『女帝は二人、氷上に立つ』
お〜深夜3時だ
『氷上の謁見室と、パリからの支配者』
午前四時の暗黒と、不夜城のテント
ゴオォォォォォォォォォ……!!
風の音が、地獄の釜の蓋が開いたかのように鳴り響いている。
午前四時。
一月の北海道、阿寒湖。
日の出の時刻は午前六時四十分。太陽がその重い腰を上げ、東の空を白ませるまでには、まだ二時間半以上の猶予がある。
世界は漆黒の闇と、絶対零度の冷気に支配されていた。
だが、その凍てついた湖上に、突如として異質な空間が出現していた。
闇の中に浮かび上がる、巨大なドーム状のシルエット。
極地探検隊のベースキャンプか、あるいは宇宙船の不時着現場か。
氷の上に設営されていたのは、軍事用をも凌駕するであろう、最新鋭の巨大かつ堅牢なドーム型テントだった。
テントの周囲には数台の大型発電機が唸りを上げ、太いケーブルが血管のように張り巡らされている。
「……ふあぁ」
そのテントの前で、分厚いダウンコートに身を包んだ**恋問持子**が、この世の終わりを見たような顔で大あくびをした。
吐き出した息が、瞬時に真っ白な霧となって凍りつく。
「雪よ……。これは何の罰ゲームだ?」
持子は涙目で、隣に立つ社長の**立花雪**に恨み言を述べた。
「なぜ王であるわしが、鶏も鳴かぬ……いや、丑三つ時のような時間に起きねばならぬのだ。今の気温を知っているか? マイナス18度だぞ? バナナで釘が打てるどころか、釘でバナナが粉砕される世界だぞ?」
「文句を言わない」
雪は手元のタブレットでスケジュールを確認しながら、冷徹に言い放った。
「阿寒の日の出は六時四十分。撮影本番はその瞬間の『光』が勝負よ。……逆算すれば、今からヘアメイクと最終打ち合わせを済ませなきゃ間に合わないの」
「ぐぬぬ……。だが、クライアントへの挨拶など、日が昇ってからでもよかろう! 向こうは寝ているのではないか?」
「パリは今、夜の八時よ」
雪は眼鏡の奥の瞳を光らせ、ピシャリと言った。
「向こうはディナー前のゴールデンタイム。エレーヌ様は、この会議のためにわざわざ時間を空けてくださっているの。……時差を考慮して文句を言いなさい、時差を」
「パリの八時……! くっ、お洒落な時間帯ではないか! こっちは極寒の地獄だというのに!」
「はいはい、無駄口叩いてないで入る! 鼻水凍るわよ」
雪に背中を押され、持子は渋々、二重構造になった断熱幕をくぐった。
バサッ。
幕を抜けた瞬間、世界が一変した。
「……む?」
そこは、真夏だった。
いや、快適に空調管理された、高級ホテルのロビーのような空間だった。
テント内部には強力な業務用ヒーターが何台も焚かれ、極寒の外気を見事に遮断している。床には厚手の絨毯が敷かれ、簡易的だが座り心地の良さそうなソファと、大きなモニターが設置されたデスクが置かれていた。
「ほう……。移動式宮殿か。悪くない」
持子の機嫌が少しだけ上向く。
スタッフたちが忙しなく動き回る中、雪が手早く指示を出した。
「さあ、持子。コートを脱いで。衣装チェックよ」
持子は大きく頷き、分厚いダウンコートを脱ぎ捨てた。
バサリ。
その下に纏っていたのは、今回のCM撮影のために特注された、**「銀と漆黒」**のオートクチュールドレスだ。
漆黒のベルベット生地は、持子の白磁の肌をこの上なく際立たせ、そこに施された銀糸の刺繍は、動くたびに流星のように鋭く煌めく。
背中は大胆に開いており、神が計算し尽くした黄金比の肩甲骨と、背骨のラインが露わになっている。
そして首元には、無数のダイヤモンドを星の欠片のように繋ぎ合わせた、至高のジュエリーが鎮座していた。
総カラット数は、聞くだけで貧血を起こしそうな数字だ。
「ふぅ……。この宝石の冷たさが、暖房で火照った肌に心地よいわ」
持子は首元のダイヤに触れ、優雅に椅子へと腰を下ろした。
長い脚を組み、ふんぞり返る。
その姿は、ここが氷上のテントであることを忘れさせるほど、玉座に君臨する女帝そのものだった。
メイク担当が慌ててパウダーをはたき、スタイリストがドレスの裾をミリ単位で調整する。
「準備完了ね。……繋ぐわよ。背筋を伸ばして」
雪がデスクの上のノートパソコンに向かい、エンターキーを叩いた。
カチャッ。
大型モニターにノイズが走り、世界が繋がる。
北海道の湖上と、花の都パリが、光の速さで接続された。
✴︎パリからの支配者
『Bonjour.(ボンジュール)』
モニターに映し出されたのは、パリの豪奢なオフィスだった。
背後にはエッフェル塔の夜景が見える。
そして、その重厚なデスクに座っていたのは、一人の女性だった。
エレーヌ・リジュ。
世界的コングロマリット「リュクス・アンペリアル」を弱冠25歳で掌握した、若き女帝。
その容姿は、見る者を圧倒する「美」と「知性」の結晶だった。
肩まで流れる黄金の髪は、パリの夜景よりも眩しく輝いている。
瞳の色は、最上級のサファイア、あるいは氷河の底のような、冷たく澄んだブルー。
身長は画面越しでも分かるほど高く、持子と同じ175センチ前後はあるだろう。
その佇まいは、立花雪に通じる知的な冷静さと、持子に通じる絶対者の傲慢さを併せ持っていた。
「Bonjour, Mademoiselle Lige. Merci de nous accorder de votre temps.(ボンジュール、リジュ様。お時間をいただき感謝します)」
雪が流暢なフランス語で応じ、深々と頭を下げる。
その発音は完璧で、リジュの眉がわずかに動いた。
『Vous parlez bien français.(綺麗なフランス語ね、立花社長)』
『Je suis honorée.(光栄です)』
二人の才女による、優雅で、しかし火花散るようなフランス語の応酬。
その場の空気が、ピンと張り詰める。
だが、リジュの視線はすぐに雪を通り越し、その背後で優雅に足を組んでいる持子へと釘付けになった。
『…………』
沈黙が落ちた。
リジュの青い瞳が、画面越しに持子の全身を舐めるようにスキャンしていく。
ドレスの漆黒。
肌の白。
そして、首元で輝くダイヤモンドの星々。
『……Ah...(ああ……)』
リジュの薄い唇から、恍惚とした吐息が漏れた。
彼女はデスクに身を乗り出し、画面に顔を近づけた。
その整った顔が、微かに紅潮し、ゾクゾクと震えているのが見て取れる。
それは単なる称賛ではない。
最高級の美術品を見つけたコレクターの、あるいは極上の獲物を見つけた捕食者の、狂気じみた歓喜の震えだった。
そして、彼女はいきなり言語を切り替えた。
フランス語でも、英語でもない。
たどたどしいが、熱の籠もった――日本語で。
『……美シイ。……想像以上、ネ』
「……日本語?」
雪が驚く暇もなく、リジュは続けた。
『黒ト銀……。ソシテ星ノ輝キ。……貴女ハソレヲ「着テイル」ノデハナイ。……完全ニ「従ワセテ」イルワ』
リジュは日本語を学び始めたばかりだという。
多忙を極めるコングロマリットのトップが、たった一人の東洋のモデルのために、睡眠時間を削って言語を習得したのだ。
その事実は、「向上心」という言葉で片付けるにはあまりにも重く、執拗だ。
『普通ノ人間ナラ、ソノ宝石ノ輝キニ負ケル。……デモ貴女ハ、宝石ヲ装飾品ニシテシマウ。……素直ニ、認メルワ。……貴女ハ、美シイ』
リジュの瞳が、青い炎のように揺らめく。
その視線は、持子という存在を分解し、理解し、所有しようとする欲望に満ちていた。
だが、魔王・恋問持子は、その重圧を微塵も感じさせない。
むしろ、その熱視線を心地よい風のように受け流し、不敵に笑って見せた。
「ふん。当然だ、エレーヌよ」
持子は首元のダイヤモンドを指先で弾いた。
チン、と硬質な音が響く。
「この程度の石ころに負けるわしではない。……わしが身につけることで、この石も初めて『星』になれるのだ。礼を言われるのは、わしの方ではなく、このダイヤの方であろう?」
「ひぃぃっ!?」
同席していた日本人監督とスタッフたちが、持子の暴言に悲鳴を上げた。
クライアント、しかも世界的ブランドのオーナーに対して「石ころ」呼ばわり。
さらには「ダイヤが私に感謝しろ」という不敬極まりない発言。
これは契約破棄に、なってもおかしくない。
だが、立花雪は顔色一つ変えなかった。
彼女の脳内スーパーコンピューターが瞬時に作動し、持子の「魔王語」を「ビジネス英語」へと変換(超翻訳)する。
「She says... "I am honored by your praise. I believe that my soul brings out the true brilliance of these jewels. We are elevating each other to new heights."」
(彼女は……「お褒めいただき光栄です。私の魂が、この宝石の真の輝きを引き出していると信じています。私たちは互いに高め合っているのです」と言っています)
✴︎完璧な意訳。
「石ころ」という単語を消滅させ、「互いに高め合う(elevating each other)」という美しい表現に昇華させる神業だ。
『Fufu... Amusant.(ふふ、面白いわ)』
リジュは口元を歪めて笑った。
雪の翻訳を聞いているのかいないのか、持子の傲慢な態度そのものを楽しんでいるようだ。
彼女のような支配者にとって、媚びへつらう人間など掃いて捨てるほどいる。
だが、自分と同等、あるいはそれ以上の不遜さで対峙してくる存在は、稀有なのだ。
✴︎魔王の超翻訳
リジュが言語を英語に切り替えた。
ここからは、現場監督を交えた具体的な撮影プランの打ち合わせだ。
『Okay, let's discuss the shoot details.(さて、撮影の詳細について話しましょう)』
アングル、照明、メイクの質感。
専門用語が飛び交う中、リジュの指示は的確かつ冷徹だった。
妥協を一切許さない、芸術の守護者の目。
監督が脂汗をかきながらメモを取る。
『照明はもっと落として。……彼女自身が発光しているように見せたいの。自然光とレフ板だけで十分よ』
『了解しました……!』
一通りの確認が終わった頃。
リジュの視線が、再びモニター越しに持子を射抜いた。
『――Mochiko Koitoi』
「ぬ?」
持子が反応する。
リジュは画面の向こうで、組んだ手の指をトントンと動かした。
『今回ノ撮影、貴女ハドウ撮ラレタイ?』
日本語での問いかけ。
試されている。
このプロジェクトに対する理解度と、モデルとしての主体性を。
持子は腕組みをし、ふんぞり返ったまま答えた。
「ふん。愚問だな、エレーヌよ」
持子の傲慢な態度に、スタッフが青ざめる。
だが、持子は止まらない。
「わしは『撮られる』のではない。わしが世界を『魅了する』のだ。……貴様はただ、わしの輝きをレンズに収め、ひれ伏せばよい!」
「ひぃぃっ!?」
監督が白目を剥きかけた。
だが、雪は間髪入れずに翻訳した。
「She says... "I don't just want to be photographed, I want to captivate the world. Please capture my brilliance as naturally as possible."」
(彼女はこう言っています……「単に撮られるのではなく、世界を魅了したいのです。私の輝きを、ありのままに切り取ってください」と)
『Magnifique(素晴らしい)』
リジュは満足げに頷いた。
『デハ、聞キマショウ。……フロストフラワーガ咲カナカッタラ、ドウする?』
意地悪な質問。
自然現象相手に、絶対はない。
もし咲かなければ、撮影は延期か、あるいは中止か。
持子はニヤリと笑い、カメラを指差した。
「咲かぬなら、咲くまで待とう……とは言わん! わしの美貌が、氷の花さえも咲かせてみせるわ! わしの熱気で湖が沸騰せぬよう、気をつけることだな!」
雪が即座に翻訳する。
「She says... "I believe my passion will bring about a miracle, even if nature hesitates."」
(彼女は……「自然が躊躇おうとも、私の情熱で奇跡を起こしてみせます」と言っています)
『Hahaha...! I like it!(あはは……! 気に入ったわ!)』
リジュが声を上げて笑った。
氷のようだった彼女の瞳に、熱い炎が宿る。
持子という素材への期待。そして、それを手懐けている雪への評価。
このチームなら、本当に奇跡を起こすかもしれない。
✴︎神への祈りと、悪魔の契約
会議の終わり。
リジュは画面越しに、十字を切るように指を組んだ。
その表情は、聖女のように美しく、そして死神のように冷徹だった。
『God bless you.(神の御加護を)』
『このチームに、奇跡のフロストフラワーが咲くことを祈ります』
そして、カメラに顔を近づけ、甘く、重圧たっぷりに告げた。
『持子。貴女が実力を示し、スタッフ一同が良い仕事をして……』
リジュの青い瞳が、持子の黄金の瞳を絡め取る。
『無事、**2本目の契約(巨額報酬)**まで進めることを、心から願っているわ』
『……期待を、裏切らないでね?』
その言葉は、祈りではない。
「失敗は許さない」という、絶対者からの勅命だった。
もし1本目で失敗すれば、2本目はない。
巨額の報酬も、雪(持子)の借金返済も、すべて水泡に帰す。
『Au revoir.(また会いましょう)』
フッ、と最後に妖艶に微笑んで、プツンと通信が切れた。
画面が暗転する。
「…………」
「…………」
会議室に、重苦しい沈黙が戻った。
監督が「ふぅ……」と崩れ落ちる。
スタッフたちが、酸素を求めて深呼吸をする。
だが、持子だけはケロリとしていた。
「……雪よ。あの女、なかなかどうして、面白い目をしているな」
持子は首元のダイヤを弄りながら、楽しげに呟いた。
「わしを喰らおうとする獣の目だ。……嫌いではないぞ。あれは、わしと同類の匂いがする」
「……ええ。とんでもない『魔物』に目をつけられたものね」
雪は深い溜息をつき、眼鏡の位置を直した。
(あのゾクゾクした顔……。日本語を覚えるほどの執着……。単なるビジネスパートナー以上の、個人的な所有欲を感じるわ)
(エレーヌ・リジュ。……彼女もまた、持子に魅入られた『共犯者』候補なのかもしれない)
雪はパンッ!と手を叩き、空気を変えた。
「さあ、行くわよ持子! 間もなく日の出よ! 撮影開始!」
「う、うむ!」
「エレーヌ様のご期待に応えて、借金返済よ!」
「応! ……だ、だがその前に、ケータリングの豚汁を……匂いがたまらんのだ……」
持子が、テントの隅に置かれた炊き出しの鍋に吸い寄せられそうになる。
「ダメ! ドレスが汚れる! ストローで水だけにしなさい!」
「鬼ぃぃぃぃ!! せめて具だけでも! 大根だけでもぉぉぉ!!」
極寒の湖上。
魔王と社長の、命と借金と、そして朝食(豚汁)を懸けた、長い一日が幕を開けた。
オカシイなー
ここまでくるのに何でこんなに時間がかかるんだろう。
妄想していたのと、書くのとではこんなに違うものなんですね〜




