『阿寒、天の川の頂にて』
覇王の背中流し
夕食という名の「蹂躙」を終えた恋問持子は、休む間もなく立花雪の手を引き、大浴場へと進軍した。
脱衣所を抜け、湯煙が立ち込める洗い場に足を踏み入れるなり、持子の覇気は衰えるどころか増大していた。
カァーン!
持子は木桶を一つ、床に力強く据え置いた。
その音は、戦いの開始を告げる銅鑼の如く浴室に響き渡った。
「雪、そこへ座れッ! わしが直々にその背、流してくれようぞ!」
「……えっ、ちょ、持子さん? 何を。自分で洗えますから」
雪が困惑し、タオルで前を隠しながらわずかに身を引く。
だが、魔王の黄金の瞳が鋭く光り、その逃げ道を射抜いた。
「黙れッ! 日頃の臣下の忠勤を労うは、覇王の義務よッ! このわしが洗うと言っておるのだ、拒絶は反逆と見なすッッ! さあ、座らぬかッ!」
「……はぁ。わかりましたよ、もう。その代わり、優しくしてくださいね、陛下」
雪は諦念混じりの深い溜息をつき、それでも口元には微かな笑みを浮かべて、小さなしつらえ(椅子)に背を向けた。
持子は腕まくりをするように濡れた肌を晒すと、たっぷりと泡立てたタオルを手に取った。
「覚悟せよ、雪。わしの指技で、貴様の凝り固まった『責任感』ごと揉みほぐしてやる」
ゴシ、ゴシ……。
持子の手は、その尊大な言葉とは裏腹に、驚くほど丁寧だった。
肩甲骨のラインをなぞり、脊椎に沿って優しく、しかし力強く滑る。
タオル越しに伝わる体温。指先の圧。
それは、強引な言葉の裏に隠された、持子の不器用すぎる親愛の証明であった。
(……温かい)
雪は目を閉じた。
普段は手のかかる暴君。破壊と暴食の権化。
けれど、この背中に触れている手は、誰よりも温かく、頼もしい。
「良し……次はわしの番だ。雪、善きに計らえッ!」
洗い終えた持子が、今度は堂々と背を向けて座り込む。
その背中は、白磁のように白く、そして世界を背負えるほどに広かった。
「はいはい。……お返ししますね」
雪が苦笑しながらタオルを滑らせると、持子は「ヌウッ……」と低い声を漏らした。
「……そこだ。そこが壺だ……心地よいぞ……」
まるで喉を鳴らす巨大な猫のようだった。
反撃のつもりで雪が少し指に力を込めても、鋼のような筋肉を持つ彼女にとっては、極上のマッサージに過ぎなかった。
✴︎星降る阿寒の頂
身を清めた二人は、持参した水着に着替え、ホテルの最上階へと向かった。
目指すは地上30メートル、天空と湖と一体化できる**『天空ガーデンスパ』**。
ガチャリ。
屋上への重い扉を開けた瞬間、冷徹なまでの阿寒の空気が肌を刺した。
気温、マイナス15度。
生命活動を拒絶するかのような極寒の世界。
持子の濡れた髪が、瞬時にパリパリと凍りつく音がした。
「――ヌウッ……!」
湯煙の向こう側で、持子の喉が鳴った。
それは寒さへの悲鳴ではない。
圧倒的な「美」という暴力に直面した者が、無意識に漏らす感嘆の咆哮であった。
「……すごい」
雪が息を呑む。
視界を遮るものは何もない。
眼下に広がるのは、漆黒の氷盤と化した阿寒湖。
そして頭上には――落ちてきそうなほどの、星、星、星。
月は無い。ゆえに、星が主役であった。
天の川が、まるで銀の砂をぶち撒けたような暴力的な輝きで、夜空というキャンバスを引き裂いている。
一つ一つの星が意思を持っているかのように瞬き、暗闇を侵略している。
都市の灯りに毒されない夜空は、深い、あまりにも深い、紺青の深淵だ。
「雪、見よ。……これがこの地の、阿寒の真なる姿よッ!」
持子は、極寒の大気の中にその肢体を晒した。
白銀の肌が、星明かりを浴びて青白く発光する。
肺の腑まで凍りつかせる冷気が襲いかかるが、一歩、インフィニティ・プールに足を踏み入れれば、そこには大地の血潮ともいうべき熱が、とろりと身を包む。
極寒と極熱。
頭寒足熱の極地。
その過酷なまでの二律背反こそが、恋問持子という生命を加速させる。
「はぁ……ッ」
二人は肩まで湯に浸かり、プールの縁に身を預けた。
目の前には、凍結した湖と、原生林の黒いシルエット。
風が止み、完全な静寂が世界を支配していた。
「……信じられません。空に、これほどまでの質量があるなんて」
雪は濡れた眼鏡を外し、裸眼で空を見上げた。
レンズ越しではない、生の光が網膜を焼く。
あまりの星の多さに、星座の形さえ判別できない。ただ、光の渦に飲み込まれそうだ。
「わしは、知っておるぞ、雪」
持子が、湯面を揺らして空を指差した。
「あの星々の瞬き……あれは、数万光年の彼方から放たれた『命の残響』だ」
持子の黄金の瞳に、無数の銀河が映り込んでいる。
その瞳そのものが、一つの小宇宙のようであった。
「死んでなお、光り続ける。届き続ける。……その執念! その傲慢! わしは嫌いではないッ!」
持子の言葉は熱を帯びていく。
彼女はただ景色を愛でているのではない。
かつて大陸を駆け、散っていった英傑たちの魂を、この星空に重ねているのだ。
「雪、あの湖の影を見よ。凍りついた阿寒湖の、あの静寂を。……死んでいるのではない。あの中では、今この瞬間も、マリモや魚たちが、分厚い氷の蓋の下で静かに呼吸をしておる」
「山もそうだ。雌阿寒、雄阿寒……あの巨大な土塊どもが、冬の眠りにつきながら、春に再び芽吹くための力を、腹の底に溜め込んでおるのだ」
持子は掌を握りしめた。
ギュッ、と音がしそうなほど強く。
「雪……わしは、この景色そのものを喰らいたい」
「え?」
「この冷気を、この星屑を、この静止した時間を……わしの血肉に、わしの魂の糧にしてやりたいのだ! 美しいだけでは足りぬ! わしの一部になれと、細胞が叫んでおる! ……わかるか、この渇きがッ!」
持子は飢えていた。
美しさに、強さに、そして永遠に。
その貪欲さこそが、魔王の魔王たる所以。
「ええ……。少しだけ、わかる気がします、持子さん」
雪は、温泉の中で自分の肩に触れた。
持子に洗ってもらった背中が、今もなお、芯から火照っている。
隣にいるこの少女は、常に何かを欲し、何かを喰らい、そして爆発的に生きている。
彼女の隣にいると、自分まで世界を飲み込めそうな気がしてくるのだ。
「美しい、ですね。……本当に。寂しいほどに、美しい」
雪の心の声が、白い湯気と共に夜空へ溶けていく。
周囲に広がる原生林は、深い闇となって湖を囲んでいる。そこには、人知を超えた神々――カムイたちが、確かに息づいている気配があった。
ふわり。
風が木々を揺らし、枝に積もった雪の粉を舞い上げた。
ダイヤモンドダスト。
それがライトアップされたプールの光に反射し、キラキラと輝きながら二人の周囲を舞い落ちる。
星が降ってきたかのようだった。
「わっははは! 良いぞ、雪! 貴様のその、少しだけ湿り気を帯びた感性も、わしの熱を冷ますには丁度良い!」
持子は豪快に笑い、水しぶきを上げた。
そして、不意に雪の方を向き、その距離を詰めた。
ちゃぷん。
波紋が広がり、二人の距離がゼロになる。
「さあ、もっと奥まで浸かれッ。……この阿寒の熱、一滴も残さず持ち帰るのだッ!」
持子の腕が、雪の腰に回る。
「きゃっ……」
雪は抗うことなく、その強引な引力に身を委ねた。
背中には、持子の体温。
目の前には、無限の星空。
「……ふふ。はい。持子さん、のぼせないようにしてくださいね」
「愚問だ。わしが熱そのものよ」
二人は、どちらからともなく寄り添うようにして、その宇宙の欠片に身を委ねた。
空には星。
足元には熱。
そして隣には、世界で最も厄介で、世界で最も愛おしい、自分を呼ぶ声がある。
(ああ、なんて贅沢な時間だろう)
雪は思った。
エレーヌ・リジュの重圧も、明日の撮影の不安も。
今この瞬間だけは、星の彼方へ消えていく。
阿寒の夜は、深く、あまりにも深く。
二人の吐息だけが、白く、どこまでも高く、銀河の果てを目指して昇っていった。
冬の阿寒湖行ってみたいです。
春夏秋、ニュー阿寒ホテル泊まりましたが、とても良い所です。
地元の方々が冬の阿寒湖は良いよと力説してましたが、冬に行くのは怖すぎる。吹雪いたら行けないよ。ホワイトアウト!!!




