『凍湖の牙、あるいは魔王の静謐』
『凍湖の牙、あるいは魔王の静謐』
静寂を喰らう愚者たち
静寂は、一瞬にして切り裂かれた。
「――ウヒョォーッ! 最高じゃん、ここッ!」
「マジ映えるわー! ウェーイ!」
暴力的なまでの喧騒が、阿寒の神聖な冷気を震わせた。
屋上の扉を開けて入ってきたのは、都会の大学サークルとおぼしき若い男女のグループだった。酒が入っているのか、顔は赤く、足取りも覚束ない。
それまで、そこには完璧な「調和」があった。
老夫婦は湯の中で寄り添い、幼子を連れた親は小声で空の星を教え、恋人たちは肩を寄せ合って闇の深淵を愛でていた。
誰もが、この大自然の神威を侵さぬよう、慎み深くその熱を分け合っていたのだ。
だが、闖入者たちにその矜持はない。
響き渡る卑俗な笑い声。水面をバシャバシャと叩く無遠慮な飛沫。
ライトアップされた幻想的なインフィニティ・プールは、一瞬にして安っぽいナイトプールの盛り場へと成り下がった。
「……ヌウッ」
恋問持子の眉間が、ピクリと跳ねる。
その黄金の瞳の奥に、銀河よりも深く、冷たい闇が宿る。
唸り。それは、自らの縄張りを汚された獣の、喉の奥から漏れ出る殺気であった。
「持子さん、待ってください」
立ち上がろうとした持子を、立花雪が制した。
「私が言います。……あなたは、ここで星を見ていて」
雪は静かに立ち上がると、濡れた湯着を整え、騒ぐ若者たちの元へ歩み寄った。
その背中は小さくとも、芸能事務所の社長として数多の修羅場をくぐり抜けてきた、凛とした威厳があった。
「申し訳ありません」
雪の声は静かだが、よく通った。
「皆さん、静かに星と温泉を楽しんでおられます。もう少しだけ、お声を落としていただけませんか?」
大人の、理路整然としたお願い。
だが、彼らに返ってきたのは、薄っぺらな嘲笑であった。
「はぁ? なんだよおばさん、説教?」
「温泉なんだから楽しんで当然だろ! 堅苦しいんだよ!」
「マジ空気読めよー!」
若者の一人――リーダー格の男が、雪を嘲笑うかのように、わざと大きく水面を蹴り上げた。
バシャッ!
冷たい水飛沫が、雪の頬を打ち、濡れた髪をさらに濡らす。
その瞬間――。
阿寒湖の空気が、絶対零度を超えて凍りついた。
気温ではない。
物理的な温度よりも遥かに鋭く、重い「何か」が、空間を支配したのだ。
「――貴様ら」
湯煙の向こうから、声がした。
低く、地を這うような、しかし鼓膜を直接揺らすような響き。
「今の言葉、誰に向かって放った……?」
恋問持子が、そこに立っていた。
濡れた黒髪が背中に張り付き、白磁の肌は青白い月光を浴びて発光している。
その姿は、もはや人間の少女ではない。
闇を纏った阿寒の神、あるいは黄泉の国から蘇った美しき修羅であった。
✴︎魔王の合気、宙を舞う
「な、なんだよお前……ッ! 連れか!?」
男が威嚇するように身を乗り出す。
身長175センチの持子に対し、男も見上げるほどの長身ではない。だが、放たれる覇気の桁が違った。
男は恐怖を誤魔化すように、乱暴に手を伸ばした。
「調子乗ってんじゃねぇぞ、女ァ!」
その手が、持子の肩を掴もうとした、その刹那。
物理法則が歪んだ。
「――愚か者が」
持子は、男の腕を避けない。
接触する寸前、ふわりと右手を添えた。
掴むのではない。触れるだけ。
だが次の瞬間、持子の身体が流れるように沈み込み、男の懐へと滑り込む。
合気武道――『車倒し(くるまだおし)』。
男が突き出した力のベクトルを、持子の腕が柔らかく受け流し、導く。
そして、もう片方の手が、男の肩口(本来ならば顎か喉笛を砕く位置だが、慈悲によりズラした)に当てられた。
「ヌンッ!」
持子がわずかに腰を落とし、円を描いた。
たったそれだけ。
力任せの衝突などない。
だが、男の巨体が、まるで重力を失ったかのように浮き上がった。
自らの突進の勢いと、持子の回転エネルギーが見事に融合し、男の身体は巨大な車輪となって宙を舞う。
「え、あ……?」
視界が反転する。
星空が下に、水面が上に見える。
ドォォォォンッ!!
男の身体は、綺麗な弧を描いてプールの深みへと叩きつけられた。
盛大な水柱が上がり、周囲の静寂を木っ端微塵に粉砕する。
「グ、アッ、ゴボッ……!?」
水面に顔を出した男は、何が起きたのか理解できず、ただ恐怖に目を見開いて喘いでいた。
痛みはない。だが、抗いようのない「力の理」を見せつけられた絶望感だけが残る。
「せ、先輩!?」
「な、なに今の……!?」
取り巻きたちが悲鳴を上げて後ずさる。
持子は、濡れた髪をかき上げ、残りの若者たちを黄金の瞳で睥睨した。
「静寂を喰らう者は、静寂に沈め」
持子は指先を突きつけ、宣告した。
「わしの許可なく、この阿寒の夜を、そしてわしの『雪』を汚すことは許さんッ! ……失せろ」
そのあまりの威圧感に、若者たちは「ひぃッ!」と短い悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。プールに落ちた男も、這々の体でその後を追う。
「お、お客様! どうか、どうかここまでで……!」
騒ぎを聞きつけたホテルの従業員が、顔を真っ青にして割って入る。
持子はフンと鼻を鳴らし、ようやくその「牙」を収めた。
その背中は、怒りよりも深い、どこか悲しげな色を帯びていた。
✴︎覇王の悔恨と、雪解けの夜
部屋に戻り、暖房の効いた静寂の中で。
恋問持子は、正座をして下を向いていた。
先ほどの覇王の面影はない。
ただの、叱られるのを待つ大きな子供のようだった。
「……雪」
持子が、消え入りそうな声で呼ぶ。
雪は鏡台の前で、髪を乾かしている。
「わしは……やりすぎたのか」
持子は膝の上で拳を握りしめた。
「あの者らの無礼、わしが叩き潰さねば気が済まなんだ。だが……ここは公共の場だ。もし、撮影に支障が出て、事務所に、貴様に泥を塗るようなことになったのであれば……」
持子は深く頭を下げた。
「その、すまぬ」
謝罪。
あの傲慢不遜な魔王・董卓の生まれ変わりが、素直に頭を下げている。
それほどまでに、彼女にとって立花雪という存在は絶対であり、守るべき聖域なのだ。
雪の手が止まる。
しばしの沈黙。
持子の心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打つ。
(軽蔑されたか? 野蛮だと、呆れられたか?)
「……ふふ」
静寂を破ったのは、雪の忍び笑いだった。
「……ふふ、あははは! もう、持子さんったら!」
「な、何がおかしいのだッ!」
持子が顔を上げると、そこにはお腹を抱えて笑う雪の姿があった。
眼鏡を外し、涙を拭っている。
「いえ、本当に。……あの人たちの顔といったら! 鳩が豆鉄砲食らったどころか、バズーカ食らったみたいでしたよ」
雪は笑い止むと、優しい目で持子を見つめた。
「正直に言いますね。……実は私、持子がああしてくれるのを、どこかで期待していたのかもしれません」
「……なに?」
「『おばさん』なんて言われて、私も腹が立ってましたから。……あなたが代わりに怒ってくれて、魔法みたいに投げ飛ばしてくれて……」
雪は持子のそばに寄り、その広い肩に手を置いた。
「気持ち良かったですよ、すごく。……スカッとしました」
「ゆ、雪……」
「ありがとう、私の勇者様。……でも、今回だけですよ? 次は警察沙汰になっちゃいますからね」
雪は悪戯っぽくウインクをした。
その表情には、呆れも怒りもなく、ただ深い信頼と親愛だけがあった。
「あなたはもう、この阿寒の夜を十分に守り抜きました。……さあ、明日は早いんです。寝ましょう」
雪が布団に入るよう促す。
持子の胸の中にあった鉛のような不安が、雪の笑顔で溶けていく。
(……ああ、この人は)
(わしの暴虐さえも、こうして笑って許容してくれるのか)
「……うむ。雪がそう言うのなら、寝てやらんこともない」
持子は照れ隠しに尊大な口調で答え、布団に潜り込んだ。
持子はすぐに、安らかな、しかし力強い寝息を立て始めた。
雪は暗闇の中で、静かに目を閉じる。
窓の外には、変わらず阿寒の星々が、二人を祝福するように降り注いでいる。
魔王と、その臣下。
二人の、そして阿寒の、長く深い夜が更けていった。




