『最果ての監獄、そして魔王の夜食』
網走。
最果ての監獄である。
闇が、濃い。
雪の降る音が、聞こえるほどに静かであった。
気温はマイナス二十度。吐く息すら瞬時に凍りつく、死の冷気。
明治の世より、数多の罪人たちが血の涙を流し、骨を埋めてきた極寒の怨念地。
その赤レンガの正門の前に、一人、立つ者がいる。
恋問持子であった。
ホテルで温かいシーツに包まり、健やかに眠る立花雪を置いて、一人、夜の雪原へと抜け出してきたのである。
(雪は、よく眠っておったからな。夜食くらい、一人で喰らっても文句は言われまい)
持子は、薄い笑みを浮かべた。
防寒着すら羽織らぬ、薄手の出で立ち。
だが、その白磁の肌は寒さに震えるどころか、青白い月光の下で妖しく発光しているようであった。
「……ふむ」
持子は、赤レンガの門を見上げて、独りごちた。
白く凍りつく吐息と共に、静かな言葉が夜の闇に溶けていく。
「昔、高倉の師匠から面白い話を聞いたことがあってな」
誰もいない雪原に向かって、持子は語る。
「かつて、合気柔術(武道)を極めんとする凄腕の武芸者たちは、己の技を磨くため、わざわざこの網走監獄の門前へと足を運んだそうだ。……狙いは、ここから出所してくる、筋金入りのヤクザ者や血の匂いを纏った殺し屋どもよ」
持子の黄金の瞳が、凄惨な歓喜に細められる。
「奴らは裏の住人。ゆえに、どれだけ容赦なくブチのめされ、骨を砕かれようが、決して警察に泣きつくことなどできぬからな。……生きた人間相手の、全力の実戦稽古。狂ってはいるが、極めて合理的で血生臭い修練よ」
持子は、己の掌を見つめ、ゆっくりと握りしめた。
ギリッ、と骨の鳴る音が響く。
「ならば、その合気の理を継ぐわしが、その故事に倣わぬ手はない。……今宵は、この網走に巣食う妖どもを相手に実戦稽古と洒落込み、ついでにわしの牙で、丸ごと喰らってやるとしよう」
だが。
周囲を見渡すが、静かすぎる。
妖の気配はするが、どうやら警戒しているようだ。持子の放つ「覇気」が強すぎるため、雑魚どもが怯えて物陰に隠れてしまっているのである。
「チッ。奥ゆかしいことだ。……ならば、少しばかり『撒き餌』をしてやろう」
持子は、ニヤリと唇を歪め、己の丹田に意識を集中させた。
普段は合気武道の理で何重にも封じ込めている、前世・董卓の暴虐なる魂と、超高密度の魔力。
その蓋を、ほんの数ミリだけ、ずらす。
ズズズズズズ……ッ!!
持子の足元の影が、不気味に蠢いた。
そこから、不可視の「黒い霧(魔力)」が、雪原を這うように広がり始める。
それは、凄惨な闇の力でありながら、同時に、飢えた妖たちにとっては抗うことのできない「極上の甘い匂い」を放っていた。
最高級のトリュフと、滴るような生肉の香りを混ぜ合わせたような、破滅的な誘惑。
「さあ、来い。網走の闇に巣食う者どもよ。……わしの極上の魔力を、喰らいに来るが良い!」
ドクン、と。
大地が、脈打った。
『……ォ……』
風の音ではない。
『……ニク……血肉ォ……甘イ……匂イィィィ……!』
ザシュッ! ザシュッ! ザシュッ!
雪を踏む音がする。一つではない。十、百、いや、無数。
現れたのは、赤黒い怨念の塊。かつてこの極寒の地で斃れ、地に縛られた囚人たちの亡霊。そして、彼らの絶望を喰らって育った、異形の妖の群れである。
皮膚は爛れ、眼窩は虚ろに黒く、その口からは飢餓の涎が滴り落ちている。
「ほう。なかなかに活きが良いな。大漁ではないか」
持子は、黄金の瞳を細めた。
恐怖はない。あるのは、純粋なる食欲と、武者震いのみ。
『ガアアアアアアッ!!』
『喰ラウゥゥゥッ!!』
四方八方から、津波のように押し寄せる亡霊の群れ。
「だが、雑魚の群れに、いちいちわし自身の手を汚すのは面倒だな」
持子は腕を組んだまま、フッと笑った。
「出よ。……**『闇の腕』**ッ!」
ボオォォォォォォンッ!!
持子の足元、漆黒の影が爆発的に膨張した。
そして、その影の中から、巨大な、禍々しい「黒い手」が、タコあるいは蜘蛛の脚のように、何本も、何十本も生え出したのである!
それは、持子の魔力そのものが具現化した、絶対的な捕食器官。
『ギ、ギャアッ!?』
飛びかかってきた亡霊たちが、空中でその「闇の腕」にガシィッ!と鷲掴みにされる。
「さあ、前菜のパレードだ! 口に運べ!」
ブンッ!
闇の腕が、掴んだ亡霊を、次々と持子の顔面へと放り投げる。
持子は一歩も動かず、ただ大きく口を開けた。
ガブリッ! ボリッ! モシャァッ!
「美味い! これはスルメのような噛み応えだ! 網走の寒風で干された分、塩気が効いておるな!」
バキィッ! グチャッ!
「おおッ! こっちはホタテの紐のような食感! 噛めば噛むほど、絶望の旨味が染み出してくるわ!」
闇の腕が、雪原を蹂躙する。
逃げ惑う妖たちを、容赦なく掴み、引き裂き、持子の口という名のブラックホールへと放り込み続ける。
さながら、全自動のポップコーンマシーン。
黒い血飛沫(怨念)が舞うが、魔力で弾かれているため、持子の美しい姿には一滴の穢れもつかない。
「ハッハッハ! 良いぞ! どんどん持ってこい! カロリーは全て魔力に変換される! わしの五十八キロは揺るがぬわッ!」
取り込んだ霊体は、瞬時に持子の丹田へと落ち、超高密度の熱へと変わってゆく。
その時である。
ズゥゥゥン……!!
大地が、激しく揺れた。
雑魚の妖どもが、恐れをなして道を空ける。あるいは、闇の腕から逃れるように雪に伏せる。
赤レンガの門の奥から、凄まじい地響きと共に姿を現したのは、肉山であった。
否。無数の亡霊が融合し、巨大な看守、あるいは死刑執行人のような姿となった大妖。
身長は五メートルを超え、右腕には巨大な鉄球(怨念の塊)をぶら下げている。
『オ……オオオオオオオオオオオッ!!!』
網走監獄の、絶対的な「闇」。
長きに渡り、この地に君臨してきた恐怖の象徴。
その咆哮だけで、周囲の雪が爆風のように吹き飛ぶ。
「ほほう」
持子の口角が、限界まで吊り上がった。
黄金の瞳が、歓喜に爛々と輝く。
「……雑魚散らしは終わりだな」
シュルルルル……。
持子は、展開していた「闇の腕」を、全て自身の影の中へと収納した。
「メインディッシュのお出ましだ。……極上の霜降り肉は、機械など使わず、武芸者らしくわし自身の手で捌き、わし自身の牙で喰らってこその礼儀というものよ」
持子は、腰を深く落とした。
半身の構え。
前世の暴君・董卓の血が、そして魔王の腹の虫が、激しく鳴動する。
「来い。網走の主よ。……出所祝いに、たっぷりと稽古をつけてやる」
ゴォォォォォォォォォンッ!!!
大妖が、巨大な鉄球を持子を圧殺せんと振り下ろした。
空気を引き裂く轟音。
直撃すれば、ダンプカーすら紙屑になる絶大な質量と呪い。
だが。
持子は、逃げない。
「合気武道――」
ズンッ。
持子は一歩踏み込み(入り身)、両手を、振り下ろされる鉄球へ、下から撫でるように添えた。
「――『車倒し(くるまだおし)』ッ!!」
激突、ではない。
吸収、そして反発。
鉄球の莫大な運動エネルギーが、持子の柔らかな腕を伝わり、丹田を巡り、魔力と混ざり合って、そのまま倍加して大妖へと打ち返される。
ドガァァァァァァァンッ!!!
『――ガ、アッ!?』
大妖の巨体が、自らの力に弾き飛ばされ、五メートルの巨体が宙に浮いた。
「逃がさんぞ」
ダンッ!
持子が、夜の空を裂いて跳んだ。
月を背にし、放物線を描いて落ちてゆく大妖の胸ぐら(にあたる部分)に、空中で飛び乗る。
『ギ、ギィィィィッ!!』
「さあ、わしの血肉となれ。……この美貌の糧となれ!」
持子は、大きく、限界まで顎を外すように口を開けた。
魔王の口腔。
それは、全てを飲み込む深淵。
「いただきまァァァァすッ!!」
ガブゥゥゥゥゥゥゥッ!!!
『ギャアアアアアアアアアアアアアッ!!!!』
大妖の断末魔が、網走の夜空に響き渡る。
持子の鋭い牙が、分厚い怨念の塊を、霊体ごと食いちぎる。
ブチブチブチッ! メチャァッ! ゴリィッ!
濃厚な、あまりにも濃厚な闇の味が、舌の上で爆発する。
「美味いッ!! これだ、この熟成された怨み辛み! 百年の絶望が沁み込んだ、最高級のフォアグラにも勝る濃厚さよッ!!」
持子は、狂ったように喰らった。
引き裂き、噛み砕き、貪り食う。
空中で、雪原に落ちてなお、喰らって、喰らって、喰らい尽くした。
***
静寂が、戻った。
雪は降り続いている。
網走監獄の門の前には、もはや妖の気配は微塵も残っていない。
チリ一つ、怨念の欠片一つ、残されていない。
ただ、一人。
月明かりの下に、恋問持子が立っていた。
「……ふぅ。ゲップ」
持子は、口元を手の甲で上品に拭った。
黄金の瞳が、怪しく、そして圧倒的に美しく輝いている。
丹田に満ちた規格外の魔力が、持子の完璧なプロポーションを、さらに艶やかに引き立てていた。
「ごちそうさまであった。……うむ、腹八分目といったところだな」
持子は、くるりと踵を返した。
「さて、雪が起きる前に、ホテルへ戻らねばな。……朝食のバイキングに、出遅れてしまう」
これだけ巨大な怨念を喰らっておきながら、魔王の胃袋は、まだ物理的な食事を求めているのである。
北の大地、網走の夜は、深く、そして魔王の圧倒的な暴力の前に、静かに更けていった。
北海道〜持子と雪の休暇旅行編は、後日時間ができたら書きます。
持子の魔王らしいところが、やっと書けました。
こういうのを、もっと最初に書きたかったんだけど、ギャグしたい。エロしたい、合気武道したい、色々やっているうちに、持子の内面董卓など書き上げていったら、書かなきゃいけないイベントが近づいてきて、訳わかんなくなりました。書き溜めた分があるんだけど、どの順番で出して良いか混乱中。




