『嘘つきアイドルの契約書』
✴︎硝子の街で、罪は輝き、砕け散る
メルヘン交差点の悪夢
修学旅行2日目の昼。
第8班の一行は、小樽運河沿いの散策を終え、堺町本通りにある観光名所**「小樽オルゴール堂」**へと足を踏み入れていた。
レンガ造りの重厚な建物の扉を開けると、そこは光と音の洪水だった。
数万点にも及ぶオルゴールが展示され、シャンデリアの光を反射してキラキラと輝いている。
絶え間なく流れる幻想的なメロディは、訪れる人々を夢の世界へと誘う――はずだった。
「うわぁ~♡ すごぉい! まるで宝石箱の中にいるみたいですぅ!」
花園美羽は、頬を紅潮させ、瞳をキラキラと輝かせていた。
だが、その潤んだ瞳の奥底には、まるで別の「計算機」が高速で回転していた。
(……5千円、1万円、こっちは5万円……。チッ、観光地価格でボッてんなぁ)
(あっちのガラス細工、ポケットに入りそう……。あれならメルカリで3万はいける……)
美羽の背筋に、ゾクゾクとした悪寒が走る。
それは寒さではない。
**「盗みたい」**という、焼けつくような渇望だ。
極貧の家庭で育った美羽にとって、目の前に積まれた商品は「綺麗な雑貨」ではない。「弟たちの給食費」であり、「妹の学費」であり、そして何より――空っぽな自分を満たすための「獲物」だった。
「ねえねえ持子様! 見てこれ! 寿司のオルゴールだって! ウケる!」
獅子戸レオが、昨夜の契約通り「親しいクラスメイト」を演じながら(しかし尻尾は見えないほど振っている)、持子に話しかける。
「ふむ……寿司か。先ほど『伊勢鮨』で食ったウニは絶品であったな。やはり本物は良い」
魔王・恋問持子は、腹ご満悦な様子で店内を闊歩している。
その圧倒的な美貌と、全身から漂う「富裕層オーラ」は、高級アンティークが並ぶ店内にあっても一際異彩を放っていた。
(……やれやれ。レオのやつ、少しは自重しろ。尻尾が見えておるぞ)
(しかし、このオルゴールの音色……悪くはないが、腹にはたまらんな。早くルタオのチーズケーキが食いたい)
持子は優雅に振る舞いつつも、内心では食欲のことばかり考えていた。
「……五月蝿いわね。少し静かにしてくれない?」
如月沙夜は、二人から距離を取り、アンティークコーナーの陰で不機嫌そうにショーケースを眺めている。
美羽は、3人の視線が自分に向いていないことを確認した。
心臓が早鐘を打つ。指先が微かに震える。
(大丈夫。カメラの位置は確認済み。店員の死角も把握してる)
(私はアイドル。誰からも愛される可愛い美羽ちゃん。誰も私を疑わない)
彼女の足は、吸い寄せられるように店の奥――立ち入り禁止ロープの向こうにある、特別な展示台へと向かっていた。
✴︎300万円の破滅
そこに鎮座していたのは、19世紀のスイス製アンティーク・オルゴールだった。
精巧な木彫りの装飾。重厚な真鍮の輝き。
値札には、0がいくつも並んでいる。
『販売価格:3,300,000円』
(……300万)
美羽の喉が鳴った。
これがあれば。これ一つ盗み出せば、借金を返して、引越しができる。
いや、金の問題じゃない。
こんな高価なものを、誰にも見つからずに「自分のモノ」にできたなら――その背徳感は、どんな麻薬よりも脳髄を痺れさせるだろう。
(いける)
美羽の右手が、蛇のように音もなく伸びた。
狙うはオルゴールの上に置かれた、小さなガラス製のぜんまい鍵。
それだけでも数十万の価値があるアンティークパーツだ。
指先が、冷たいガラスに触れる。
その瞬間。
「――花園?」
背後から、沙夜の声がした。
「ッ!?」
心臓が跳ね上がった。
極度の緊張状態で張り詰めていた神経が、その一言でショートする。
美羽の指が硬直し、掴みかけたガラスの鍵を弾いてしまった。
さらに悪いことに、慌てて手を引っ込めようとした袖が、オルゴール本体に引っかかる。
ガタッ。
重厚なアンティークが、展示台からバランスを崩した。
「あ」
時間がスローモーションになった。
美羽の手が空を切る。
300万円の芸術品が、重力に従って床へと落下していく。
ガシャアアアアアンッ!!!
けたたましい破砕音が、優雅なメロディを切り裂いた。
繊細な内部機構が飛び散り、美しい木枠が無残に砕け散る。
一瞬の静寂の後、店中の視線が美羽に突き刺さった。
「きゃあああっ!?」
「な、なんだ!?」
「おい、あれ……一番高いやつじゃ……」
美羽は、崩れ落ちた残骸の前に立ち尽くしていた。
顔面から血の気が失せ、指先の震えが止まらない。
(終わった)
店員たちが血相を変えて走ってくる足音が聞こえる。
300万。弁償。
事務所に連絡が行く。警察沙汰になる。
アイドルの仮面が剥がれ、万引き未遂の事実が暴かれる。
退学。解雇。家族の絶望。
「あ……あ、あ……」
呼吸ができない。
視界が暗転する。
美羽はその場にへたり込み、過呼吸で肩を上下させた。
「お客様! 大丈夫ですか!? これ……!」
店員が青ざめた顔で駆け寄る。
「さ、触らないでください! 警察を! 責任者を呼びます!」
「ち、ちが……わざとじゃ……あ、ああ……」
美羽は涙と鼻水で顔を歪め、無様に震えることしかできない。
人生終了のカウントダウンが、無慈悲に響いていた。
✴︎魔王の謝罪と支払い
「――待たれよ」
絶望の淵に沈みかけた美羽と店員の間に、凛とした声が割り込んだ。
人垣が割れ、恋問持子が静かに姿を現す。
「も、持子……さん……」
持子は、腰を抜かした美羽を一瞥すると、すぐに店員に向き直った。
その表情は、いつもの傲慢な魔王のものではない。
真摯で、威厳に満ちた「責任者」の顔だった。
(……チッ。派手にやりおったな、この泥棒猫め)
(だが、ここで警察沙汰になれば修学旅行は中止。わしのチーズケーキも、お預けになる。……それは断じて許容できん!)
「店の方だな。……連れが、店の商品を破損させてしまったようだ。申し訳ない」
持子は深く、優雅に頭を下げた。
その所作の美しさに、詰め寄ろうとしていた店員が気圧されて立ち止まる。
「い、いえ、しかし……これは高額な商品でして……警察を呼ばないと……」
「警察は不要だ。これは事故だ。故意ではない」
持子は顔を上げると、懐から一枚のカードを取り出した。
それはプラスチックではない。重厚な金属の輝きを放つ、センチュリオン・ブラックカード(事務所経費)。
(くっ……! 雪(社長)になんて言い訳すればいいのだ……!)
(「うっかり壊した」で通る額ではないぞ……。いや、ここは魔王らしく堂々と振る舞うしかない!)
(あとで土下座して、CMの仕事を5本くらい増やせば許してくれるはずだ……たぶん)
内心で冷や汗をかきつつ、持子はそのカードを恭しく店員に差し出した。
投げつけるのではない。あくまで礼儀正しく、しかし拒絶を許さない圧力で。
「全額、今ここで弁償する。……330万であったな? 迷惑料を含めて切ってくれ」
「お、お客様……!? 高校生ですよね……!?」
「身元は保証する。カードの名義も確認してくれて構わん。……どうか、この場の騒ぎを収めていただきたい」
持子の黄金の瞳が、静かに店員を見据える。
そこには「金を払えばいいのだろう」という成金の傲慢さはなかった。
自分の配下が犯した不始末を、主として尻拭いする覚悟と度量があった。
(金で解決できるなら安いものだ。……それに、これで一つ「大きな貸し」ができた)
(ククク……高くつくぞ、花園美羽)
「……わ、わかりました。少々お待ちください」
店員は震える手でカードを受け取り、カウンターへと走った。
周囲の客がどよめく。
「300万を一括?」「何者だあの子……」「すげぇ……」
決済が終わり、レシートを受け取ると、持子は再び店員に頭を下げた。
「騒がせてすまなかった。……行くぞ、花園」
「は……はい……」
持子は呆然とする美羽の襟首を掴み、引きずって店を出た。
背後で、レオが「持子様、カッケー! 一生ついてく!」と小声で叫び、沙夜が「……あんな大金、どうやって」と呟くのが聞こえた。
✴︎黒き契約と、満たされる渇き
観光客で賑わうメインストリートから一本外れた、薄暗い路地裏。
赤レンガの壁に、ドンッ!と背中を押し付けられた。
「ひっ……!」
美羽が悲鳴を上げる間もなく、持子の両腕が左右の壁を叩く。
完全な「壁ドン」状態。
逃げ場はない。
「……も、持子さん……あの、お金は……一生かかって返しますから……」
美羽は震えながら、必死に作り笑いを浮かべた。
「だから、事務所には……警察には言わないで……」
「黙れ!」
持子の黄金の瞳が、美羽を射抜いた。
その瞳には、先ほどの店での殊勝な態度は微塵もない。
あるのは、絶対強者が弱者を値踏みするような、冷徹な「所有欲」だけ。
(さて、喰らうか)
(恐怖、罪悪感、そして渇望……。最高のスパイスが効いておるわ)
持子は美羽の右手首を掴み、目の高さまで持ち上げた。
そして、美羽が盗もうとしたその細い指先を――ガブリと口に含んだ。
「んっ!? ぁ……!?」
温かい舌の感触。鋭い歯が、指の腹を甘噛みする痛み。
背筋に電流が走る。
「……美味いな」
持子は指を口から離すと、唾液で濡れたそれを妖艶に見つめた。
「嘘と、罪の味がする」
「あ……」
美羽の顔が真っ赤に染まる。
見抜かれている。
事故ではないこと。盗もうとしたこと。その常習性も、心の闇も。
「命拾いしたな、泥棒猫」
持子の顔が近づく。逃げられない距離で、魔王が囁く。
「あのガラクタの代金……330万。貴様の安いアイドル給料で返せる額ではないな?」
「う、うぅ……」
「だが、金などどうでもいい。……わしが買ったのは、オルゴールではない」
持子は美羽の顎を指で持ち上げた。
「その薄汚い手癖と、腐りきった魂。……今の支払いで、わしが買い取ったぞ」
「え……?」
「警察には突き出さん。その代わり……一生掛けて、その身体と才能で返せ」
美羽の瞳が揺れる。
許されたのではない。「所有」されたのだ。
自分の罪ごと、汚さごと、この人は「私のものだ」と言い放った。
「……はい……ご主人様……」
美羽がその言葉を口にした、瞬間だった。
(契約成立だ。……貴様の空っぽの器、わしの色で満たしてやる)
ドクンッ。
美羽の視界が歪んだ。
目の前の持子の背後から、陽炎のような漆黒のモヤが溢れ出し、路地裏を埋め尽くしたのだ。
それは、レオにしか見えていなかった「魔王の魔力」。
契約によって、今、美羽にも視認されたのだ。
「え……なに、これ……黒い……?」
黒い霧は意思を持った蛇のように、美羽の身体へと絡みついてくる。
皮膚から、指先から、心臓へと侵入してくる。
「あ……んっ、ぁ……!」
美羽の膝が震える。
それは恐怖ではない。
空っぽだった心の穴が、圧倒的な質量の「魔力」で強制的に埋められていく感覚。
今までどんな高級品を盗んでも得られなかった充足感が、脳髄を焼き尽くす。
(あぁ……なにこれ、すごい……)
(あったかい……ドロドロしてて、気持ちいい……)
(私の罪も、嘘も、全部この人が飲み込んでくれる……!)
クレプトマニアの乾きが、支配される悦びによって上書きされていく。
美羽は、濡れた指先で持子の袖を掴み、恍惚とした表情ですがりついた。
その瞳は、もう「国民の妹」の演技ではない。
完全に主に飼い慣らされた、メスの顔をしていた。
✴︎泥棒猫への躾
「……いい表情だ」
持子は満足げに笑うと、黒いモヤを霧散させ、美羽の頬を軽く叩いた。
正気に戻った美羽が、ハッとして顔を上げる。
「さて、花園。一つだけ貴様に**『躾』**をしておく」
持子の声色が、冷徹なものに変わった。
「わしを『ご主人様』と呼ぶな。下僕のように媚びへつらうのも禁止だ」
「え……? で、でも、私は持子さんに買われたんじゃ……」
「そうだ。だが、わしが欲しいのは、牙を抜かれたペットではない」
(そうだ、鮎のような思考停止した下僕はもう御免だ)
(わしの隣を歩くなら、もっと強かで、美しい悪党でなくてはな)
持子は美羽の耳元で、低く囁いた。
「貴様の武器はなんだ? その可愛らしい顔と、息をするように吐く『嘘』だろう?」
「……!」
「ならば、徹底的に騙し続けろ。クラスメイトを、先生を、そして世界を。……今まで通り、清純なアイドルとして振る舞え」
持子はニヤリと笑った。
「もし、つまらない下僕になり下がって、その『嘘』の輝きを失ったら……即刻契約破棄だ。330万の請求書と共に、警察へ突き出してやる」
美羽はゴクリと唾を飲み込んだ。
なんて厳しい、そしてなんて刺激的な命令だろう。
ただ従順な犬になることは許されない。
「魔王の所有物」という秘密を抱えたまま、平然とアイドルを演じ続けろと言うのだ。
その背徳的なミッションに、美羽の泥棒猫としての本能が疼いた。
「……ふふっ。わかりました」
美羽は涙を拭い、パッと顔を上げた。
そこにはもう、怯えた少女の影はない。
あざとく、計算高く、そして最強の後ろ盾を得たアイドルの笑顔があった。
「任せてください、持子さん♡ 私、嘘つくのだけは得意ですから」
「うむ。その意気だ」
持子は頷き、路地裏の出口へと歩き出した。
(ふぅ……なんとか丸め込んだな。これで雪(社長)への言い訳も立つというものだ)
(『優秀な人材を確保するための投資です』と言えば……いや、殴られるな。絶対殴られる)
「さて。昼飯の寿司が消化されたな。おやつにルタオのチーズケーキを食いに行くぞ」
「はいっ! ご一緒しますぅ!」
美羽はスキップで持子の隣に並んだ。
その足取りは軽い。
330万の借金(契約)を背負ったはずなのに、彼女の心はかつてないほど自由だった。
硝子の街・小樽。
美羽の「硝子の仮面」は砕け散り、代わりに魔王という最強の「飼い主」を手に入れた。
そして彼女のポケットには、もう盗んだ小物は入っていない。
代わりに、魔王から注がれた濃厚な魔力が、たっぷりと詰まっていた。
この辺に来るとあまり書き直しが無い。
改行改行




