『魔王への愛と家族の胃袋 ―基本給(固定給)導入と強制労働の罠―』
青山の一角に構えられた『芸能プロダクション・スノー』の応接室。
最高級のハーブティーの香りが漂う優雅な空間の中で、社長の立花雪は、デスク越しに静かな、しかし有無を言わさぬ視線を向けていた。
その視線の先にちょこんと座っているのは、茶髪で小動物のような愛らしさを持つ元アイドル――『泥棒猫』こと、花園美羽である。
「美羽さん。単刀直入に言うわね」
雪は手元のタブレットをパタンと伏せ、冷徹なプロデューサーとしての顔で告げた。
「今のスノーの売り上げは、持子さんと鮎さんの二本柱で急成長しているわ。だけど、あなたの『歌手』としての再デビューには、まだまだ時間がかかる。ボイストレーニングはもちろん、あなたのその泥沼のような執着を『歌』として昇華させるには、もっと下積みが必要よ」
「……はい。分かっております、雪社長」
美羽は殊勝に頷いた。
清純派アイドルという偽りの仮面を被っていた頃とは違う。持子という魔王に罪ごと買い取られた今の彼女にとって、スノーでの居場所は何よりも大切だった。
「そこで、あなたの給与体系を変更するわ。これまでの出来高(歩合制)は廃止。今月からは『基本給(固定給)』にするわ」
「えっ……基本給、ですか?」
美羽は目を丸くした。
売上がない今の状態で基本給をもらえる。それは、普通に考えれば破格の温情である。
(……助かる。正直、めちゃくちゃ助かる……!)
美羽の胸の内に、安堵の息が漏れた。
彼女の生い立ちは、スノーの中でも群を抜いてハードだ。
父親が蒸発した極貧大家族の長女。幼少期からネグレクトを受け、欲しいものは「盗む」か「騙し取る」ことでしか手に入らなかった。
かつての彼女の夢は、清純派アイドルとして売れて『億万長者になっての完全引退』を果たすこと。一生分のお金を稼ぎきり、芸能界という虚飾の世界から逃げ切り、誰にも媚びずに家族だけでお腹いっぱいご飯を食べること――それが、彼女の思い描く『黄金の要塞』だった。
もちろん、今は違う。
持子という絶対的な魔王に出会い、その圧倒的な黒い影と愛に溺れる「共犯者(下僕)」でいることが、彼女の人生の第一優先事項だ。
それでも。
(私が一人で生きていく分には、基本給で十分。……でも、家にいる下の子たちを養っていくには、固定給だけじゃ絶対に足りない……!)
美羽の顔に、隠しきれない焦りが浮かぶ。
持子への狂信的な愛と、家族の胃袋。その現実的な板挟みで、泥棒猫の尻尾がシュンと垂れ下がった。
「……足りない、って顔をしているわね」
雪が、眼鏡の奥でクスリと笑った。全てを見透かすような、聖母にして悪魔の微笑みである。
「そんな貧乏性の美羽さんに、社長から素敵な『アルバイト』の提案よ」
「ア、アルバイト……ですか?」
「ええ。あなた、夜な夜な鮎さんと一緒に、路地裏で『妖退治』をやっているそうじゃない」
ビクッ! と美羽の肩が跳ねた。
持子への貢物(魔力結晶)を手に入れるため、夜界で血みどろの狩りをしている裏の顔。雪には魔力が見えないはずだが、どこから情報が漏れたのか。
「風間宮司から、直々に名指しで依頼が来ているのよ。氷川神社の管轄で暴れている妖や魔物を倒すお仕事。……魔石も手に入るし、神社から『特別手当(現金)』まで貰えるそうよ。あなたの家族を養うには十分すぎる額だわ。一石二鳥で良かったわね」
雪はポン、と手を叩いて微笑んだ。
お金。魔石。家族の生活。
喉から手が出るほど欲しい条件だ。だが、美羽の顔はみるみるうちに青ざめていった。
「い、いやいやいや! 待ってください雪社長! 妖退治はあくまで持子様への貢物集めであって、お仕事にするのはちょっと……! それに、あの神社には、あの恐ろしい……っ!」
「――誰が恐ろしいって?」
ゾワァァァッ……!
応接室の室温が、物理的に五度は下がった。
一切の気配も、ドアを開ける足音もなく。美羽の真後ろに、一般科の制服に身を包んだ黒髪の修羅――風間楓が立っていた。
「ひぃぃぃぃッ!?」
美羽がカエルのように飛び上がるが、逃げるよりも早く、楓の白く細い手が美羽の首根っこをガシッと鷲掴みにした。
「私だって、お前みたいな泥棒猫と組むのは御免だ。一人で祓った方がよっぽど早くて楽だからな。……だが、あの限界オタクの宮司が、絶対にお前と組めと煩くてな」
ギリィッ、と美羽の首を掴む手に、合気と神術の恐ろしい圧が加わる。
祖父である助平の推し活に巻き込まれ、理不尽にスノーへ派遣された楓の瞳には、黒々とした怒りの炎が渦巻いていた。
「あ、あわわわ……っ、首が、折れる、もげるぅぅっ!」
「安心しろ。この行き場のない怒りは、お前と一緒に妖にぶつけてやる。……行くぞ、泥棒猫。朝までぶっ続けの強制労働だ」
楓は、首根っこを掴んだまま、美羽をズルズルと応接室のドアへと引きずっていく。
「ぎゃああああ! 助けて! 持子様ぁぁ! 雪しゃちょおおおお!」
「はい、いってらっしゃい。怪我しないようにねー。明日のレッスンには遅れないでよー」
断末魔の叫びを上げて引きずられていく美羽の背中を見送りながら、雪はティーカップを片手に、にこやかに手を振るのだった。
家族のため、そして愛する魔王のため。
泥棒猫の過酷な(そして絶対に逆らえない後輩との)夜のアルバイトが、今、幕を開けた。




