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『巨岩、暁に去る』

寒気。

刃のように鋭い、身を切るような寒気である。

三月上旬。

太陽すらまだ目を覚まさぬ、午前五時。

学園の格技場は、まるで巨大な冷凍庫のように冷え切っていた。

床板を踏みしめる素足の裏から、氷のような冷たさが這い上がってくる。

吐く息は、白い。

否、白いなどという生易しいものではない。

肺腑の奥底から絞り出された熱気が、極寒の外気に触れた瞬間に凍りつき、濃密な白煙となって虚空に立ち昇っているのだ。

静寂。

張り詰めた、糸のような静寂。

その道場の中央に、巨大な肉の岩山が聳え立っていた。

岩田剛毅である。

百キロを優に超える巨体。

僧帽筋、広背筋、大胸筋。

純白の道着の下に隠された筋肉の鎧は、限界までパンプアップされ、今にも弾け飛びそうに脈打っている。

岩田は、今日、この学園を卒業する。

その巨漢を囲むように、三人の武芸者が立っていた。

森盛夫。

千手美貴。

そして、恋問持子。

道場の隅には、影安が正座している。

まるで影そのもののように、存在感が極めて薄い男。

だが、この場を支配しているのは、間違いなくこの男の放つ底知れぬ気配であった。

男の口が、微かに動いた。


『――始め』


静かだ。

決して声を張り上げたわけではない。

だが、その声は、道場にいる全員の鼓膜を、いや、脳髄を直接震わせるほどに明瞭に響き渡った。

ヒュンッ!

空気が、裂けた。

最初に動いたのは、千手美貴である。

小柄な体躯。だが、その眼光は獲物を狙う鷹のように鋭い。

足裏が床を滑る。

無音。

刹那の間に、千手は岩田の懐へと潜り込んでいた。


(岩田先輩……!)


千手の両手が、岩田の太い腕を捕らえる。

合気の理。

関節の可動域の限界点(点穴)を突き、相手の力を利用して巨体を崩す。

幼少の頃から、千手は合気道を学んできた。

型稽古の中では、大人でさえも軽々と投げ飛ばすことができた。

だが。

ギチッ……!

千手の渾身の技を、岩田の腕は、ただそこにある筋肉の質量のみで、完全に堰き止めた。

ビクとも、しない。


(……ああ、やっぱり、かからない)


千手の顔が、苦悶に歪む。

入部当初、千手はこの巨漢に自らの技が全く通用しないことに、絶望的なまでの悔しさを覚えた。

かからない。

どれほど理にかなった技を掛けようと、圧倒的な物理法則マッスルの前に、己の技は無力化された。


『合気武道は、かからない技はかからなくていい』。


それが、この同好会の真理であった。

予定調和の型など、実戦では何の役にも立たない。

かからないのなら、どうすればいいか。

この岩田の巨体と筋肉という「本物」の壁があったからこそ、千手は、型のお遊戯を捨て、真の武の深淵を磨くことができたのだ。


(悔しい。……でも、嬉しいッ!)


千手の口元が、微かに笑う。

直後。

ゴォァッ!!

岩田の腕が、丸太のように振るわれた。

千手の小柄な身体が、木の葉のように宙を舞う。

ダァァァンッ!!

受身を取り、畳に転がる千手。

痛みはない。

あるのは、己の全力の技を受け止めてくれた、巨大な岩への圧倒的な感謝だけだ。

バッ!

千手が転がると同時に、死角から森盛夫が跳んだ。

蛇のように柔軟で、神速の動き。

シュバババッ!

打撃。

牽制の拳が、岩田の顔面と胸板を襲う。

森は、かつてMMA(総合格闘技)をやっていた。

合気武道などというものは、相手が勝手に飛んでくれるだけの、面白半分の「やらせ」だと思っていた。

だが、違った。

ドゴォッ!!

森の蹴りが、岩田の太ももにめり込む。

まるで、樹齢百年の大木を蹴り飛ばしたかのような、絶望的な硬さ。


(クソッ、マジでイカれてるぜ、この筋肉はよォ……!)


森の額から、玉のような汗が吹き出す。

簡単だと思っていた。

だが、この岩田という男は、森のMMAの技術すらも、その巨体で真っ向から受け止め、そして粉砕した。

悔しかった。

自分のやってきたことが通じないことが、たまらなく悔しかった。

だが、それ以上に。

こんな「本物のバケモノ」と出会えたことが、嬉しくて仕方がなかった。


「シィッ!」


森がタックルに入る。

合気の道場において、あえて放つ総合格闘技の泥臭い技。

だが。

メキィッ!

岩田の太い丸太のような両腕が、森の背中をガッチリと抱え込んだ。


(捕まっ……!)


グルンッ!

ドォォォォンッ!!

岩田の腰投げ。

森の身体が天井を向き、そのまま凄まじい勢いで畳に叩きつけられた。


「……ガハッ……!」


肺から空気が強制的に吐き出される。

だが、森の瞳の奥には、狂気じみた歓喜の炎が燃え盛っていた。

そして。

最後にゆっくりと間合いを詰めたのは、恋問持子であった。

ズンッ……!

一歩、踏み出す。

その瞬間、道場の空気が、物理的に重くなった。

絶世の美貌を持つ、十七歳の少女。

だが、その肉体には、異常な高密度に圧縮された質量と魔力が宿っている。

中身は、三国志の暴君・董卓。

歩くブラックホール。

だが、今の持子は、ただ一人の武芸者として、静かに岩田を見据えていた。


(……良い漢だ、岩田)


言葉を交わすことを好まなかった。

ただ、基本を黙々と繰り返し、その広く大きな背中で、後輩たちに武の道を教え続けた。

岩田剛毅という男の、その不器用で、しかし圧倒的に誠実な背中を、持子は見ていてとても心地よいと感じていた。

力を抑え込んで生きてきた岩田に、全力を出す喜びを教えたのは持子である。

彼らは、血みどろの稽古を経て認め合った「戦友」であった。

ヒュンッ!

持子が、貫手ぬきてを放つ。

空気を圧縮し、殺意すらも内包した、魔王の一撃。

パァンッ!!

岩田の巨大な掌が、その貫手を正面から受け止める。

質量と質量。

覇気と覇気の、純粋なる激突。

ギチギチギチギチッ……!!

二人の足元の床板が、凄まじい圧力に耐えかねて悲鳴を上げる。

持子の内にある圧倒的な闘気と、岩田の鋼の肉体が、真っ向から軋みを上げる。


(往くか、岩田。……ならば、わしの全てを置いていけッ!)


持子が、合気の理を用いて、岩田の巨体を投げ飛ばそうとする。

だが、岩田もまた、その力を土の根のように踏ん張り、耐える。

ゴォォォォォンッ!!

互いの気が弾け、持子の身体が宙を舞う。

美しい弧を描き、畳の上に着地する。

魔王の肉体が、床を滑る。


「……ハァッ、ハァッ……」


岩田の荒い息遣いだけが、道場に響く。

全身から、滝のような汗が吹き出し、それが体温で蒸発して、岩田の身体を白いオーラのように包み込んでいる。

休む間はない。

ダンッ!

バァンッ!

ドゴォォンッ!

次々と襲い掛かってくる後輩たちを受け止め、そして投げる。

投げられ、受け身を取り、再び立ち上がり、挑む。

肉体と肉体がぶつかり合う音だけが、永遠のように続く。

言葉はいらない。

技を掛け、投げられ、また立ち上がる。

その無限の反復こそが、彼ら合気武道同好会の「感謝」の伝え方だった。

岩田の胸の奥で、熱いものが込み上げていた。


(……強くなったな。お前たち)


岩田は、知っている。

己のこの巨体と筋肉があったからこそ、後輩たちは本物の技を磨けたと言ってくれていることを。

だが、違う。

お前たちが、その折れない心で、何度も何度も全力でぶつかってきてくれたから。

だから俺は、自分の中に眠っていた全力を出す喜びを知ることができたのだ。


ありがとう。


ありがとう。


一撃ごとに、投げ飛ばすたびに、岩田の魂が咆哮する。

それに呼応するように、森が、千手が、持子が、限界を超えた肉体を躍動させる。

乳酸が筋肉を焼き切る。

肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。

血の味が口の中に広がる。

だが、誰一人として、立ち止まる者はいない。

純粋なる、武の対話。

肉体を削り合い、魂をぶつけ合う、極限のコミュニケーション。

やがて。

窓の外がうっすらと白み始め、格技場の凍てつくような空気が、朝の光に染まりかけた頃。


『――それまで』


影安の、開始時と全く変わらぬ静かな声が、稽古の終わりを告げた。

ピタリと。

全員の動きが、凍りついたように止まった。

ちょうど、一時間が経過していた。


「…………」


「…………」


「…………」


激しい息の音だけが響く。

岩田は、静かに姿勢を正した。

全身は汗で濡れ鼠となり、道着は乱れきっている。

だが、その立ち姿は、いかなる暴風雨にも耐え抜いた巨岩のように、微動だにしない。

持子、森、千手も、乱れた道着を直し、荒い息を整えながら、岩田の正面に並び立つ。

誰一人、言葉を発しない。

感謝の言葉など、この一時間の死闘の前にあっては、あまりにも薄っぺらく、無粋であった。

岩田が、ゆっくりと頭を下げる。

深く、深く。

それに呼応するように、在校生たちも、深く頭を下げた。

畳に顔がつくほどに、深く。

顔を上げた時、彼らの目には、汗とは違う光るものが流れていた。

だが、岩田はもう、振り返らなかった。

百キロを超える巨体を静かに翻す。

ペタッ、ペタッ。

素足が床を叩く音だけを残し、岩田は格技場の引き戸へと歩を進める。

ガラッ。

引き戸が開かれ、冷たい朝の空気が、熱気に満ちた道場に流れ込む。

眩しい朝日が、岩田の巨大な背中を照らし出した。

振り返ることはない。

言葉を交わすこともない。

ただ、その大きく、頼もしい背中だけを残して。

岩田剛毅は、静かに格技場を去っていった。

残された三人の武芸者たちは、その背中が見えなくなってもなお、微動だにせず、深々と頭を下げ続けていた。



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