『罪を抱いた魔王、修羅に導かれる』
エピローグ:日常への帰還と、修羅
氷川の神域での、地獄のような七日間の修練から数日後。
憑き物が落ち、魂の器をひと回り大きくしたわしたち三人は、久しぶりに学園へと登校していた。
「持子様ぁ! 今日も宇宙一、制服がお似合いですぅ! 持子様の歩いた後には百合の花が咲き乱れておりますっ!」
「ちょっと駄犬、離れるんだもんっ♡ 持子様の隣は私の定位置ですぅ。持子様の影を踏んでいいのは私だけなんだから」
わしの両脇では、すっかり「調律者」と「錨」としての役割を自覚したはずの鮎と美羽が、相も変わらずガウガウ、シャーッとマウント合戦を繰り広げている。
特に美羽は、身長150センチ台前半の小柄な体躯でありながら、思わず抱きしめたくなるような柔らかな『マシュマロボディ』をわしの腕にあざとく押し付けてきている。茶色のふわふわウェーブヘアを揺らし、常に潤んだ瞳(演技)と半開きになった桜色の唇で見上げてくる姿は、誰がどう見ても「ド天然な金持ちのお嬢様」だ。
だが、わしは知っている。父親が蒸発した極貧の大家族で育ち、欲しいものは「盗む」か「騙し取る」ことでしか手に入らなかったこやつの本性が、金と物しか信じない『冷酷なリアリスト』であることを。
事実、美羽は甘ったるい媚び声を出しながらも、わしの死角で鮎の制服のポケットから異常に器用な手つきでスッと何か(おそらくヘアピンか何か)を抜き取っていた。息をするように嘘をつき、スリルを求めて万引きを繰り返す窃盗癖のなせる業だ。
「(チッ、シケた小物しか持ってない駄犬だな……)」
と、ドスの効いた早口で小声で毒づいているのもしっかり聞こえている。魂の格が上がろうが、こいつらの根本的な生態は変わらないらしい。やれやれだ。
現在、わしたちは芸能科の校舎ではなく、一般科の校舎へと向かう渡り廊下を歩いていた。
雪の指示で、一般科の教師に提出しなければならない書類があったためだ。
そんな時だった。
「……ほう?」
わしはピタリと足を止め、数十メートル先を歩く一人の『後ろ姿』に目を奪われた。
一般科の制服を着た、黒髪の女生徒。
顔は見えない。だが、背中越しに放たれるその姿勢、歩き方、そして纏う空気だけで、わしの内なる魔王のセンサーがビンビンと反応していた。
(……なまら、規格外の美少女だ)
前から見なくとも分かる。骨格のバランス、重心のブレのなさ。間違いなく、ただ者ではない。
わしの隣では、鮎と美羽が「私が書類を持ちます!」「いいえ私だもんっ♡」とくだらない言い争いに夢中になっている。
(……カカカ。少し、からかってやるか)
わしは下僕たちの目を盗み、背中越しにそっと右手を翳した。
修行を経て純白の光を纏えるようになったとはいえ、わしの本質は魔王。その気になれば、相手の精神を撫でて軽く魅了する程度の『魔力の手』を伸ばすことなど造作もない。
ほんの少し触れて、わしに惚れさせてやろう。
見えない漆黒の魔力の手が、美少女の無防備な背中へとスルスルと伸びていき――。
その肩に、触れようとした、その瞬間。
――ピシャァァァァンッ!!
「ぎゃあぁぁぁっ!?」
突如、美少女の背中から迸った強烈な『純白の光の刃』が、わしの魔力の手を容赦なく叩き斬った。
物理的な腕は無傷だが、魔力の切断による激痛が脳天を突き抜ける。わしは思わずその場に蹲り、右腕を抱えて悶絶した。
「も、持子様ぁ!?」
「持子様、どうしたんですぅ!?」
言い争っていた二匹が慌てて駆け寄る。
その騒ぎを聞きつけ、前を歩いていた美少女が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「…………」
振り返ったその顔を見て、わしたち三人は完全に凍りついた。
氷のように冷たく、一切の感情を排した深い瞳。
神楽殿で、滝壺で、そして道場で、わしたちを文字通り死の淵まで追い込んだ、あの『修羅』。
「か、楓……ッ!?」
一般科の制服に身を包んだ風間楓が、そこに立っていた。
楓はわしが放った魔力の残滓を一瞥すると、一切の足音を立てない『無足』の歩法で、瞬きする間にわしの目の前へと距離を詰めてきた。
「ひぃぃっ!?」
鮎と美羽が、地獄の修行のPTSDを刺激され、悲鳴を上げてわしの背後に隠れる。
楓は蹲るわしを見下ろすと、スッと手を伸ばし、わしの頭をガシッと鷲掴みにした。
「痛っ! ちょ、待っ――」
「また穢れを溜める気か、持子」
ギリィッ! と頭蓋骨が軋むほどの力で頭を掴まれたまま、強制的に地面へと押し下げられる。
耳元で囁かれる、絶対零度の脅し文句。魔王のプライドなど、この圧倒的な暴力と浄化のプレッシャーの前では塵芥に等しい。
「す、すまぬ!! 出来心だ! 悪気はなかった!!」
わしは、己でも驚くほど素直に、そしてマッハの速度で謝罪を口にしていた。
あの死装束での真剣勝負を思い出せば、これ以上の反抗は命に関わる。
わしの全面降伏を聞き届け、楓はようやく頭から手を離し、ふっと短く息を吐いた。
「……分かればいい。先輩」
「……は?」
わしは、痛みも忘れて間抜けな声を漏らした。
背後に隠れていた鮎と美羽も、ポカンと口を開けて楓を見つめている。
「せ、先輩……? 楓、貴様、今なんと言った?」
「先輩と言ったのだ。私は一般科の一年生だからな」
「…………え?」
沈黙が、渡り廊下に降り下りた。
わしは十七歳の二年生だ。
そして目の前にいるこの、数万の怨霊を浄化し、真剣でわしたちを蹂躙し、達人のような風格と落ち着き(と、たまに見せるツンデレ)を兼ね備えた、どう見ても二十歳は超えているであろう完成された神職の女が。
「い、一年生……!?」
「年下ぁぁぁ!?」
「嘘だもんっ! 私たちより後輩なんて信じられないですぅ!?」
わしたち三人の絶叫が、学園の廊下に響き渡った。
「なまらふざけるな! どこからどう見ても二十歳くらいに見えたぞ! 十六歳はいくらなんでも年齢詐欺だべさァァッ!」
「失礼なことを言うな。実年齢だ。まだ誕生日前だから15歳だ……次、無駄な魔力を使ったら、今度は校庭のど真ん中で【禊】させるからな!!!」
「ひぃぃぃっ! すみませんでしたぁぁ!」
冷たく言い捨てて歩き出す一年生の背中を見送りながら、わしたちはただただ平伏し、震えることしかできなかった。
魔王と、忠犬と、泥棒猫。
無事に日常へと帰還したわしたちを待っていたのは、平和な学園生活などではなく、絶対に逆らえない『最強の後輩』に首根っこを掴まれる、新たな修羅の日々の始まりだった。




