『寸止めの再誕』
恐ろしい、まだ妄想している。
10分の1も、進んでいない。
一度、死んで、生き返る
「――申し訳ない。私が、誘った」
男が、ふぅと白い息を吐きながら拳を納めた。
その瞬間、境内を支配していた圧倒的な質量の「巨岩」は消え失せ、そこにはただの、少し体格の良い初老の神職が立っているだけだった。
「……誘った、だと?」
持子は、まだ震えが止まらない指先を握りしめ、掠れた声で問い返した。
鼻先には、未だに「死」の感触が冷たく残っている。
「ああ。君が……あまりにも危うく見えたもので」
神職は、持子の瞳を静かに見つめ返した。その眼差しは、全てを見透かすように深く、そして穏やかだった。
「今にも壊れそうで、何かを必死に抑え込んでいる。……だから、わざと隙を見せた。君の中の獣が、飛び出してくるようにね」
(……そうか。わしは、踊らされていたのか)
持子は今にして思う。
あの無防備な欠伸。不用意な歩み。
それら全てが、持子の中に巣食う「魔」を引きずり出し、叩き潰すための布石だったのだ。
完敗だった。武人としても、生物としても。
「……今の突きは、なんだ。空手ではないな?」
「柳生新陰流だよ。これしか出来ないが」
神職は、自らの分厚い掌を広げて見せた。
「本来は太刀でやる動きを、拳でやっただけのことだ。……君の突きは速かったが、殺意が強すぎて『点』になっていた」
男は、空に向かって、ゆっくりとその動きを再現してみせた。
「捻りも、回転もいらない。威力を欲張って溜めを作る必要もない。……ただ、真っ直ぐに。太刀筋のように、最短距離を、真っ直ぐに。それだけだよ」
そのシンプルな言葉が、持子の胸に重く響いた。
持子は、その場に立ち尽くしていた。
本当は、聞きたいことが山ほどあった。
吐き出したい澱が、腹の底にどす黒く溜まっていたはずだった。
自分は男なのか、女なのか。
魔王なのか、人間なのか。
体内で疼く黒い魔力も、他者を支配したいという色欲も、命を奪うことへの躊躇のなさも。
自分が「人外」であるという恐怖と孤独を、誰かに叫び、ぶちまけたかった。
けれど。
(……無い)
不思議なことに、あれほど重くのしかかっていた心の霧が、今は跡形もなく消え去っていた。
あの瞬間。
男の拳が鼻先で止まった、あの刹那。
持子の脳裏を過ぎったのは、恐怖でも後悔でもなく、ただ純粋な「無」だった。
生物としての死。
それを突きつけられた衝撃が、持子の中にあった余計な自我も、迷いも、魔王としての業さえも、すべて吹き飛ばしてしまったのだ。
(わしは、一度死んだのだ)
死んで、今、再び呼吸を始めた。
ならば、今のわしは新品だ。
穢れなど、残っているはずがない。
「……ふっ」
持子の口元から、自然と笑みが漏れた。
それは魔王の不敵な笑みではなく、憑き物が落ちた少女の、晴れやかな微笑みだった。
持子は足を揃え、背筋を伸ばし、神職に向かって深々と頭を下げた。
「――殺してくれて、ありがとう」
持子は顔を上げ、清々しい声で告げた。
「新たに生まれた気がするぞ」
その言葉を聞いて、神職は目を細めた。
諭すように、優しく言った。
「それこそが、神道だよ」
「……神道?」
「ああ。人は生きている限り、どうしても穢れる。澱が溜まる。それは避けられないことだ」
神職は、朝日が差し込む境内を見渡した。
「だが、溜まったのなら、祓えば良い。……それだけのことだよ」
罪と罰ではない。
ただ、汚れたら洗う。穢れたら祓う。
その単純な循環こそが、生きるということなのだと、男は言っていた。
(……そうか。それだけで、良かったのか)
持子の肩から、見えない重荷が完全に消え去った。
魔王であろうが、人間であろうが、穢れたらまた、ここに来ればいい。あるいは、死ぬ気で何かに打ち込めばいい。
単純明快な答えが、そこにあった。
神職は何も言わず、ただ優しく微笑んで、再び竹箒を動かし始めた。
シャッ、シャッ。
静かな境内に、日常の音が戻ってくる。
持子は踵を返した。
もう、迷いはない。
足取りは、羽が生えたように軽かった。
(帰ろう。……皆が待つ、あの宿へ)
空を見上げると、雪雲の切れ間から、眩しい朝日が差し込み始めていた。
腹が、猛烈に減っていた。
今日の朝食は、いつにも増して美味いに違いない。
「……いただきます!」
持子は誰もいない坂道で、これからの食事への感謝を叫ぶと、白銀の世界を駆け下りていった。




