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『死にたがり狂犬は魔王に飼われる』

✴︎地獄の底で、狂犬は遠吠えをあげる


午後3時の黄昏と、消えた金色の影


10年に一度の大寒波に見舞われた北海道の日没は早い。

時計の針はまだ午後3時を回ったばかりだというのに、登別温泉・地獄谷はすでに深い藍色の闇と、吹き荒れる白雪に閉ざされていた。


「寒い……死ぬ……」


「先生ー、前が見えませーん!」


ホテルへのチェックイン前、クラス全員での地獄谷散策。

だが、地面から噴き出す100度近い源泉の湯気スチームと、空から叩きつける暴風雪が混じり合い、視界は完全なホワイトアウト状態だった。

その最後尾を、魔王・恋問持子は優雅に歩いていた。

完璧なプロポーションを包む高級コートの襟を立て、黄金の瞳で周囲を睥睨する。


(……やれやれ。午後3時でこの暗さか。北の大地は、魔界にも似た過酷さだな)


(だが、この硫黄の香りは悪くない。前世で焼き払った都の残り香に似ておる)


不謹慎な感想を抱きながら、持子は視界の端で揺れる「金色の影」を捉えた。

クラスの列から外れ、立ち入り禁止のロープをくぐり抜けていく小さな影。

獅子戸レオだ。


(……あの馬鹿者が)


持子は舌打ちをした。

周囲の生徒や先生は、寒さに身を縮めて足元ばかり見ており、レオが消えたことに気づいていない。


(放っておけば死ぬな。……チッ、面倒な)


(だが、わしの目の前で獲物をみすみす逃すのも癪だ。あれは「良い食材」の気配がする)


持子は誰にも告げず、音もなく列を離れた。

雪を踏む音すらさせない古武術の歩法で、金色の影を追って、硫黄の臭いが立ち込める闇へと踏み込んだ。



✴︎死へのダイブ


遊歩道の明かりが遠ざかり、完全な闇と白の世界。

そこは、観光客が決して足を踏み入れてはいけない、地獄の喉元だった。


「うっひょー! やっば! 硫黄クセェ! ガチで地獄じゃん!」


レオはスマホ片手に、狂ったようなテンションで岩場を駆けていた。


「みんな見てるー!? レオちゃんねる、命がけの『地獄谷』凸配信! 現在の気温マイナス12度! でも足元は熱湯! サウナと冷凍庫のハーフ&ハーフだぜぇ!」


彼女が目指したのは、谷の最深部にある**『鉄泉池てっせんいけ』**の間欠泉。

数分おきに熱湯を吹き上げる、危険度MAXのスポットだ。

レオは、雪に埋もれた柵を軽々と乗り越え、断崖の突端に立った。

足元は凍結した岩。一歩踏み外せば、煮えたぎる灰色の沼へ真っ逆さまだ。


(あぁ……いいな、これ。真っ白で、何も見えない)


レオの心は、冷え切っていた。

怪我で走れなくなってから、世界はずっと色のない灰色のままだ。

痛みも、恐怖も、喜びも。何も感じない。

自分が精巧にできた人形であるような、薄ら寒い感覚。


(もっと……もっとギリギリまで行かないと。私が消えちゃう)


レオはスマホを構え、崖の縁でステップを踏んだ。


「見てこれ! 落ちたら即・茹で卵! 勇気あるレオちゃんにイイネしてねー!」


その時。

突風が吹き荒れ、足元の氷がピキリと音を立てた。

計算通りのスリップか、それとも無意識の自殺願望か。

レオの身体が、ふわりと宙に浮いた。


「あ」


視界が反転する。

煮えたぎる熱湯の飛沫しぶきが、顔を焼く。


(やっと、終われる――)


恐怖はなかった。あるのは、底なしの安堵だけ。

さようなら、つまらない世界。レオは目を閉じ、重力に身を委ねた。



✴︎見えざるインビジブル・ハンド


ガシッ。


「……え?」


落下が止まった。

足首に、万力のような衝撃。

レオの身体は、地獄の釜の真上で、逆さまに吊り下げられていた。


「……貴様、今、笑ったな?」


地底の王のような、低く、ドスの効いた声が降ってきた。

レオが恐る恐る目を開けると、猛吹雪の向こうに、黄金に光る瞳があった。

恋問持子。

彼女は崖の岩場に仁王立ちし、片手一本でレオの足首を掴んでいた。

猛吹雪で髪が荒れ狂い、美しい顔が無表情に凍りついている。


「ぐっ……!」


持子の美しい顔が一瞬、苦悶に歪んだ。

いくら魔王といえど、現在の肉体は女子高生。

足場の悪い崖下から、片手一本で体重50キロ近いレオを支え続けるのは、物理的に限界があった。

腕の筋肉が悲鳴を上げ、血管が浮き上がる。


(……なまら重いな。命の重さではない、単なる肉の重さだ)


(このままでは、わしの細腕が千切れるか? それとも共倒れか?)


持子は一瞬、手を離すことを考えた。

だが、眼下で揺れるレオの、死んだ魚のような濁った目を見た瞬間、奥底でドス黒い何かが弾けた。


(――否! 許さん!)


(わしの許可なく、勝手に壊れる玩具などあってたまるか!)


「……出ろ」


持子は、腹の底で念じた。

魔王の暴虐なる魔力。その片鱗を、物理法則を無視して解き放つ。


ズズズッ……。

持子の影から、不可視の波動が滲み出した。

それはレオには見えない。

だが、持子の腕に絡みつき、筋肉を補強し、さらに見えざる触手となってレオの身体を支える。


「な、なに……?」


レオは違和感を覚えた。

持子の細い腕一本のはずなのに、なぜか身体全体が「見えない何か」に掴まれているような圧迫感がある。

まるで、巨大な手に握りしめられているような。


「は、離してよ! 滑ったんだよ! 事故だよ!」


レオは空中で暴れた。


「助けてなんて言ってない! どうせ走れないゴミなんだから、ここで死なせてよ!」


「黙れ」


持子は眉一つ動かさず、魔力で強化された腕力を使い、レオを宙吊りにしたままブンブンと振り回した。


「うわあああぁぁっ!? な、何すんの!?」


振り子のように揺さぶられる視界。

熱湯の表面スレスレまで顔が近づき、また引き上げられる。

死のジェットコースター。


「ゴミだと? ふざけるな!」


持子の咆哮が、源泉の轟音をかき消した。


「貴様のその筋肉! そのしなやかな骨格! そしてそのバネ! ……美しいではないか! アスリートとして極限まで磨き上げられた、極上の『肉体』だぞ!」


「は……?」


「それを、こんな泥水で煮込んで台無しにするつもりか!? 食材への冒涜だ! 美食家わしが許さん!」


持子の論点はズレていた。

命の尊さではない。「素材の良さ」を説いているのだ。

だが、その圧倒的な熱量は、レオの冷えた心に直接突き刺さった。


「死にたいのか? スリルが欲しいのか? なら……そんな安っぽい配信で満足するな!」


ズォォォッ!

持子は腕を一気に振り上げ、レオを引き戻した。

そのままレオを雪混じりの岩場に叩きつけ、馬乗りになって制圧した。

ドォン!


「がはっ……!?」


背中には氷のような岩。

上には、魔王の圧倒的な質量と体温。

持子の美しい顔が至近距離に迫る。その手は、レオの首筋に食い込んでいた。



✴︎黒き契約と、支配される悦楽


「ひっ……!」


「どうだ? 苦しいか? 怖いか?」


持子の指が、頸動脈を圧迫する。寸止めの窒息。


「心臓の音を聞け。ドクドクと煩いくらい鳴っておるだろう! ……それが『生』だ!」


視界がチカチカする。酸素が足りない。

目の前の魔王の瞳が、どんなホラー映画よりも、どんな断崖絶壁よりも恐ろしい。

そして――狂おしいほどに、美しい。

レオの中で、何かが壊れ、何かが繋がった。

恐怖が快感へと反転する。


「死に場所を探しているなら、わしの腕の中で果てろ」


持子は首から手を離し、レオの涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった頬を、乱暴に撫でた。

その手つきは、獲物を愛でる捕食者のそれだ。


「今日から貴様の命は、わしが管理する。……地獄へ落ちるのも一緒だ。いいな?」


レオは荒い息を吐きながら、震える手で持子の腕を掴んだ。

その時、レオの唇が自然と動いた。


「……はい……オーナー(飼い主)……」


その言葉が、契約のトリガーだった。

ドクンッ。

レオの視界が、一瞬にして変貌した。

今までただの「吹雪」だと思っていた持子の背後の空間。

そこから、漆黒のモヤが噴き出しているのが見えたのだ。


「え……なに、これ……黒い……?」


それは、持子から溢れ出る膨大な魔力。

先ほどまで見えなかった「魔王の威圧」が、契約によって可視化されたのだ。

黒い霧は、まるで生き物のように蠢き、レオの身体へと絡みついてくる。


「あ……んっ、ぁ……!」


黒い魔力が、レオの皮膚から、血管から、毛穴から侵入してくる。

冷たいはずなのに、マグマのように熱い。

それは、レオの心に空いていた「虚無の穴」を、暴力的なまでの質量で埋め尽くしていく。


「あぁ……すごい……入ってくる……!」


レオの背骨を、電流のような快楽が駆け抜けた。

怖い。

自分の意思が塗り潰されていくのが怖い。

けれど、それ以上に――気持ちいい。


(ああ、この人は魔王様だ)


(逆らえない。逆らわなくていい。私の命も、死ぬタイミングも、全部この人が決めてくれる)


絶対的な支配者に身を委ねる、魂の安らぎ。

それは、かつて走っていた頃のランナーズハイすら凌駕する、凄まじい悦楽だった。


「……ハ、ハハ……。マジかよ……」


レオは、ニタリと歪んだ笑みを浮かべた。瞳孔が開いている。


「アンタ……最高にイカれてる……。熊より、崖より、アンタのほうがヤバい……」


「褒め言葉として受け取っておく」


持子は満足げに頷くと、黒いモヤを霧散させ、レオの襟首を掴んで立たせた。


「契約成立だ。……立て、狂犬。まずはホテルに戻って身体を温めるぞ」


「ういーっす……。あー、腰抜けた。マジ死ぬかと思ったー」


レオはふらつきながらも立ち上がった。

その身体には、もはや魔王の魔力マーキングが深く刻み込まれている。

失っていた「生きる理由」が、支配される悦びによって満たされたのだ。


「ねえねえ、持子パイセン……ううん、持子様」


レオが、熱っぽい瞳で持子を見上げる。


「明日も、明後日も、ずっと私をゾクゾクさせてくれる?」


「善処しよう。……ただし、餌代は高くつくぞ?」


午後3時の闇の中。

地獄谷の湯気が、二人の契約を祝福するように揺らめいていた。

10年に一度の寒気の中、最初の「共犯者」が生まれた瞬間だった。


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