『破滅の瀬戸際、その先にある覇道へ』
✴︎緊迫の帰路と、視えないはずの雪の沈黙
赤坂の氷川神社を後にしたタクシーは、深夜の都心を滑るように走っていた。
窓の外には、煌びやかな東京のネオンが流星のように後方へと飛び去っていく。だが、車内の空気は、外の華やかな喧騒とは裏腹に、まるで氷点下の冷凍庫に閉じ込められたかのように重く、そして冷え切っていた。
後部座席の中央には、魔王・恋問持子。
その右側には『忠犬』の本多鮎が、左側には『泥棒猫』の花園美羽が、それぞれ主の両脇に侍るように座っている。
いつもならば、持子の隣という特等席を巡って、二匹の獣がガウガウ、シャーッと小競り合いを始めているはずの空間だ。しかし今夜ばかりは、鮎も美羽も、息を殺すように口を閉ざしていた。
彼女たちの体内には、先ほどの武道場で楓に触れられ、圧倒的な闇の魔力の中に通された『白く輝く光の芯』が、未だに熱を帯びて脈打っているのだ。
そして何より、助手席に座る社長――立花雪の背中から、かつてないほど冷徹で、絶対的な『圧』が放たれていたからである。
「……いいこと、三人とも。よく聞きなさい」
不意に、雪が口を開いた。
振り返りもせず、フロントガラスの先を見据えたまま放たれたその声は、いつもの母親のような慈愛に満ちたトーンではなかった。スノーという城を統べる冷徹なプロデューサーとしての、有無を言わさぬ重みがあった。
「明日の放課後。あなたたちは寄り道を一切せず、真っ直ぐにあの神社へ行きなさい。これは社長としての『業務命令』ではなく、あなたたちの命を預かる者としての『絶対の要請』よ」
「絶対の……要請」
美羽が、ゴクリと生唾を飲み込む。
雪の言葉は、さらに鋭さを増して後部座席を貫いた。
「鮎さん」
「は、はいぃっ!」
ビクッ! と、鮎の見えない犬耳が跳ね上がる。
「あなた、明日からしばらくの間、『受験勉強』を一切忘れなさい。 参考書も開かなくていい。予備校も休みなさい」
「…………えっ?」
鮎は、自分の耳を疑った。
早稲田大学合格というブランドを引っ提げて、インテリタレントとして本格的に売り出す。つい数時間前の進路指導で、雪自身がそう方針を決定したばかりだ。誰よりもタレントの将来を考え、教育熱心なはずの雪が、「勉強を忘れろ」と言い放ったのだ。
「で、でも、雪さん! 私、模試の判定も上がってきてて、ここで手を抜いたら――」
「それでもよ」
雪の声が、ピシャリと鮎の反論を遮った。
「あなたたちの内に芽生えた『新しいモノ』。それを確実に定着させ、己のコントロール下に置かなければ……あなたたちは遠からず、本当の『化け物』になって破滅するわ。大学合格なんて、人間として生きていなければ何の意味もないのよ」
「破滅……、本当の、化け物……?」
その言葉を聞いた瞬間、鮎の顔からスッと血の気が引き、同時に、強烈な『違和感』が彼女の脳裏をよぎった。
「……待ってください、雪さん」
鮎は、戸惑いと疑念の混じった声で、助手席の背もたれに身を乗り出した。
「雪さん、今、『本当の化け物』って言いましたよね……? でも、雪さんはいつも、私が『夜の路地裏で百足の妖を狩って美味しかった』って報告しても、『はいはい、忠犬キャラの役作りお疲れ様。そういう設定ね』って、全然信じてくれなかったじゃないですか!」
鮎の指摘は、極めて真っ当だった。
雪は、裏社会(夜界)の妖や魔力といった超常の事象が『視えない』ただの人間だ。これまで持子や鮎がどれほど血みどろの狩りの話をしても、雪は「スノーの看板としての世界観(キャラクター設定)」としてしか受け取らず、「魔王キャラはもういいから」と呆れたように笑って流してきたのだ。
「雪さんが、私たちの話を『設定』じゃなくて、現実の『命の危機』として扱ってる……。なんでですか!? 雪さんには、視えないはずなのに……ッ!」
「美羽さんもよ」
雪は、鮎の悲痛な問いかけを完全に無視し、冷徹に言葉を続けた。矛先が、今度は左側の美羽へと向かう。
「っ……はい、雪社長」
「あなたの歌手デビューに向けたレッスンも、一旦白紙にするわ。あなたの抱える『嘘』や『業』を、その胸の中に宿った光で完全に御することができるようになるまで、明日の修練に全神経を注ぎなさい」
「……承知、いたしました」
美羽は、着物の下で確かに温かな光を放っている小さな魔力の芯を、服の上からギュッと握り締めた。
新参者である美羽には、鮎や持子が抱く「雪が突然オカルトを信じ始めた」という違和感は、そこまで強くない。彼女にとって重要なのは、己の中にある泥棒猫としてのドロドロとした執着心が、持子と繋がる絶対的な光によって制御されているという現在の事実だけだ。これを失えば、自分は本当に狂ってしまう。美羽の瞳には、己の生存本能からくる真剣な色が宿っていた。
だが。
二匹の獣が己の運命の瀬戸際を自覚する中、中央に座る持子だけは、腕を組んだまま、鋭い眼光で助手席の雪の背中を睨みつけていた。
(……鮎の言う通りだべさ)
持子の内なる董卓の血が、静かに、しかし激しく警鐘を鳴らしていた。
雪の言う通り、わしらの内には強大すぎる闇があり、今日初めて『光の芯』が通った。放置すれば、溢れ出す魔力に自我を喰われ、破滅する危険性があるのは事実だ。
だが、雪にはそれが視えない。
道場でわしと楓が合舞を舞い、空間に白銀の糸が可視化された時も、雪の目には「凄まじく洗練された美しい舞」にしか映っていなかったはずなのだ。
それなのに、なぜ雪は、わしらが『魔力の臨界点(破滅の瀬戸際)』にいることを、これほどまでに正確に、しかも「設定」などという言葉で濁すことなく、切迫感を持って理解しているのか。
「……雪」
持子は、低く地を這うような声で、助手席の背もたれ越しに語りかけた。
「貴様、先ほど社務所で、あの助平とかいう宮司と何を話した?」
車内に、さらに一段階冷たい緊張感が走る。
鮎も美羽も、持子のただならぬ声色に息を呑んだ。
「貴様の目には、わしらが抱えている『闇』も、今日芽生えた『光』の正体も、物理的には視えていないはずだ。わしが巨大な怨霊を喰らって『美味かった』と言っても、貴様はいつも『魔王キャラはいいから、ブランドイメージが崩れる』と否定していたではないか」
持子はバックミラー越しに、雪の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「……それなのに、なぜ貴様は、わしらが今『破滅するか否かの境界線』に立っていると断言できる? あのタヌキ爺……貴様に何を吹き込んだ?」
持子の問いは、的を射ていた。
雪がここまで絶対的な命令を下す背景には、間違いなく助平との密談がある。あの老人が、雪に対して『何か』を告げたのだ。
持子はさらに身を乗り出し、凄みを効かせた。
「答えろ、雪。貴様はわしの絶対の軍師だ。わしに隠し立てすることは許さんぞ」
数秒の、永遠にも似た沈黙が車内を支配した。
タクシーの規則的なエンジン音と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが、やけに大きく響く。
やがて。
雪はバックミラー越しに持子と視線を交わすこともせず、ただ静かに、窓の外の夜景へと顔を向けたまま、ポツリと答えた。
「……答えないわ」
「なんだと?」
持子の眉がピクリと跳ね上がる。
「宮司さんと何を話したかは、あなたたちには関係のないことよ。……私がプロデューサーとして、あなたたちをさらに上のステージへ引き上げるために『今、あの神社の修練が絶対に必要だ』と判断した。それだけよ」
「はぐらかす気か、雪。貴様がオカルト(魔力)を真に受けるなど、異常事態だぞ」
「はぐらかしてなんていないわ。私は私の仕事をしているだけ。……持子さん、あなたは私を信じられない?」
雪の声は、一切の揺らぎがなかった。
冷たく、しかし同時に、持子たちを何としても守り抜くという、鋼のような覚悟がその沈黙の裏に隠されているのが、痛いほどに伝わってくる。
雪は、見えない超常の力を『直感』で察知しているのか、あるいは助平から何か恐るべき警告(あるいは限界オタクとしてのトンデモない要望)を受けたのか。
その真相は、雪の固く閉ざされた唇の奥に隠されたままだ。
(……なまら、食えない女だ)
持子は、ふっと息を吐き、組んでいた腕を解いた。
これ以上問い詰めても、雪は絶対に口を割らない。そういう女だと、持子は誰よりも知っている。そして、雪が自分たちを害するような判断を絶対に下さないことも、魂の底から理解していた。
「……ふん。よかろう」
持子は豪奢なコートの背もたれに深く体重を預け、三国志の覇王としての獰猛な笑い声を上げた。
「貴様がそこまで言うのなら、理由は問わん。あの楓とかいう小娘の腕が確かなのは事実だ。わしの内にある化け物の扱いを、奴は知っている」
持子はニヤリと唇を吊り上げ、二匹の下僕を一瞥した。
「運命の瀬戸際だと? 上等だべさ! 隠された真相だろうが、光だろうが破滅だろうが、このわしが丸ごと喰らい尽くして、貴様との新しい覇道に敷き詰めてやるわ!!」
「……ええ。期待しているわ、持子さん」
雪の横顔が、窓ガラスの反射の中で、ほんの少しだけ柔らかく微笑んだように見えた。
忠犬と、泥棒猫。
そして、それらを束ねる魔王と、絶対の秘密を抱え込んだ聖母。
規格外の怪物たちを乗せたタクシーは、来るべき明日の『決戦』――氷川の神域での、運命を左右する最大の試練へ向けて、東京の深い夜の闇を一直線に駆け抜けていった。




