『氷が割れるか、心が折れるか』
イマジンしてごらん。
午前三時の「餌」論争
午前三時。
丑三つ時すら過ぎ、阿寒の闇は一日のうちで最も深く、そして最も冷酷な牙を剥く時間帯。
だが、ニュー阿寒ホテルの一室で**「食料戦争」**が勃発していた。
「ヌウッ! 雪よ、貴様は正気かッ!?」
魔王・恋問持子は、テーブルに置かれた物体を指差し、雷鳴のごとき咆哮を上げた。
「なぜ、決戦前の朝食が……**これ(ゼリー飲料)**だけなのだッ! わしの胃袋は、北の果ての飢えた狼のようになまら咆哮しておるぞ! カニは!? イクラ丼は!? せめて牛一頭くらい持ってこんか!!」
持子の目の前にあるのは、コンビニで売っている『10秒チャージ』的なゼリー飲料一本と、ドライフルーツが数切れのみ。
魔王の朝食としては、あまりにも貧相。あまりにも無慈悲。
だが、対面に座る立花雪は動じない。
優雅に紅茶を啜り、眼鏡の奥から慈愛に満ちた、しかし絶対零度の視線を返した。
「静かにしなさい、持子さん。隣の部屋のお客さんが起きるわよ」
「静かにしていられるか! これは暴動案件だ! わしを餓死させる気か!」
「死なないわよ。……持子さん、これから着るドレス、忘れたわけじゃないわよね?」
雪はタブレットを操作し、今回の衣装である『銀と漆黒のオートクチュールドレス』の画像を表示した。
「ウエスト56センチ。伸縮性ゼロ。エレーヌ様があなたの『黄金比』に合わせてミリ単位で調整した、呼吸する余裕すらないドレスよ。……ここでお腹が出てしまっては、せっかくのブランドジュエリーが泣きます。撮影が終われば、好きなだけ阿寒の幸を喰らえばよいではないですか」
正論。あまりにも正論。
だが、食欲の化身である持子は食い下がる。
「ぬぅ……雪、貴様は忘れたのかッ! わしがどれだけ喰らおうが、この覇王の体型が変わることなど万に一つもあり得んわッ! 摂取したカロリーは全て魔力に変換される! 物理法則など、わしの前では無力!」
「……よく言いますよ。前みたいに魔力圧縮に失敗して、体重が99キロ近くまでいったらどうするんですか」
「うぐっ……! そ、それは過去の話だ! 今のわしは合気武道により魔力を循環させ、常に58キロのシンデレラ体重(平均値)を維持して……」
「信用できませんね」
雪はカップを置くと、足元の紙袋からガサゴソと**「それ」**を取り出した。
無機質なガラスの光沢。デジタル表示の冷たい輝き。
薄型の最新式ヘルスメーターである。
「なっ……貴様、それをどこから出したッ!?」
「予備ですよ」
「予備!? 東京からわざわざ持ってきたのか!? 貴様の荷物が重かったのはそれのせいか!」
「備えあれば憂いなし。……さあ、今のあなたの『絶対王政(58キロ)』が、数字の上でも保たれているか確認しましょうか? 今ここで」
雪の指先が、体重計の電源スイッチを冷ややかに指し示す。
『0.0kg』の青い文字が、まるで死刑執行のカウントダウンのように点滅した。
持子の顔が、阿寒の氷よりも白く引き攣った。
(ま、マズい……! 昨夜、調子に乗ってステーキ10枚とカニチャーハンを……魔力変換は間に合っているか!? いや、まだ腹の中に物理的に残っているのでは!?)
✴︎氷上の物理学と、水没する美女。
たじろぐ持子に、雪は畳み掛ける。
「いいですか、持子さん。これから向かう『フロストフラワー』の群生地が、どれだけ物理的にシビアな場所か分かっていますか?」
雪は淡々と、しかし逃げ場を塞ぐようなトーンで「死の講義」を始めた。
「フロストフラワーは、湖の氷から立ち昇った水蒸気が、マイナス15度以下の極寒の中で結晶化した『氷の花』。……つまり、それが咲いているということは、そこは**『氷が薄い』**ということなんです」
「薄い……だと?」
「ええ。分厚く凍った安全な場所では、水蒸気が上がってこないから花は咲かない。つまり、あなたが立つ撮影ポイントは、湖の底と薄氷一枚で隔てられただけの、もっとも危険な場所なんです」
雪は眼鏡をクイと押し上げた。レンズがキラリと光る。
「スタッフさんが事前にテストして、『58キロの人間ならギリギリ乗れる』と判断した場所です。……でも、もしあなたが昨日より重くなっていたら?」
「……ど、どうなる?」
「割れますよ。氷」
雪は足元の体重計を、つま先でトントンと叩いた。
「バリン、とね。見た目は絶世の美女なのに、中身は昨日のステーキで増量したデブの魔王が、ドレス姿のまま極寒の湖にドボン。……洒落になりませんよ? ドレスも宝石も台無し。違約金は数億円」
「ひぃっ……!」
「しかも、阿寒湖は深い。ドレスが水を吸って重くなり、あなたは沈んでいく。そこに慌ててスタッフさんが助けに来ます。でも、あなたが掴んだ氷の縁は、あなたの重さに耐えきれず、さらに割れるんです」
雪の口調が、ホラー映画のナレーションのように熱を帯びていく。
「助けようとしたスタッフさんも、割れた氷に足を取られて次々と落下。連鎖する崩壊。阿寒湖に響き渡る悲鳴。……原因はたった一つ。『モデルが食べ過ぎて重かったから』」
「や、やめろ……! やめてくれ雪!」
持子は耳を塞いだ。脳裏に、氷の割れる音と、自分を救おうとして道連れになる鮫島監督たちの姿がリアルに浮かんでしまったのだ。
「翌日の新聞の見出しはこうです。『悲劇! 撮影中に氷崩落! 原因はモデルのリバウンドか?』……末代までの恥ですね」
雪の容赦ない言葉の連打。
そして、無言で「乗れ。乗って証明しろ」と言わんばかりに輝く体重計のプレッシャー。
さしもの覇王も、完全に心が折れた。
「…………すまぬ」
持子は、消え入りそうな小さな声で謝罪した。
そして、体重計から逃げるように後ずさりし、震える手でテーブルのゼリー飲料を掴んだ。
「わ、わしは……これで十分だ。あ、ああ、なんて美味そうなゼリーなのだ。これさえあれば、戦える……」
涙目でゼリーを啜る魔王。
その姿は、天下無双の暴君・董卓の面影など微塵もない、ただのダイエット中の女子高生だった。
「よろしい」
雪は満足げに頷き、体重計をしまった(結局、測らせなかったのは雪の慈悲か、あるいは測らせてオーバーしていた時の絶望を避けたのかは、神のみぞ知る)。
「さあ、急いで支度して。……今日のあなたは『空気のように軽い氷の妖精』よ。自己暗示をかけなさい」
「う、うむ……わしは妖精……58キロの妖精……」
午前三時半。
空腹と恐怖で逆に研ぎ澄まされた持子は、フラフラと立ち上がり、メイクルームへと連行されていった。
阿寒の氷が、彼女の重み(物理)に耐えられるかどうか。
それは、昨夜のステーキの消化具合にかかっている。




