表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

62/180

『魔王の懺悔は雪に溶ける』

『吹雪の果て、魔王の涙と最強の肯定』


極寒の処刑台、あるいは楽園


ゴオォォォォォォォォォ……!!

屋上への重い鉄扉を開けた瞬間、鼓膜をつんざくような轟音と共に、白い暴力が襲いかかってきた。

視界ゼロ。

気温マイナス15度。体感温度は測定不能。

そこは、生物の生存を許さない絶対零度の地獄だった。


「きゃっ……!?」


「ぬおおおぉっ!? 顔が! わしの美顔が凍るぅぅ!」


雪が思わず腕で顔を覆い、持子はあまりの寒さに変な声を上げた。

美しいはずの阿寒湖の絶景? そんなもの、どこにもない。あるのは漆黒の闇と、狂ったように舞い踊る雪、雪、雪。

唯一の光源は、プールの縁を彩る淡いブルーのイルミネーションだけ。それが雪煙の中でぼんやりと滲み、まるで三途の川の灯りのようだ。


「……誰もいないわね」


雪が呆れたように呟く。


「と、当然だ……! この天候で屋上に来る物好きなど、わしらくらいだ……!」


持子はガチガチと歯を鳴らしながら、それでも「魔王の矜持」だけでマント(という名のホテルの湯着)を脱ぎ捨てた。

バッ!

極寒の冷気の中に、58キロの完璧なプロポーションが晒される。

痛い。寒さを通り越して、無数の針で刺されるような激痛。


「ゆ、雪! 早く! 死ぬ! マンモスも絶滅する寒さだ!」


「はいはい、騒がないの」


二人は逃げるように、湯気が立ち上るインフィニティ・プールへと飛び込んだ。

チャプン……。


「ふぁ…………っ」


温かい。

地獄のような寒風の中、温泉の温もりが身体の芯まで染み渡る。

血液が解凍され、指先の感覚が戻ってくる。

二人は肩までお湯に浸かり、プールの縁に身を預けた。

頭上では風がゴウゴウと唸りを上げているが、首から下は天国。

この奇妙な浮遊感。


(……ふむ。悪くない)


持子は、湯気越しに隣の雪を見た。

濡れた髪をかき上げる雪の横顔は、照明に照らされて艶っぽく、そしてどこか儚げだ。

世界から二人だけが切り離されたような、青くて、白い、密室。



✴︎魔王の懺悔コンフェッション


しばらくの間、二人は無言だった。

雪は目を閉じ、湯の温かさを楽しんでいる。

持子は、ぼんやりと光るイルミネーションを見つめていた。

その光は、あの修学旅行の夜、小樽の運河で見た蒼い光に似ていた。


「……雪よ」


風の音に紛れるような、低い声で持子が呼んだ。

いつもの、尊大な響きではない。

迷子の子供が、母親の服の裾を掴むような、そんな弱々しい声。


「ん? なぁに?」


雪は目を開けず、夢見心地で答える。


「わしはな……ずっと、考えていたことがあるのだ」


持子は水面の下で、自分の膝を抱えた。

小さく、丸くなる。


「……鮎のことだ」


持子はポツリと語り出した。


「あやつは最初、わしを憎んでいた。わしの美貌を妬み、嫉妬に狂い、反社を使ってわしを潰そうとした。……醜いけだものだった」


「……ええ、そうね」


「だからわしは、あやつの心に巣食う『怪物ジェラシー』を喰らった。あやつのドロドロとした感情を飲み込み、空っぽにして……そして、下僕にした」


持子は、自分のてのひらを見つめた。

白く、華奢で、美しい手。

だが、持子にはその手が、どす黒い泥で汚れているように見えた。


「修学旅行の三人もそうだ。レオ、沙夜、美羽……。あやつらもまた、壊れかけていた。だからわしは、あやつらの心を一度壊し、組み直し、下僕にした」


持子の声が、微かに震え始める。


「わしには……力があるのだ。雪。……ただの腕力ではない。人の心の闇に干渉し、喰らい、物理法則さえもねじ曲げる『闇の魔力』が」


「わしは……本当の『魔王』なのかもしれん」


「……持子」


「修学旅行の時、小樽の神社に行ったのだ。そこで……わしは殺された」


「え?」


雪が驚いて目を開け、身を乗り出す。


「比喩だ。……だが、確かに殺されたのだ。あの神職の拳に。……わしの中に溜まっていた『穢れ』を、殺意を、あの男は見抜き、そして殺気だけでわしを一度死なせてくれた」


持子は空を見上げた。雪が頬に落ちては溶けていく。


「わしを支えているのは、幼い頃に高倉の師匠から授かった『合気武道』だ。……師匠の孫のりゅうと共に学んだ、活人かつじんの拳だ。だが、それすらも……わしの手にかかれば、人を壊すための凶器になる」


(そうだ、わしは知っている。人の壊し方を。奪い方を)


董卓とうたくの記憶がある。酒池肉林、暴虐の限りを尽くした、沢山の人を殺した、前世の血塗られた記憶が」


「転生する前の、孤独だった『恋問持子』の記憶もある」


「そして……時折、胸が締め付けられるほど誰かを恋い慕う、貂蟬ちょうせんのような心もある気がするのだ」


持子は雪の方を向き、泣き出しそうな、それでいて悲痛な笑みを浮かべた。


「女が好きでたまらん。……だが、時折、男のようにも感じる。……わしは、自分が何者なのか、正直分からんのだ」


「化物なのか、人間なのか。男なのか、女なのか」


「わしといううつわの中に、あまりにも多くのものが混ざりすぎていて……怖いのだ、雪」


(自分が何をしでかすか分からない。大切なものを、この手で握りつぶしてしまうのではないか。それが、たまらなく怖い)


吹雪が強まり、視界が白く染まる。

その白闇の中で、持子は初めて、その分厚い鎧を脱ぎ捨てた。


「だがな、雪」


持子は、温かい水の中で雪の手を探し、そっと、壊れ物を扱うように握った。


「あの神社で一度死んで、生まれ変わった時……分かったことがある」


「魔王でも、化物でも、人間でも……全部ひっくるめて『わし』なのだと」


「そして……今のわしには、失いたくない者たちがいる」


脳裏に浮かぶ顔。


「ご主人様ぁ!」と泣きつく鮎。


「持子ぉ!」と笑うレオ、沙夜、美羽。

騒がしくて、手のかかる、愛おしい下僕たち。


「大切にしたいのだ。……壊すのではなく、守りたいのだ」


持子は握った手に、ギュッと力を込めた。


「その中で……雪。貴様が、一番なのだ」


「……持子」


「これが愛なのかは分からん。……母を求めているだけなのかもしれん。貴様は、師匠が死んで龍が去り、寂しく震えていたわしを拾ってくれた。服を与え、居場所を与え、仕事を与え、生きる意味を与えてくれた」


持子の黄金の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

それは湯気と混じり合い、頬を伝って、プールへと落ちていく。


「励ましてくれ、叱ってくれ、慰めてくれ……。こんな得体の知れない、いつ爆発するか分からない爆弾みたいなわしに、貴様はずっと愛情を注いでくれた」


「本当は、感謝しかないのだ。……なのに、わしは素直ではないから。いつも憎まれ口ばかり叩いて……」


「すまぬ……。本当に、すまぬ……っ!」


持子は雪の手を両手で包み込み、自分の額を押し付けた。

熱い。雪の手が、こんなにも熱くて、優しい。


「言うつもりはなかったのだ。……だが、あの神社で死を感じた時、一番に思ったのが『雪に伝えておけばよかった』という後悔だった」


「だから……言葉足らずで、わけのわからんことばかり言っているが……伝えたかったのだ。雪に」


「ありがとう、と。……大好きだ、と」


持子の懺悔は、吹雪の中に溶けていった。

肩を震わせて泣く魔王の姿は、あまりにも小さく、そしてただの「寂しがり屋の少女」だった。


挿絵(By みてみん)


✴︎氷解と、母なる抱擁


長い沈黙があった。

聞こえるのは、ゴウゴウと吹き荒れる風の音だけ。

チャプン……。

水音がした。


「……バカね、あんたは」


雪が移動し、持子の隣に来た。

そして、優しく、強く、持子の頭を自身の豊かな胸へと抱き寄せた。

冷えた空気の中で、雪の体温と、柔らかい肌の感触が持子を包み込む。


「なにが魔王よ。なにが化物よ。……そんなの、最初から知ってるわよ」


雪の手が、持子の濡れた髪をく。


「あんたが普通じゃないことくらい、会った時から分かってたわ。……普通の人間が、あんな目で大人を睨みつけたりしないもの」


「雪……」


「でもね、持子。……あんたがどれだけ過去の記憶を持っていても、どんな魔力を持っていても。……私にとっては、あんたは『恋問持子』よ」


雪は持子の顔を上げさせ、その涙で濡れた頬を親指で拭った。

眼鏡の奥の瞳は、どこまでも深く、慈愛に満ちていた。

それは、上司の目ではない。

慈愛に満ちた、母の目だった。


「手がかかって、大食らいで、生意気で、でも誰よりも寂しがり屋で、バカで、優しい女の子。……私の自慢のモデルよ」


「うっ、うぅ……雪ぃ……!」


「性別なんてどうでもいいわ。過去もどうでもいい。……あんたは、あんたのままでいいの。私が全部、受け止めてあげるから」


雪は持子の額に、そっとキスを落とした。

チュッ、という小さな音。

それが、持子の世界を肯定する、最強の契約印となった。


「だから、安心して暴れなさい。……後始末は、私が全部つけてあげる」


「……うん……うん……!」


持子は雪の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。

心の奥底に溜まっていたおりが、全て洗い流されていくようだった。

自分が何者かなど、もう迷わない。

この人が「持子」と呼んでくれるなら、わしは「恋問持子」で在り続けられる。

猛吹雪の阿寒湖。

薄暗いイルミネーションの下、湯気の中で抱き合う二人の姿は、どんな宝石よりも美しく輝いていた。

それは、魔王と従者という関係を超えた、魂の契約の瞬間だった。


「……さて。泣き止んだ?」


しばらくして、雪が優しく囁いた。


「……うむ。少し、スッキリした」


持子は目をゴシゴシと擦り、鼻をすすった。

目は真っ赤だが、その瞳にはいつもの不敵な輝きが戻りつつある。


「なら、戻りましょ。……さすがに長湯しすぎたわ。風邪ひくわよ」


「そうだな。……雪よ」


持子は立ち上がり、雪の手を引いた。


「ん?」


「……背中、流してやろうか?」


「あら」


「わしのテクニックで、貴様の疲れも、肩こりも、その……腹の肉も、揉みほぐしてやろう、ふふふぅ」


「……一言余計だけど、お願いしようかしら」


二人は手を繋ぎ、プールから上がった。

吹き荒れる雪風も、もはや二人を凍えさせることはできなかった。

その心には、決して消えることのない、温かな灯火が灯っていたからだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ