『魔王、神域にて己を問う』
魔王、神域にて己を問う
神殿の重厚な扉が開かれたばかりの境内は、張り詰めたような静寂に包まれていた。
聞こえるのは、早朝の冷気を裂くような鳥の鳴き声と、神職が竹箒で参道を掃く、ザッ、ザッ、という規則的な音だけ。
持子は賽銭箱の前に立つと、ジャージのポケットから小銭入れを取り出した。
中にある硬貨を、銀色も銅色も区別なく、鷲掴みにする。
欲望の代償としては安すぎるかもしれないが、今の持ち合わせはこれだけだ。
チャリン、ジャララ……。
硬貨が音を立てて箱の中へと吸い込まれていく。
持子は姿勢を正し、深く息を吸い込んだ。
二礼、二拍手、一礼。
パン、パン。
打ち鳴らした柏手の音が、凍てついた早朝の空気に乾いた音色を響かせた。
その音は、自分自身の輪郭を確かめるかのように、鋭く耳に残った。
頭を垂れ、目を閉じる。
ふと、胸の奥が少しだけ軽くなったような気がした。
晴れやかな気分。
そう、確かに「感じ」はした。
だが――。
師匠の言っていた「己と向き合う」という境地には、到底至っていないことを、持子自身が一番よく分かっていた。
(……浅いな)
持子は閉じた瞼の裏で、自嘲した。
今の持子の心は、ただ神に手を合わせれば済むほど、単純な構造をしていない。
今の肉体は「女」。
だが、魂の記憶は「男」。
魂の記憶が目覚める前の「女」の記憶も有り共有している。
その本質は「魔王」であり、かつて中華を蹂躙した「覇王」だ。
体内で渦巻く、他者を侵食するための『黒い霧(魔力)』。
美しいもの、美味いものを貪りたいという、底なしの『色欲』と『暴食』。
そして何より恐ろしいのは――命を奪うことへのハードルの低さだ。
(わしは、知っている)
合気武道の理などという高尚なものではない。
首の角度を少し変えれば。
指を眼窩に突き立てれば。
呼吸をするように、瞬きをするように、容易く人を壊せることを、わしは知っている。
与えることも、奪うことも。
その感触を、魂が覚えている。
(わしは、やはり人外のモノなのだ)
最近、その意識が強くなっている。
女子高生として笑い合えば合うほど、ふとした瞬間に顔を出す「化け物」としての自分。
そんな混沌を抱えたまま、どうやって自分自身と向き合えばいいのか。
この業を、どう飼い慣らせばいいのか。
分からない。
答えは、冬の小樽の海のように、深く暗い底に沈んだままだ。
「――大丈夫かい?」
不意に。
穏やかな声が、持子の意識の膜を破った。
「……ッ!?」
持子は弾かれたように目を開けた。
現実の光景が、目に飛び込んでくる。
いつの間にか、背後には気配があった。
一人ではない。五人、六人。
早朝の散歩に来たのだろうか、地元の老人や観光客が、持子の後ろに小さな列を作っていたのだ。
(……なんと。わしは、どれほどの時間、ここで立ち尽くしていたのだ?)
没頭していた。
時が経つのも忘れ、己の闇の深さを覗き込んでいたのだ。
声を掛けてきたのは、さっきまで忙しなく掃除をしていた神職だった。
竹箒の手を休め、心配そうに持子の顔を覗き込んでいる。
その目は、何かに取り憑かれたように動かなかった少女を、気遣う色を帯びていた。
「あ、ああ……」
持子は短く声を漏らし、コクリと頷いた。
言葉は出てこなかった。
これ以上、神聖な場所を「魔王」が塞いでいるわけにはいかない。
「……すまぬ」
持子は誰に言うともなく呟くと、逃げるようにその場を去ろうと踵を返した。




