の死闘を乗り越え、極寒の阿寒湖での試練を経て、自分は「魔王」としての在り方を確立していった。

来月の四月になれば、自分もついに高校三年生になる。

雪に拾われてから、そろそろ丸二年が経とうとしていた。


(……このわしが、魔王であるこのわしが、こんなにも満たされた気持ちで春を迎えることになろうとはな)


持子は、冷たい紅茶を一口含むと、向かいで呆れたようにスケジュールを確認している「推し」にして「母」のような雪と、隣でゴソゴソと何かを取り出している「忠犬」の鮎を、黄金の瞳で静かに見つめた。


「さあ、持子様! マカロンも堪能されたことですし、次はエッフェル塔を背景に撮影会です!」


鮎が勢いよく立ち上がり、手にした黒く重厚な機材を構えた。

それは、プロのカメラマンが使うような超高級一眼レフカメラだった。そのレンズの奥の機構や鈍い光沢からは、明らかに素人が手を出せる代物ではないことが窺える。


「……鮎。お前、いつの間にそんな大層な機材を?」


「えへへっ! もちろん『スノーの宣伝活動およびタレントのSNS用素材撮影に必要な絶対的機材』として、事務所の経費で買わせていただきましたぁ! ね、雪さん!」


「ええ。鮎さんのカメラの腕前と、持子のプロモーション効果を考えれば、安い投資よ。それに、パリの美しい景色を背景にした持子の写真は、今後のリュクスの展開にもプラスになるからね」


雪の冷静かつシビアな経営判断に裏打ちされた承認を得て、鮎は鼻息を荒くした。


「というわけです! さあ持子様! 春のパリすらも、持子様の美貌の引き立て役に過ぎないことを、この最高級レンズで世界に知らしめて差し上げます!」


「ふっ、わかっておるではないか、鮎! ならば存分に、わしの美しい姿をカメラに収めるがよい!」


賑やかな二人のやり取りを背に聞きながら、持子は春の風に黒髪をなびかせて颯爽と立ち上がった。

華やかなマカロンの甘い味と、春の陽射し。等身大の女子高生たちのように観光を満喫する彼女たちは、まだ知らない。

今夜行われるリュクス主催の豪奢なパーティーで、女帝エレーヌ・リジュと邂逅することを。


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