『硝子の街と、魔王の聖なる帰還』
硝子の街と、魔王の聖なる帰還
消えた魔王と、三匹の仔犬
「持子……?」
如月沙夜が目を覚ました時、隣の布団は冷たくなっていた。
窓の外は、まだ薄暗い明け方。
「……レオ、起きて。持子がいない」
沙夜が隣で大の字になって寝ている獅子戸レオを揺り起こす。
「んあ……? あと5分……マカロン……」
「寝言言ってる場合じゃないわよ! 持子が消えたの!」
「えっ!?」
レオが飛び起きると、その音で花園美羽もむくりと起き上がった。
「んぅ……どうしたんですかぁ? 朝ごはんの時間ですかぁ?」
「違うわよ、バカ! 持子が部屋にいないの! トイレもお風呂も見たけど、どこにもいない!」
沙夜の声には、焦燥感が滲んでいる。
昨夜、あれほど熱く口づけを交わし、心を繋げたはずの主。
それが、何の書き置きもなく消えている。
「……まさか、捨てられた?」
美羽がポツリと呟いた言葉が、三人の心臓を凍らせた。
「そ、そんなわけないっしょ! だって!」
レオが必死に否定するが、その声は震えている。
「……でも、持子ならあり得るわ。気まぐれで、残酷で……。私たちのことなんて、ただの暇つぶしだったのかも……」
沙夜が膝を抱え、顔を埋める。
部屋の空気が、急激に重くなる。
魔王に見捨てられた恐怖。
それが、彼女たちにとって何よりも恐ろしい「死刑宣告」だった。
✴︎朝日の帰還と、魔王の愛撫
その時。
バタツ……ッ。
部屋の戸が、勢いよく開いた。
「――ふぅ! 戻ったぞ!」
冷気と共に飛び込んできたのは、ジャージ姿の恋問持子だった。
頬は薔薇色に上気し、髪にはキラキラとした雪の結晶がついている。
そして何より、その表情が。
昨夜までの、どこか憂いを帯びた妖艶な魔王の顔ではない。
憑き物が落ちたような、突き抜けるほど晴れやかな笑顔だった。
「持子……!」
三人が駆け寄る。
「どこに行ってたのよ! 心配したんだから!」
「捨てられたかと思いましたぁ……」
「持子ぉぉぉぉ!」
泣きそうな三人の前で、持子はニカッと笑ってVサインをした。
「すまんな。ちと、神と殴り合い……いや、禊をしてきた」
「はぁ!?」
「心配するな。……わしの中にあった迷いも、澱も、すべて綺麗に祓われた!」
持子はジャージを脱ぎ捨て、仁王立ちになった(その下はキャミソールと短パンだが、神々しいオーラを放っている)。
そして、不安げな三人の前に歩み寄ると、その両手を広げた。
「だから……覚悟しろ」
「え……?」
「祓われて空になった分、わしの愛で埋め尽くしてやる。……今日からは、貴様らを徹底的に可愛がってやるぞ」
持子はそう宣言すると、三人の頭を同時に抱き寄せ、ワシャワシャと乱暴に、しかし慈愛を込めて撫で回した。
「よしよし、寂しかったか? 愛い奴らめ!」
「わぷっ……! も、持子……髪が……」
「へへっ、持子の手、おっきい……あったかい……」
「んふぅ……♡ もっと撫でてくださいぃぃ……」
魔王の大きな掌に包まれ、三人の不安は一瞬で溶け去った。
「さあ、顔を洗ってこい! 今日は最高の天気だぞ! 飯が美味いぞ!」
「「「はいっ! ご主人様!」」」
✴︎光の回廊と、切り取られた青春(ニトリ美術館)
朝食(バイキングで持子が全種類制覇)を終えた第8班は、小樽の街へと繰り出した。
3日目の自主研修、最初の目的地は**「ニトリ美術館(旧三井銀行小樽支店・ステンドグラス美術館)」**だ。
荘厳な石造りの建物に入ると、そこは光の洪水だった。
19世紀末から20世紀初頭にかけて制作された、ルイス・C・ティファニーのステンドグラスが、壁一面に輝いている。
「おお……! 見ろ、この色彩! 神が宿っておる!」
持子は感嘆の声を上げた。
「ここは撮影可能エリアだ。……レオ、沙夜、美羽。わしの美しい姿を、この光と共に永遠に残せ!」
「了解っす! レオちゃんねる専属カメラマンの腕、見せますよー!」
レオがスマホを構え、沙夜がポーズを指示し、美羽が照明係(レフ板代わりの白いハンカチを持つ)に徹する。
「持子、もう少し右。……そう、その光を背負って」
「最高! マジで女神! 映え散らかしてる!」
「持子さんの肌、ステンドグラスより輝いてますぅ♡」
パシャ、パシャ、パシャ。
シャッター音が鳴り止まない。
荘厳な宗教画の前で、持子が振り返り、三人を手招きした。
「貴様らも入れ。……これは『修学旅行』だぞ。共に写らねば意味がない」
「え、私たちも?」
「当たり前だ。……ほら、寄れ」
持子を中心にして、沙夜、レオ、美羽が寄り添う。
背景には、色とりどりの光。
逆光の中で笑い合う四人の姿は、まさに**「青春」**そのものだった。
「……ふふ。いい写真」
撮ったばかりの画像を眺め、沙夜が微笑む。
そこには、魔王と下僕ではなく、ただ幸せそうな四人の少女が写っていた。
✴︎魔王の選ぶ「四つの絆」(北一硝子)
次に向かったのは、観光の定番**「北一硝子」**。
石油ランプの灯りが揺らめく幻想的な店内で、持子は真剣な眼差しで商品を物色していた。
「……雪と鮎に、土産を買わねばならん」
「あ、社長さんと先輩ですね!」
「うむ。……雪には、これだ」
持子が手に取ったのは、雪の結晶が彫り込まれた、繊細な江戸切子のロックグラス。
「雪は毎晩、胃薬……ではなく、晩酌をするからな。この美しいグラスで飲めば、少しは胃の痛みも和らぐだろう」
(……持子のせいだろうけどね)と沙夜は心の中でツッコミを入れたが、持子の表情があまりに真剣(推しへの愛に溢れている)なので黙っていた。
「で、鮎先輩には?」
レオが尋ねると、持子は少し悩み、一つの真っ赤なグラスを手に取った。
「これだ。……わしの瞳と同じ、黄金と赤のグラス」
「おぉ~! 情熱的!」
「あやつは寂しがり屋の駄犬だからな。これを見て、わしを思い出して尻尾を振ればいい」
そして、持子はさらに店内を歩き回り、あるショーケースの前で足を止めた。
「……貴様ら、これを見ろ」
指差した先には、四つ葉のクローバーをモチーフにした、四色のガラスのペンダントが並んでいた。
「わしが金(黄)、沙夜が青、レオが赤、美羽が緑……どうだ?」
「えっ……?」
「わしら4人の『絆』の証だ。……お揃いで買うぞ」
持子の言葉に、三人が息を呑む。
魔王が、自ら「お揃い」を提案したのだ。
「魔王からの下賜品だ。……大切にしろよ」
「は、はいっ! 絶対外しません!」
「一生の宝物にします!」
「(これ、転売したら……いや、できない! 持子さんとの絆だもん!)」
持子は、雪と鮎への土産、そして四人分のお揃いのペンダントをレジへと運んだ。
お会計は当然、事務所のブラックカードである。
✴︎「ザ・ワールド」への招待状
そして、待ちに待った昼食タイム。
持子が案内したのは、オルゴール堂のすぐそばにある**『ベリーベリーストロベリー』**。
赤レンガ倉庫を改装した、可愛らしい名前のお店だ。
「わぁ~♡ お店の名前、可愛いですぅ! イチゴパフェとかですかぁ?」
美羽が目を輝かせるが、持子はフッと不敵に笑った。
「甘いな、花園。……ここは、本格的なイタリアンの名店なのだ。しかも今回は、ただのランチではないぞ」
案内されたのは、店の奥にある落ち着いたテーブル席。
持子は席に着くなり、恭しく、そして高らかに宣言した。
「予約していた**『ザ・ワールド・コース』**だ。……さあ、わしらを天国へ連れて行ってくれ!」
「ザ・ワールド……!?」
三人がメニューを覗き込み、息を呑んだ。
「えっ、お値段……16,500円!?」
「じゅ、じゅうろくまん……じゃなくて、いちまんろくせん……!?」
レオの目が飛び出しそうになる。
「ランチでこの値段……!? 持子、正気なの!?」
沙夜も声を震わせる。
「うむ。正気だ。……旅の恥はかき捨て、金は使い捨てだ!」
「で、でも、誰が払うんですか? あわわ……」
美羽が財布の中身を心配するが、持子はカードをヒラヒラと振った。
「心配無用。全額、わしが(事務所が)払う」
「「「ええええええええっ!?」」」
どよめく三人を見ながら、持子はニヤリと笑った。
だが、そのこめかみには一滴、また一滴と冷や汗が流れていた。
持子の脳内で、高速のそろばんが弾かれる。
(……待てよ。冷静に計算してみよう)
『本日のランチ代』:1万6500円 × 4人 = 6万6000円。
『さっきの北一硝子(雪と鮎への土産+お揃いのペンダント)』:合わせて……ざっと15万円。
『これまでの買い食い(寿司、ルタオのケーキ、カニ、メロン、ソフトクリームetc)』:わしの暴食も含めて……約10万円。
そして何より、忘れてはならない最大の出費。
昨日、花園美羽がオルゴール堂でやらかした、アンティーク・オルゴールの弁償代。
『19世紀スイス製オルゴール(破損)』:330万円。
(しめて……総額、361万6000円!?)
持子の顔色が、サーッと青ざめた。
修学旅行のたった数日で、車が一台買える額を使い込んでいる。
ブラックカードの請求書が事務所に届いた時の、雪(社長)の顔が鮮明に浮かんだ。
『――あら、持子さん? これ、何の数字かしら?』
『い、いや、これはその……必要経費で……』
『へぇ、オルゴールを壊して、イタリアンで豪遊するのが経費? ……いい度胸ね』
ゴゴゴゴ……と背景に般若が浮かび、手にはハリセン、いや、日本刀が握られているかもしれない。
(ひぃぃぃっ! 殺される! 確実に折檻コースだ!)
(晩飯抜きか!? ササミ生活か!? それとも、雪の氷点下の説教3時間コースか!?)
持子の足がガクガクと震え出す。
だが、目の前の三人の顔を見た瞬間、その震えが止まった。
「……すごい、こんなご馳走初めて……」
「持子様、一生ついてくっす!」
「(これ食べたら、もう死んでもいいかも……)」
キラキラと輝く瞳。心からの笑顔。
昨日までは互いに敵対し、孤独だった魂たちが、今は一つのテーブルで幸せを共有している。
(……フッ。まあ、いいか)
持子は腹を括った。
(毒を食らわば皿まで。この愛すべき共犯者たちとの最後の晩餐……ケチってどうする!)
(帰ったら、土下座でも何でもしてやる。雪の折檻も、愛の鞭として甘んじて受けようではないか!)
「食え! 遠慮はいらん! わしの奢りだ!」
持子は震える手を隠し、豪快に号令をかけた。
運ばれてきたのは、まさに「世界」の名にふさわしい料理たち。
北海道産ウニのクリームパスタ、十勝牛のフィレステーキ、そして宝石のように散りばめられた完熟イチゴのドルチェ。
「……美しい」
持子は、運ばれてきた料理に敬意を表するように手を合わせた。
「いただきます」
一口食べた瞬間、四人の時が止まった。
「……んんっ!!」
「なにこれ、溶ける……!」
「お肉の脂が…………!」
持子は、恍惚の表情でフォークを動かす。
「美味い……! 穢れを祓った身体に、大地の恵みが染み渡るぞ……!」
「持子様、あーん♡」
「こらレオ、わしのウニを狙うな! ……まあ良い、一口くれてやる。その代わり、貴様のイチゴを寄越せ」
「えへへ、交換こっすね!」
高級イタリアンを囲み、笑い合う四人。
そのテーブルは、どんな宝石よりも輝く「青春」の1ページとして、彼女たちの記憶に刻まれた。
そして、その裏で加算されていく360万円の請求額への恐怖もまた、持子の心に深く刻まれていたのであった。




