『神楽殿の洗礼 ―「負」を「正」へ変える魂の舞―』
✴︎神楽殿、泥と火花の洗礼
「学校など行っている場合ではないわ。あなたたちの命がかかっているのよ」
雪のその鶴の一声と、彼女の完璧な根回し(強権発動とも言う)により、わしたち三人は学校を『公休』扱いで休むことになった。タレントの特権をフル活用した形だが、その実態は優雅な休暇などでは断じてない。
氷川神社での修練は、一日で終わるような生ぬるいものではなかった。
食事と最低限の睡眠を除き、三日間ぶっ続け。外界との接触を完全に絶たれた、文字通りの『地獄の軟禁合宿』であった。
三日目の夜。
底冷えのする神楽殿の板張りの上で、わしは荒い息を吐きながら膝を突いていた。
「……ハァッ、ハァッ……! ええい、忌々しい……ッ!」
わしの手からポロリと神楽鈴が滑り落ちる。
四つの神術の第一の試練、【舞】。
内なる濁った魔力を濾過し、純粋な『神術』の種へと昇華させるための基本にして最大の奥義。
わしは武芸者だ。楓が一度舞ってみせた型など、一瞬で網膜に焼き付け、寸分狂わず筋肉でトレース(再現)してみせた。
「こんな不要な儀式、さっさと終わらせてやるべさ」と慢心していたのだ。
だが、いざ神楽鈴を持ち、舞の型に合わせて己の魔力を練り上げようとした途端――わしの内なる『董卓の業』が、猛烈な拒絶反応を起こした。
バチバチバチッ!!
神聖な舞の動作に乗せようとするたび、わしの内から溢れ出る怨嗟と暴虐の念が『黒い火花』となって暴走するのだ。空間を切り裂くような耳障りなノイズと共に、制御不能の闇の奔流が神楽殿を蹂躙しようとする。
「形だけをなぞるな、持子!」
冷徹な声と共に、楓の持つ黒檀の木刀が、わしの手首をピシャリと叩いた。
「これは武術の型ではない。形ではなく『魂』で舞うのだ。刹那の動きの中で、己の内の『負』を『正』へと転換する心の在り方……それが欠けているお前の舞は、ただの破壊の連鎖に過ぎない!」
「くそっ……! 理屈は分かっておるわ!」
わしがギリッと牙を剥いたその時。
「あ、ああぁぁ……ッ」
「う、ううっ……苦しい、息が……」
背後で、苦悶の呻き声が上がった。
振り返ると、わしから漏れ出した黒い魔力の火花に当てられ、鮎と美羽が床に這いつくばっていた。
わしに従属する二匹の獣。わしの闇が暴走すれば、最も強く共鳴する彼女たちにダイレクトに被害が及ぶ。
鮎の身体からは、夜の街で喰らってきた妖の穢れが『黒い澱』となってボタボタと滴り落ち、彼女の魂を重く縛り付けていた。
泥棒猫である美羽もまた、自身の内に溜め込んだ『嘘』と『執着』がわしの闇と結びつき、過呼吸を起こして首を掻き毟っている。
「……お前たちは、持子の『影』としてただ闇に押し潰されるつもりか!」
楓は素早く二人の元へ歩み寄ると、鮎の背中と、美羽の肩に同時にピタリと手を当てた。
「鮎! お前は主の闇をただ溜め込むゴミ箱ではない。荒ぶる力を受け止め、清流へと流す『調律者(器)』となれ!」
「ち、調律……者……」
「美羽! お前は泥棒猫だろう! 主の闇を盗み込んで一人で抱え込むな! 盗んだ端からその闇を大気に手放し、代わりに周囲の『光』を掠め取って己の魂を薄めろ!」
楓の鋭い喝と、その手から流し込まれる清冽な気が、二匹の獣の魔力回路に強制的に介入する。
「主の力を流す……! 私が、持子様を調律する……ッ!」
「溜め込まない……執着を手放して、光を、かすめ取る……ッ!」
楓の導きにより、鮎の内側でドロドロに滞っていた闇が、まるで『温かい水』のようにサラサラと流れ始めた。美羽の周囲に渦巻いていた黒い霧も、光の風に吹かれてスッと薄れていく。
二人の呼吸が整い、その瞳に確かな理性の光が戻った。
✴︎深夜の静寂と、ツンデレ魔王の疑念
「次は、お前だ」
下僕たちを立て直した楓が、再びわしの背後へと回った。
「カカカ……! 調律だと? このわしの覇気を流せるものなら、やってみるが――」
強がろうとしたわしの言葉は、途中でピタリと止まった。
スッ……。
背後から、楓の細く、しかし武芸者としての確かな芯の通った両手が、わしの手首から手背をすっぽりと包み込んだのだ。そのまま、楓の身体が背中に密着し、直接わしの腕をリードして神楽鈴を掲げさせる。
「抗うな。……委ねろ」
耳元で囁かれる、涼やかな声。
――シャンッ。
楓の動きに合わせて、わしが一歩を踏み出した瞬間。
あんなにも荒れ狂い、黒い火花を散らしていたわしの魂が、嘘のように『凪』を迎えた。
楓の手に触れている部分から、氷のように冷たく、けれど確かな『温もり』を持った神気が流れ込んでくる。それがわしの闇の暴走を包み込み、怒りと怨嗟を優しく解きほぐしていく。
(……なんだ、これは)
わしは息を呑んだ。
黒い霧となって周囲を威圧していたわしの魔力が、楓の動きに同調した途端、透き通るような『純白の輝き』へと変質し始めたのだ。
指先一つで、空間の気を自在に操れる全能感。圧倒的な闇の力が、周囲を彩り、守護する『神力』へと変換されていく確かな手応え。
舞いながら、わしは背中の楓の体温を感じていた。
初日に「始末す」と冷酷に言い放ったあの厳格な言葉とは裏腹に。
わしを導くその手は、どこまでも慈悲深く、そして……必死だった。
背中に密着する楓の息遣いは荒く、彼女の体温が異常なほど高いのが分かる。三日間、わしたちのような規格外の化け物の魔力を正面から受け止め、導き続けることが、どれほどの負担を彼女の身体に強いているか。
(この小娘……。口では殺すなどと嘯いておきながら、本当は、わしらを救おうと必死なのではないか……?)
舞が終わり、楓が静かに手を離した。
神楽殿を包んでいた純白の輝きが、夜の空気へと溶けて消えていく。
「……ハァッ、ハァッ……。今日の修練は、ここまでだ」
楓は肩で息をしながら、額に浮かんだ滝のような汗を乱暴に袖で拭った。その足取りは、初日のような『無足』の冴えを失い、フラフラと覚束ない。
わしは、己の指先に宿った純白の神力の残滓を見つめ、そしてボロボロになった楓を振り返った。
底知れぬ力を持つ巫女への屈辱と、それを遥かに上回る驚き。そして何より――胸の奥がムズムズとするような、奇妙な感情。
「……ふん。なまら世話を焼かせる小娘だべさ」
わしはそっぽを向き、微かに熱くなった頬を隠すように、豪奢なコートの襟を立てた。
「貴様、初日に『殺す』と言ったな。……だがその震える手で、どうやってわしを始末するというのだ? 結局のところ、貴様はわしらを生かすために、己の命を削っているだけではないか」
わしの指摘に、楓はギロリと鋭い視線を送ってきた。
「……勘違いするな。お前たちが禍津神に堕ちれば、東京が消し飛ぶ。私は被害を最小限に抑えるために、お前たちをギリギリで人に留めているだけだ。……気を抜けば、いつでも殺す。殺させないでください、魔王」
釘を刺すようなその言葉は、どこか強がりにも聞こえた。
日付はとうに変わり、深夜の深い静寂が神域を包み込んでいる。
「持子様ぁ……私、自分が『調律者』になれた気がしますぅ……」
「私も……胸の中のドロドロが、嘘みたいに軽いわ……」
疲労困憊で床に倒れ伏しながらも、鮎と美羽の顔には、楓への確かな信頼と感謝の色が浮かんでいた。
わしは倒れる二匹の頭を乱暴に撫で回し、鼻で笑った。
「カカカ! 三日間ぶっ続けの地獄の第一関門、ようやく突破というわけだ! だが楓よ、わしらの覇道はこんなところでは終わらんぞ!」
素直になれない魔王と、優しさを隠す巫女。そして、新たな役割(器)を見出した二匹の従者たち。
深夜の境内に、奇妙な連帯感と絆が芽生え始めた中――氷川の神域での過酷な【舞】の試練は、ようやくその幕を閉じたのであった。




