『凍てつく神の庭と、贅沢な空白』
『凍てつく神の庭、あるいは空白という名の贅沢』
✴︎神々の庭、フロストフラワー
午前六時四十分。
東の空が、濃藍色から、徐々に琥珀色へと溶け始めた。
風は死んだように凪いでいる。
気温、マイナス18度。
生命の活動を拒絶するような極寒の静寂の中、阿寒湖の氷上には、一夜にして**「奇跡」**が咲き乱れていた。
『フロストフラワー』。
湖面の氷の割れ目から立ち昇った水蒸気が、マイナス15度以下の冷気によって瞬時に結晶化し、幾重にも積み重なって生まれた、氷の薔薇。
触れれば崩れ、息を吹きかければ消える。
物理的に最も脆く、それゆえに最も美しい、冬の妖精が残した足跡。
その繊細な花畑の中心に、**恋問持子**は立っていた。
「…………」
彼女が纏うのは、パリのオートクチュール界がこの日のために仕立てた、銀と漆黒のドレス。
漆黒のベルベット生地は、まだ薄暗い朝の空気を吸い込み、持子の白磁の肌の輪郭を鋭く、そして妖艶に際立たせている。
首元には、星の欠片を繋ぎ合わせたようなダイヤモンドのジュエリーが、凍てつく空気の中で冷たい火花を散らしている。
(……来るぞ)
持子は、東の稜線を見据えた。
足元の氷は薄い。
雪(社長)が脅した通り、数ミリ下は深淵だ。
だが、今の持子に恐怖はない。
合気武道の理で重心を制御し、魔力を巡らせて58キロの質量を「羽毛」のように軽く保っている。
やがて、雄阿寒岳の肩から、一筋の閃光が放たれた。
――日の出。
「――おお……ッ」
スタッフの誰かの感嘆が、白く凍りつく。
朝日がフロストフラワーに触れた瞬間、湖面は数億のダイヤモンドを砕き散らしたような、爆発的な輝きを放ち始めた。
世界が、光に包まれる。
その中心で。
恋問持子が、ゆっくりと目を開いた。
「…………」
黄金の瞳が、朝焼けの紅を映して燃え上がる。
その姿は、もはや人間のモデルではなかった。
北の空を統べる、美しき冬の妖精ではない女神。
あるいは、氷の城に君臨する、神々しいまでの魔王。
圧倒的な「美」の暴力。
監督も、カメラマンも、そして誰よりも彼女を知る立花雪さえも、呼吸を忘れた。
あまりの神々しさに、誰もシャッターを切ることができない。
「人」が「神域」に触れることを躊躇うような、畏敬の念が現場を支配した。
「――おい」
静寂を裂いたのは、凛とした、鈴の音のごとき持子の声であった。
彼女は、美しく整えられた顎をわずかに上げ、凍りついた監督を黄金の瞳で射抜いた。
「何を呆けておる」
持子が、薄く笑う。
それは慈愛のようでもあり、見る者すべてをひれ伏させる捕食者の笑みでもあった。
「この光、この一瞬を、わしは今、命を削って体現しておるのだ。……早く撮らぬか。わしの美しさを、その機械に刻み込めッ!」
その一喝で、時間が動き出した。
「……ッ! 総員、回せッ! 撮れッ! 一秒も逃すなッ!!」
我に返った監督の怒号が響く。
そこからは、陶酔の刻であった。
シャッター音が、拍手喝采のように鳴り響く。
持子は指先一つ、視線一つで、阿寒の自然さえも自らの従者のように支配した。
風が吹けば髪をなびかせ、光が差せば宝石を煌めかせる。
ブランドコスメの艶が、ジュエリーの輝きが、彼女の肌の上で初めて「意味」を持ち、命を宿す。
(見よ、世界。これが魔王だ)
持子の魂が叫ぶ。
過去の暴虐も、現在の食欲も、全てを飲み込んで昇華させた、最強の美。
撮影は、滞ることなく、かつてない密度と熱量で進行していった。
✴︎パリとの交信、知性の鍔迫り合い
撮影終了から一時間後。
湖上のテント内にて、再びパリとの回線が繋がれた。
モニターの向こうには、ワイングラスを手にしたエレーヌ・リジュの姿があった。
送られてきたばかりの映像データを見たのだろう。彼女の青い瞳は、興奮と満足感で潤み、頬は微かに紅潮している。
『Magnifique...(素晴らしいわ……)』
リジュが、ため息混じりに呟いた。
『C'est de l'art. Non, c'est un miracle.(これは芸術よ。いいえ、奇跡ね)』
『Your performance exceeded my imagination, Mochiko.(貴女のパフォーマンスは、私の想像を超えていたわ、持子)』
「ふん。当然だ」
持子は、撮影の緊張から解放され、すでにふんぞり返ってプロテインバー(雪に許可された唯一の食料)をかじっている。
「わしが本気を出せば、太陽さえも演出照明に過ぎん」
『Fufu... Arrogant as always. But I love it.(ふふ……相変わらず傲慢ね。でも、そこが好きよ)』
リジュは微笑み、視線を隣に控える立花雪へと移した。
『Yuki. Excellent management.(雪。素晴らしいマネジメントだったわ)』
『This project is a great success. We will proceed to the second phase immediately.(このプロジェクトは大成功よ。直ちに第二弾へ進みましょう)』
「Merci, Mademoiselle Lige.(ありがとうございます、リジュ様)」
雪は深々と頭を下げ、そしてゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳には、単なる下請け業者ではない、強い意志の光が宿っていた。
「We are honored to continue working with Luxe Impérial.(リュクス・アンペリアルと引き続きお仕事ができること、光栄に思います)」
雪は流暢な英語で切り出し、そこから言葉を選びながら、核心へと踏み込んだ。
「However, for the next project... we would like to discuss not just as a model agency, but as a creative partner.(ですが、次のプロジェクトに関しましては……単なるモデル事務所としてではなく、クリエイティブ・パートナーとしての協議をさせていただきたいのです)」
『……Oh?』
リジュがグラスを揺らす手を止めた。
雪の意図――それは、単に「使われる」側から、企画や演出にも関与する「対等な立場」への昇格の打診だ。
持子の価値を最大限に高め、同時に守るためには、主導権の一部を握る必要がある。
『Partner... you say?(パートナー……ですって?)』
リジュの瞳が、鋭く細められた。
冷徹なビジネスマンの顔。
画面越しの空気が張り詰める。
『Yuki. You are talented. I admit that.(雪。貴女は有能よ。それは認める)』
リジュは静かに告げた。
『But... it's too early.(でも……まだ早いわ)』
拒絶。しかし、完全な否定ではない。
『Let's see the success of the second campaign. If Mochiko can conquer the world again... then, I might consider your proposal.(第二弾の成功を見届けましょう。もし持子が再び世界を征服できたなら……その時、貴女の提案を考えてあげてもいいわ)』
リジュは妖艶に微笑み、画面越しに雪を指差した。
『Don't rush, my dear. Trust needs time.(焦らないで。信頼には時間がかかるものよ)』
雪は一瞬、唇を引き結んだが、すぐにプロフェッショナルな笑みを返した。
「Understood. We will prove our worth.(承知いたしました。我々の価値を証明してみせましょう)」
『Bien.(よろしい)』
リジュは満足げに頷くと、最後に持子へ視線を戻した。
『The next shoot will be in a completely different location. Until then... rest well.(次の撮影は全く違う場所になるわ。それまでは……ゆっくり休んで)』
『Store your power, my little Demon King.(力を蓄えておきなさい、私の小さな魔王様)』
『Au revoir.(また会いましょう)』
プツン、と通信が切れた。
「……ふぅ」
雪は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「……強敵ね。簡単には主導権を渡してくれないわ」
「雪よ、案ずるな」
持子が、プロテインバーの包み紙を捨てながら言った。
「あやつはもう、わしらに夢中だ。……『待て』と言われれば言われるほど、欲しくなるのが獣の性よ」
「……ふふ。そうね。あんたの言う通りかも」
雪は眼鏡の位置を直し、持子を見て微笑んだ。
「お疲れ様、持子。……完璧だったわ」
✴︎覇王の帰還、そして8日間の「空白」
「終わった……終わったぞッ!!」
テントを出て、白銀の世界に戻った瞬間。
冬の女神の仮面は霧散し、いつもの「暴食の魔王」が帰還した。
「雪、約束だ! 肉だッ! カニだッ! 温泉だッッ!! あの体重計は窓から投げ捨てろ!」
持子は両手を広げ、阿寒の空に向かって咆哮した。
今回のミッション。
CM撮影、スチール撮影、そのすべてが完璧な仕上がりで、まさかの一日のうちに完了してしまった。
本来、冬の阿寒の厳しい気象条件を考慮し、スポンサーであるリジュグループは、予備日を含めてたっぷりと**「10日間」**のスケジュールとホテルを確保していたのだ。
だが、潰れたのは初日のみ。
天候さえも味方につけ、神速で仕事を終えた今。
彼女たちの手元には、**「丸々8日間」**という、途方もなく莫大な空白が残された。
「……さて」
雪は、ホテルのラウンジに戻り、黄金色に輝く午後の阿寒湖を眺めながら呟いた。
隣では、持子がすでにルームサービスのメニューを広げ、端から端まで指差してスタッフを困らせている。
「持子さん。……撮影は終わりました。次の仕事まで、あと8日も空いています」
「ふむ……」
持子はメニューから顔を上げ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
その瞳は、撮影の時とは違う、獲物を狙う野生の輝きを放っていた。
「雪、わしは決めたぞ。この8日間……北海道のすべてを食らい尽くしてやる!」
「すべて、ですか」
「うむ! まずは……目の前の湖だ!」
持子は窓の外、まだ白く凍りついた湖面を指差した。
「**『ワカサギ』**だッ! 氷にドリルで穴を開け、湖底の命を釣り上げ、その場で天ぷらにして食らってくれるわッ! 揚げたてこそ正義! 支度をせよ、雪ッ!」
「……はぁ。やっぱり、そうなりますか」
雪は呆れたように、しかしどこか嬉しそうに溜息をついた。
予定外の休暇となった北海道8日間。
今回の撮影で持子の借金は完済。
カロリー計算も(一旦)忘れ。
仕事でも、主従でもない。ただの「共犯者」としての二人の時間が始まる。
「わかりました。……じゃあ、釣り竿と天ぷら鍋、手配しますね」
「うむ! わしはコーラ、雪はビールだろ!日本酒か、忘れるなよ!」
冬の午後の光に、二人の笑い声が溶けていく。
贅沢で、騒がしくて、愛おしい「空白」が、今、幕を開けた。
うー
フロストフラワー見たいよ




