『魔王の懺悔は雪に溶ける』
『吹雪の果て、魔王の涙と最強の肯定』
極寒の処刑台、あるいは楽園
ゴオォォォォォォォォォ……!!
屋上への重い鉄扉を開けた瞬間、鼓膜を劈くような轟音と共に、白い暴力が襲いかかってきた。
視界ゼロ。
気温マイナス15度。体感温度は測定不能。
そこは、生物の生存を許さない絶対零度の地獄だった。
「きゃっ……!?」
「ぬおおおぉっ!? 顔が! わしの美顔が凍るぅぅ!」
雪が思わず腕で顔を覆い、持子はあまりの寒さに変な声を上げた。
美しいはずの阿寒湖の絶景? そんなもの、どこにもない。あるのは漆黒の闇と、狂ったように舞い踊る雪、雪、雪。
唯一の光源は、プールの縁を彩る淡いブルーのイルミネーションだけ。それが雪煙の中でぼんやりと滲み、まるで三途の川の灯りのようだ。
「……誰もいないわね」
雪が呆れたように呟く。
「と、当然だ……! この天候で屋上に来る物好きなど、わしらくらいだ……!」
持子はガチガチと歯を鳴らしながら、それでも「魔王の矜持」だけでマント(という名のホテルの湯着)を脱ぎ捨てた。
バッ!
極寒の冷気の中に、58キロの完璧なプロポーションが晒される。
痛い。寒さを通り越して、無数の針で刺されるような激痛。
「ゆ、雪! 早く! 死ぬ! マンモスも絶滅する寒さだ!」
「はいはい、騒がないの」
二人は逃げるように、湯気が立ち上るインフィニティ・プールへと飛び込んだ。
チャプン……。
「ふぁ…………っ」
温かい。
地獄のような寒風の中、温泉の温もりが身体の芯まで染み渡る。
血液が解凍され、指先の感覚が戻ってくる。
二人は肩までお湯に浸かり、プールの縁に身を預けた。
頭上では風がゴウゴウと唸りを上げているが、首から下は天国。
この奇妙な浮遊感。
(……ふむ。悪くない)
持子は、湯気越しに隣の雪を見た。
濡れた髪をかき上げる雪の横顔は、照明に照らされて艶っぽく、そしてどこか儚げだ。
世界から二人だけが切り離されたような、青くて、白い、密室。
✴︎魔王の懺悔
しばらくの間、二人は無言だった。
雪は目を閉じ、湯の温かさを楽しんでいる。
持子は、ぼんやりと光るイルミネーションを見つめていた。
その光は、あの修学旅行の夜、小樽の運河で見た蒼い光に似ていた。
「……雪よ」
風の音に紛れるような、低い声で持子が呼んだ。
いつもの、尊大な響きではない。
迷子の子供が、母親の服の裾を掴むような、そんな弱々しい声。
「ん? なぁに?」
雪は目を開けず、夢見心地で答える。
「わしはな……ずっと、考えていたことがあるのだ」
持子は水面の下で、自分の膝を抱えた。
小さく、丸くなる。
「……鮎のことだ」
持子はポツリと語り出した。
「あやつは最初、わしを憎んでいた。わしの美貌を妬み、嫉妬に狂い、反社を使ってわしを潰そうとした。……醜い獣だった」
「……ええ、そうね」
「だからわしは、あやつの心に巣食う『怪物』を喰らった。あやつのドロドロとした感情を飲み込み、空っぽにして……そして、下僕にした」
持子は、自分の掌を見つめた。
白く、華奢で、美しい手。
だが、持子にはその手が、どす黒い泥で汚れているように見えた。
「修学旅行の三人もそうだ。レオ、沙夜、美羽……。あやつらもまた、壊れかけていた。だからわしは、あやつらの心を一度壊し、組み直し、下僕にした」
持子の声が、微かに震え始める。
「わしには……力があるのだ。雪。……ただの腕力ではない。人の心の闇に干渉し、喰らい、物理法則さえもねじ曲げる『闇の魔力』が」
「わしは……本当の『魔王』なのかもしれん」
「……持子」
「修学旅行の時、小樽の神社に行ったのだ。そこで……わしは殺された」
「え?」
雪が驚いて目を開け、身を乗り出す。
「比喩だ。……だが、確かに殺されたのだ。あの神職の拳に。……わしの中に溜まっていた『穢れ』を、殺意を、あの男は見抜き、そして殺気だけでわしを一度死なせてくれた」
持子は空を見上げた。雪が頬に落ちては溶けていく。
「わしを支えているのは、幼い頃に高倉の師匠から授かった『合気武道』だ。……師匠の孫の竜と共に学んだ、活人の拳だ。だが、それすらも……わしの手にかかれば、人を壊すための凶器になる」
(そうだ、わしは知っている。人の壊し方を。奪い方を)
「董卓の記憶がある。酒池肉林、暴虐の限りを尽くした、沢山の人を殺した、前世の血塗られた記憶が」
「転生する前の、孤独だった『恋問持子』の記憶もある」
「そして……時折、胸が締め付けられるほど誰かを恋い慕う、貂蟬のような心もある気がするのだ」
持子は雪の方を向き、泣き出しそうな、それでいて悲痛な笑みを浮かべた。
「女が好きでたまらん。……だが、時折、男のようにも感じる。……わしは、自分が何者なのか、正直分からんのだ」
「化物なのか、人間なのか。男なのか、女なのか」
「わしという器の中に、あまりにも多くのものが混ざりすぎていて……怖いのだ、雪」
(自分が何をしでかすか分からない。大切なものを、この手で握りつぶしてしまうのではないか。それが、たまらなく怖い)
吹雪が強まり、視界が白く染まる。
その白闇の中で、持子は初めて、その分厚い鎧を脱ぎ捨てた。
「だがな、雪」
持子は、温かい水の中で雪の手を探し、そっと、壊れ物を扱うように握った。
「あの神社で一度死んで、生まれ変わった時……分かったことがある」
「魔王でも、化物でも、人間でも……全部ひっくるめて『わし』なのだと」
「そして……今のわしには、失いたくない者たちがいる」
脳裏に浮かぶ顔。
「ご主人様ぁ!」と泣きつく鮎。
「持子ぉ!」と笑うレオ、沙夜、美羽。
騒がしくて、手のかかる、愛おしい下僕たち。
「大切にしたいのだ。……壊すのではなく、守りたいのだ」
持子は握った手に、ギュッと力を込めた。
「その中で……雪。貴様が、一番なのだ」
「……持子」
「これが愛なのかは分からん。……母を求めているだけなのかもしれん。貴様は、師匠が死んで龍が去り、寂しく震えていたわしを拾ってくれた。服を与え、居場所を与え、仕事を与え、生きる意味を与えてくれた」
持子の黄金の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
それは湯気と混じり合い、頬を伝って、プールへと落ちていく。
「励ましてくれ、叱ってくれ、慰めてくれ……。こんな得体の知れない、いつ爆発するか分からない爆弾みたいなわしに、貴様はずっと愛情を注いでくれた」
「本当は、感謝しかないのだ。……なのに、わしは素直ではないから。いつも憎まれ口ばかり叩いて……」
「すまぬ……。本当に、すまぬ……っ!」
持子は雪の手を両手で包み込み、自分の額を押し付けた。
熱い。雪の手が、こんなにも熱くて、優しい。
「言うつもりはなかったのだ。……だが、あの神社で死を感じた時、一番に思ったのが『雪に伝えておけばよかった』という後悔だった」
「だから……言葉足らずで、わけのわからんことばかり言っているが……伝えたかったのだ。雪に」
「ありがとう、と。……大好きだ、と」
持子の懺悔は、吹雪の中に溶けていった。
肩を震わせて泣く魔王の姿は、あまりにも小さく、そしてただの「寂しがり屋の少女」だった。
✴︎氷解と、母なる抱擁
長い沈黙があった。
聞こえるのは、ゴウゴウと吹き荒れる風の音だけ。
チャプン……。
水音がした。
「……バカね、あんたは」
雪が移動し、持子の隣に来た。
そして、優しく、強く、持子の頭を自身の豊かな胸へと抱き寄せた。
冷えた空気の中で、雪の体温と、柔らかい肌の感触が持子を包み込む。
「なにが魔王よ。なにが化物よ。……そんなの、最初から知ってるわよ」
雪の手が、持子の濡れた髪を梳く。
「あんたが普通じゃないことくらい、会った時から分かってたわ。……普通の人間が、あんな目で大人を睨みつけたりしないもの」
「雪……」
「でもね、持子。……あんたがどれだけ過去の記憶を持っていても、どんな魔力を持っていても。……私にとっては、あんたは『恋問持子』よ」
雪は持子の顔を上げさせ、その涙で濡れた頬を親指で拭った。
眼鏡の奥の瞳は、どこまでも深く、慈愛に満ちていた。
それは、上司の目ではない。
慈愛に満ちた、母の目だった。
「手がかかって、大食らいで、生意気で、でも誰よりも寂しがり屋で、バカで、優しい女の子。……私の自慢のモデルよ」
「うっ、うぅ……雪ぃ……!」
「性別なんてどうでもいいわ。過去もどうでもいい。……あんたは、あんたのままでいいの。私が全部、受け止めてあげるから」
雪は持子の額に、そっとキスを落とした。
チュッ、という小さな音。
それが、持子の世界を肯定する、最強の契約印となった。
「だから、安心して暴れなさい。……後始末は、私が全部つけてあげる」
「……うん……うん……!」
持子は雪の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
心の奥底に溜まっていた澱が、全て洗い流されていくようだった。
自分が何者かなど、もう迷わない。
この人が「持子」と呼んでくれるなら、わしは「恋問持子」で在り続けられる。
猛吹雪の阿寒湖。
薄暗いイルミネーションの下、湯気の中で抱き合う二人の姿は、どんな宝石よりも美しく輝いていた。
それは、魔王と従者という関係を超えた、魂の契約の瞬間だった。
「……さて。泣き止んだ?」
しばらくして、雪が優しく囁いた。
「……うむ。少し、スッキリした」
持子は目をゴシゴシと擦り、鼻をすすった。
目は真っ赤だが、その瞳にはいつもの不敵な輝きが戻りつつある。
「なら、戻りましょ。……さすがに長湯しすぎたわ。風邪ひくわよ」
「そうだな。……雪よ」
持子は立ち上がり、雪の手を引いた。
「ん?」
「……背中、流してやろうか?」
「あら」
「わしのテクニックで、貴様の疲れも、肩こりも、その……腹の肉も、揉みほぐしてやろう、ふふふぅ」
「……一言余計だけど、お願いしようかしら」
二人は手を繋ぎ、プールから上がった。
吹き荒れる雪風も、もはや二人を凍えさせることはできなかった。
その心には、決して消えることのない、温かな灯火が灯っていたからだ。




