魔王董卓、知性を失い美貌を得る
序章:代官山の魔王、己の知能指数(IQ)を知る
闇があった。
むせ返るような、代官山の朝。
芸能プロダクション・スノーの事務所に、一陣の、刺すような沈黙が流れていた。
「……断る」
ヴィンテージのソファーに深々と沈み込み、優雅にルッコラに生ハムを巻いて口に運んでいた絶世の美女――恋問持子が、低い地を這うような声で断じた。
身長百七十五センチ。白磁の如き肌、豊満ながらも引き締まった肢体。その圧倒的な美貌は、部屋の照明さえも霞ませるほどの「圧」を放っていた。
彼女こそは、現代に蘇った三国志の暴君・魔王董卓の生まれ変わりにして、今をときめくトップモデルである。
だが、その視線の先にいる小柄な女性――社長兼マネージャーの立花雪は、微動だにせずに一枚の紙を突きつけていた。
「断る、じゃないわよ! あなた、最近、学校に一度でも行った!?」
雪の声が震えている。
彼女が握りしめているのは、私立聖ミカエル学園から届いた、忌まわしき『欠席超過』の赤紙(通知書)である。
「がっこう……?」
持子の手が止まった。箸代わりのフォークが、宙で静止する。
「そうよ、学校! 高校生でしょ、あなた! モデルの仕事と激辛と『VENUS ARK』の格闘技で、すっかり忘れてたわ! あなた、今のままだと留年よ。今すぐ準備して、登校しなさい!」
「……行かぬ」
持子は再び短く拒絶した。だが、その声にはいつもの魔王としての傲岸さだけではない、何やら薄膜に包まれたような「澱み」があった。
なぜか。持子自身、それが分からぬ。
自分は前世、後漢の相国・董卓である。千軍万馬を指揮し、洛陽を焼き、天下をその掌中で転がした男である。恐れるものなど、呂布の裏切り(あれは痛かった)以外にこの世にあるはずがない。
だが――「学校」という言葉を聞くたび、胸の奥で小さく、しかし鋭い痛みが走るのだ。
(なぜだ……? なぜわしは、あの場所をこれほどまでに忌避する?)
持子の脳裏に、今の「恋問持子」という少女の、転生前の記憶がぼんやりと浮かぶ。
かつて札幌の地で、雪にスカウトされた時の記憶だ。
雪は、あの時、満面の笑みでこう言った。
『持子さん、東京に来てモデルになりなさい。芸能科のある高校に編入すれば、勉強なんてしなくていいの。試験用紙に名前さえ書けば、卒業できるんだから』
その甘い、甘露のような言葉。
東京の華やかさ、モデルという覇道への興味も確かにあった。
だが、当時の持子を最も惹きつけたのは、「名前を書くだけで卒業できる」という一点であったのだ。
(そうであった……。わしは、その言葉を信じて、津軽海峡を渡ったのだ……)
持子の記憶。それは、霧の中に咲く一輪の花のようであった。
無垢。純真。ただ、笑っている。
何を考えているのか分からぬが、ただそこに在るだけで周囲を和ませる、可愛い女。
それは――。
(……貂蝉)
あの、長安の月光の下で、己を破滅へと誘った、あの絶世の毒婦。
しかし、まだ誰の手にも触れられていなかった頃の、あの「貂蝉」の姿に、今の持子の魂が重なった。
(あのような女が、学びの場などで、何をするというのだ……因数分解など、舞の足しにもならぬ……)
不意に。
持子は、己の豊かな、あまりに豊かな双丘に手をかけた。
それは無意識の動作であった。貂蝉を思い、その絶望的なまでの美しさを己の肉体で再確認する。指が、絹のシャツ越しに柔らかな肉の弾力を捉える。
「……んっ、あ、あああぁぁぁんっ❤」
声が出た。
魔王の魂を、女の肉体が凌駕する。
その淫らな、鈴を転がすような喘ぎが、事務所の朝の空気を甘く、熱く、濁らせようとした、その刹那――。
「朝から何やっとんじゃあぁぁぁっ!!!」
ドガッ!
鈍い衝撃が、持子の後頭部を襲った。
雪の、愛と殺意のこもったスリッパによる全力の「ツッコミ」である。
「あだっ……!? き、貴様、雪、わしを叩いたな! 名前さえ書けば良いと言ったのは貴様ではないか!」
持子は涙目で抗議した。しかし、雪は仁王立ちで言い放った。
「名前さえ書けば良いのは、ちゃんと出席日数を満たして、授業に出てたらの話よ! ただでさえ勉強できないのに、これ以上休んで、もっとバカになる気なの!?」
静寂。
事務所に、再び闇が、いや、悟りの静寂が訪れた。
(……勉強……できない……バカ……?)
持子は、呆然とした。
その言葉が、雷鳴のように脳髄を貫いた。
霧が、晴れた。
学校に行きたくない、あの不可解な忌避感。その正体が、今、白日の下に晒された。
「……そうか」
持子が、ポツリと零した。
「わしは……。恋問持子は、なまら、頭が悪かったのか……」
「気がつくのが遅いのよ! 中学レベルの分数が怪しいの、忘れたの!? 先月の小テストの答案、名前以外全部白紙だったでしょ! しかも名前すら漢字間違えてたじゃない!」
持子は、戦慄した。
魔王・董卓。兵法を語り、権謀術数を駆使し、天下を支配した男。
その男が、今の肉体に宿り、いざ机に向かおうとした時、細胞レベルで拒絶反応を起こしていたのだ。
なぜなら、この肉体の主は、絶世の美貌と運動神経と引き換えに、学力という名の知性を、札幌の雪の中に置いてきたからである。
「……雪よ。わしは、行かぬ」
持子の瞳に、絶望の色が混じる。
「学校に行けば、わしの『魔王』としての威厳が崩壊する。因数分解などという、いかなる軍略よりも難解な呪術に、わしは……わしは勝てる気がせぬのだ……っ!」
「四の五の言わない! 行くのよ! 高校は義務教育じゃないの。ここで辞めたら、あなたはただの『中卒の、なまらバカな美少女』になっちゃうのよ!」
雪は、泣き出しそうな持子の首根っこを掴んだ。
175センチの巨躯が、小柄な女社長に引きずられていく。
「あ、あああああっ……、いやだ、いやだ雪! 数学だけは、数学の教師だけは、呂布より恐ろしいのだぁぁ……っ!!」
お台場のリングで最強の格闘家を沈めた魔王が、今、代官山の路上で、一冊の「教科書」に敗北しようとしていた。
「いい? 今日の夕飯、予約困難な『今半』の特上すき焼きなんだけど……学校サボるならキャンセルよ!」
「……な、なんだと? すき焼き……あの、黄金の卵にくぐらせる、至高の肉か!?」
「そうよ。中卒には食べさせられないわね」
「ぐぬぬ……! 雪の鬼! 悪魔! ……分かった、行く! 行けばよいのであろう!!」
こうして、すき焼きという餌に釣られた魔王は、地獄(学校)への護送車に乗せられたのである。




