『暴風の阿寒湖、フロストフラワー全滅。でも魔王はわかさぎで立て直します』
『暴風の絶望、魔王の祈りと誓いの土産』
無慈悲なる風の洗礼
午前11時。
阿寒湖の氷上は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
ゴオォォォォォォォォォ……!!
先ほどまでの静寂が嘘のように、牙を剥いた強風が、湖面を猛烈な勢いで吹き抜ける。
さらに悪いことに、鉛色の厚い雲が垂れ込め、期待していた太陽の光を完全に遮断してしまった。
「あああっ! 結晶が! 結晶が飛んでいくぅぅ!」
「嘘だろ!? あと少しで完璧な花になったのに!」
日本人スタッフたちの悲鳴が響く。
せっかく結氷し始めていた繊細な氷の結晶たちが、無慈悲な突風によって粉々に粉砕され、ただの白い粉雪となって虚空へ消えていく。
「Oh, my god...!! Unbelievable!(なんてことだ……信じられない!)」
照明担当の外国人スタッフが、頭を抱えて天を仰ぐ。
「Nature is cruel... Why now!?(自然は残酷だ……なぜ今なんだ!?)」
「Give me a break! We froze for nothing!(勘弁してくれよ! 何のために凍えてたんだ!)」
多国籍なスタッフたちからも、英語やフランス語で怨嗟の声が上がる。
エレーヌ・リジュの期待、巨額の予算、そして極寒の中での待機。それら全てが、自然の気まぐれ一つで無に帰したのだ。
「……くっ!」
社長の立花雪は、ギリリと唇を噛み締め、拳を握りしめた。
雪の目にも、隠しきれない悔し涙が滲む。
そして、氷の玉座(パイプ椅子)に座る魔王・恋問持子もまた、不機嫌に眉をひそめていた。
「ぬぅ……。生意気な風だ。わしの美貌に嫉妬したか?」
持子はドレスの裾を押さえながら、憎々しげに曇天を睨みつけた。
(わしも準備万端だったのだぞ。……最高の表情を用意していたのに!)
だが、自然には勝てない。
撮影監督・鮫島が、断腸の思いで叫んだ。
「撤収だぁぁぁ!! この風と雲じゃ無理だ! 本日の撮影は中止! 明日の朝に賭けるぞ!!」
「「「畜生ォォォォォ!!」」」
スタッフたちの絶叫が、吹雪の中に吸い込まれていった。
✴︎魔王、秒で切り替える
重苦しい敗北感が漂う撤収作業。
誰もが肩を落とす中、しかし一人だけ、瞬時に「モード」を切り替えた者がいた。
「ふん。……焦らすではないか、阿寒の風よ」
恋問持子はバサリとダウンコートを羽織ると、ニヤリと不敵に笑った。
さっきまでの悔しさはどこへやら。その黄金の瞳は、すでに別の「獲物」を捉えて輝いている。
「持子……残念だったわね。あんなに気合入れてたのに」
雪が沈んだ声で慰めるが、持子は高らかに笑い飛ばした。
「何を言う、雪よ。これは『神の采配』だ!」
「はい?」
「神は言っているのだ。『魔王よ、まずは腹を満たせ』とな! 撮影中止ということは、すなわち自由時間! 自由時間ということは、すなわち**『食い倒れ』**の時間だ!」
持子はビシッと温泉街の方角を指差した。
「見よ雪! あそこから漂う香ばしい匂いを! わしの胃袋が『進軍せよ』と叫んでおる!」
「……あんたねぇ。少しは落ち込みなさいよ」
雪は呆れつつも、持子の底抜けの明るさに少しだけ救われた気がした。
「……はぁ。そうね。腹が減っては戦はできぬ、か」
「うむ! 切り替えこそが一流の証! ……行くぞ雪! 阿寒湖の名物、**『わかさぎ』**を根絶やしにしに行くぞ!」
✴︎黄金の小魚と、爆発する味蕾
数十分後。
私服に着替えた持子と雪は、温泉街の人気食堂『奈辺久』の暖簾をくぐっていた。
注文したのは、もちろん阿寒湖産**「わかさぎ天丼」**。
「お待たせしましたー」
ドンッ。
運ばれてきた丼を見て、持子の目がカッと見開かれた。
黄金色に揚げられたワカサギたちが、丼からはみ出さんばかりにタワー状に乱舞している。
香ばしいごま油の香りと、甘辛いタレの湯気が、冷え切った身体を内側から刺激する。
「……ほう。小魚と侮っていたが、なかなかの面構えではないか」
持子は割り箸を割り、戦場に赴く武人のように手を合わせた。
「いざ、尋常に……いただきます!」
サクッ。
持子がワカサギを一匹、頭からかじりついた。
その瞬間。
「……ッ!!」
持子の動きがピタリと止まった。
そして、ワナワナと肩を震わせ、天井を仰いで絶叫した。
「ぬうおおおおおっ!!」
「ちょ、店内でうるさい!」
「美味いッ! 美味すぎるッ!! なんだこれは!?」
持子は立ち上がり、箸を持ったまま演説を始めた。
「繊細なる衣の鎧を突き破れば、阿寒の清流が育んだ身の甘みが、爆圧となって味蕾を蹂躙する! 内臓のほろ苦さ、それすなわち生命の輝き! 飯という名の聖域に、小魚の精霊たちが乱舞しておるわッ!!」
「恥ずかしいから座りなさいバカ!」
雪が必死に持子の袖を引っ張る。
だが、周りの観光客や地元の人々は、そのあまりにも幸せそうな食べっぷりに、つられて笑顔になっていた。
「雪も食え! ほれ、アーンしてやる!」
持子は一番大きなワカサギを摘み、雪の口元へ突き出した。
「自分で食べるわよ……んぐッ」
強引に突っ込まれる。
サクッ、ジュワッ。
「……っ! ……美味しい」
雪の目が丸くなる。悔しさで冷え切っていた心が、温かい油と甘辛いタレで解けていくようだ。
「であろう? ふはは! 食えば悲しみなど消える! やはり北海道は最高だ!」
✴︎アイヌコタンと、離れていても繋がる絆
身も心も(物理的に)満たされた二人は、腹ごなしに「阿寒湖アイヌコタン」の坂道を歩いた。
木彫りの店が立ち並び、独特の文様やフクロウの像が並ぶ神秘的な通り。
「ふむ。……良い気配だ」
持子はある民芸品店の前で足を止めた。
彼女が手に取ったのは、エンジュの木をくり抜いて作られた、重厚な木製のジョッキ(マグカップ)だった。
手にしっくりと馴染む温かみと、美しい木目。
「……雪、これを持て」
「えっ……?」
驚く雪の手の中に、持子はそのジョッキを無造作に押し込んだ。
「わしの覇道を支える臣下は、労わらねばならぬからな。……なまら、感謝せよ」
ぶっきらぼうな言い方。
だが、その黄金の瞳は、少し照れくさそうに揺れている。
昨日の撮影中止で心を痛めていた雪を、持子なりに励まそうとしているのだ。
「持子さん……」
雪は一瞬、呆気に取られた。
だが、木肌の温もりを通じて伝わる持子の不器用な優しさに、胸が熱くなる。
「……はい。ありがとうございます、持子さん。大切にします」
雪はジョッキを胸に抱き、ふわりと微笑んだ。
「これで飲むビールは、きっと格別ね」
「うむ! よく冷やして飲むが良い!」
そして、持子の買い物はそこで終わらなかった。
「さて、次は……東京で待つ『共犯者』たちへの貢ぎ物だな」
まずは、繊細な彫刻が施された木製のペンダント。
「これは、鮎への土産だ。あの者も、今ごろは都の戦場で牙を研いでいようからな。首輪代わりにつけてやれば喜ぶであろう」
「……あの子、本当に『ご主人様の首輪だぁ!』って泣いて喜びそうね」
次に手に取ったのは、熊が鮭を食いちぎる、荒々しい木彫りの置物。
「これは、レオだな。あの狂犬には、この野性味が似合う。部屋に飾って闘争本能を磨くが良い」
そして、可愛らしいキタキツネのストラップ。
「これは、美羽だ。見た目は愛らしいが、人を化かす狡猾なキツネ……。あやつにぴったりだ。盗みではなく、真っ当に土産として渡してやる」
雪がクスリと笑う。
「ふふ。みんなの顔が目に浮かぶわね」
「うむ。……そして」
持子の足が止まった。
ショーケースの奥、青い布の上に置かれた、一つの小さな工芸品に目が吸い寄せられた。
それは、アイヌ模様が施された、美しい銀色の手鏡だった。
磨き上げられた鏡面は、曇り一つなく、覗き込む者の心を映し出すようだ。
「……これは、沙夜だ」
持子は手鏡をそっと手に取った。
冷たく、硬く、しかしどこか温かい。
氷の女王と呼ばれながら、持子の前でだけは熱い素顔を見せる彼女に、これ以上ないほど相応しい品だった。
「沙夜ちゃん……。もう、発ったのかしら」
雪が静かに呟く。
「……ああ」
持子は、曇天の空を見上げた。
分厚い雲の向こう、遥か彼方の空を思う。
今頃、彼女は銀翼に乗って、太平洋を越えている頃だろうか。
それとも、もう異国の地で、孤独な戦いを始めているのだろうか。
(沙夜よ)
持子は手鏡を胸に抱き、瞼を閉じた。
周囲の喧騒が消え、心の中に静寂が広がる。
(この鏡を見るたびに、思い出せ。貴様は一人ではない)
(わしが認めた、誇り高き『氷の女王』だ)
「……いつ、渡せるかな」
ポツリと、持子が漏らした。
次に会えるのはいつになるか分からない。
数ヶ月後か、半年後か。あるいは、もっと先か。
けれど、持子の中に不安はなかった。
(行け、沙夜。飛び立て)
(ハリウッドごとき、貴様の演技でねじ伏せてこい。世界を跪かせて、凱旋してこい)
「……絶対に、成功しろよ」
持子の祈りは、言葉には出さずとも、その熱い眼差しとなって空へと放たれた。
それは、魔王から送られる、最強のエールだった。
「……持子さん?」
雪の声で、持子は現実に引き戻された。
「ん、ああ。……これを包んでくれ。最高に綺麗な包装でな」
持子は店員に手鏡を差し出した。
その横顔は、いつもの傲慢な魔王ではなく、友を想う一人の少女の、優しく美しい顔をしていた。
✴︎接近禁止命令の解除
ホテルへの帰り道。
強風で舞い上がった地吹雪に、雪が足を滑らせそうになった。
「きゃっ!?」
「っと、危ないぞ雪」
持子がサッと雪の身体を支える。
「あ、ありがと……」
雪が体勢を直し、いつものように距離を取ろうとした時だった。
グイッ。
持子の腕が、雪の腰を強引に引き寄せた。
「……持子?」
いつもなら、ここで持子は「半径1メートル結界」を発動し、慌てて離れるはずだ。
推しに近づきすぎるとデレデレになって威厳が保てない、という自縄自縛のルールのために。
だが、今日の持子は違った。
「……寒いからな」
持子は雪の腰に腕を回したまま、平然と言い放った。
「強風だ。飛ばされぬよう、魔王の重し(筋肉)を貸してやる。……ありがたく密着せよ」
「……」
雪は眼鏡の奥で目を丸くし、それからクスリと笑った。
「あら、結界はどうしたの?」
「撤廃した! 昨夜のプールで流れてしまったわ!」
持子は開き直ったように胸を張る。
「わしはもう、自分の欲望に素直になると決めたのだ。……雪に触れたい時は触れる。甘えたい時は甘える。文句あるか?」
「ないわよ。……少し重いけど、温かいから許すわ」
「ふふん。愛の重さだ、耐えろ」
二人は寄り添い、腕を組んで雪道を歩いた。
その距離、ゼロメートル。
すれ違う外国人観光客が「Beautiful couple...」と振り返るほどの、美少女(中身おっさん)と知的美女のカップル。
阿寒の暴風も、二人の間にある熱を奪うことはできなかった。
✴︎魔王の晩餐、再び
そして、夜。
ニュー阿寒ホテルのビュッフェ会場にて、再び「魔王の宴」が開催された。
昨夜は雪の目を気にして(一瞬だけ)遠慮したが、今日はもうタガが外れている。
撮影中止の鬱憤を晴らすべく、持子の本能が解放された。
「ヌウッ! 素晴らしいッ!! 雪、この肉を見よ!」
持子のテーブルには、すでにステーキ、天ぷら、寿司、カニ、そして大量のスイーツが要塞のように築かれている。
「噛み締めるたびに、森の精気がわしの血管へと流れ込んでくるわッ! 舌の上で、生命が狂喜乱舞しておるわッ!!」
「持子さん、声が大きい……あと、お皿の枚数が異常よ」
雪が苦笑するが、持子は止まらない。
「だがッ! 遊びはここまでよッ! 目の前にある全ての命、わしの胃袋という名の深淵に叩き込んでくれるわッッ!」
持子はフォークに刺したステーキを、雪の口元へと差し出した。
「さあッ! 貴様も喰らえッ! わしが許す、アーンだッ!」
「えっ、ちょっ、持子さん……人目がありますから……」
「黙れッ! わしの感動を、貴様の細胞にも刻み込んでやるのだッ! 拒絶は死、あるのみよッ!!」
持子の腕は一ミリたりとも動かない。その眼光、その気迫。まさに覇王の威圧感。
そして何より、その瞳の奥にある「雪と一緒に美味しいものを食べたい」という純粋な好意。
雪は、呆れ果てながらも、その強引さが愛おしく、ついに観念して唇を開いた。
「……ふふ、やはり持子さんには勝てませんね。あーん」
パクッ。
雪が肉を頬張る。
「……美味しい」
「わっははは! 良い食いっぷりだ、雪ッ! もっと食え! カニも剥いてやる! ビールも飲め! 経費で落ちる!(多分)」
未成年の魔王がコーラをジョッキで煽り、雪は静かにサッポロクラシックを喉に流し込む。
距離感ゼロの密着ディナー。
外は猛吹雪だが、ここには温かい料理と、笑顔がある。
阿寒の夜、覇王の宴は、甘く、騒がしく、そして温かく更けていく。
明日の撮影こそ、きっと奇跡の花が咲くだろうと信じて。
この話は書き溜めてたので、少しの修正で上がれました




