封印された箱を開けたら、魔王の尊厳が死にました
ひどい話だ、
闇が、あった。
代官山の高級マンション。
そのウォークインクローゼットの最奥に、澱んだ、濃密な闇がとぐろを巻いていた。
十一月。
季節は秋から冬へ。衣替えという名の「儀式」が行われる時期であった。
恋問持子は、仁王立ちしていた。
その白磁の如き腕が、うず高く積まれたダンボールの山を、次々と薙ぎ払っていく。
「ぬぅ……。雪のやつめ。衣替えなど、業者に任せればよいものを」
持子は不満げに鼻を鳴らした。
前世は魔王・董卓。栄華を極めた長安の主である。
自らの手で服を畳むなど、本来ありえぬ所業。だが、現世の主君(推し)である立花雪の命令は絶対であった。
『持子さん、自分の服くらい自分で管理してください。あと、変なものが紛れてないかチェックして』
「変なものだと? 愚かな。わしの所有物に、不要なものなど……ん?」
持子の指が、止まった。
クローゼットの最深部。
「プラダ」や「グッチ」の箱に埋もれるようにして、一つだけ、異質なオーラを放つダンボールが鎮座していた。
みかん箱である。
しかも、ガムテープで厳重に目張りされた上から、極太のマジックで、禍々しい文字が殴り書きされていた。
『封印(絶対開けるな)』
「……ほう」
持子の黄金の瞳が、怪しく細められた。
筆跡は、自分のものである。
いや正確には、董卓の魂が覚醒する前――ただの「おバカな女子高生」であった頃の、オリジナル・恋問持子の筆跡だ。
持子は、その箱に手をかざした。
「……見えぬ」
眉間に皺が寄る。
通常、持子の魂と肉体は完全に融合している。
過去の「恋問持子」の記憶は、自分の記憶として――たとえぼんやりとしていても――参照できるはずなのだ。
いつどこで買った服か、どの店が美味かったか、テストの点数が何点だったか(大抵は赤点だが)。
だが、この箱に関しては違った。
意識を向けようとすると、脳内に濃い霧がかかるのだ。
拒絶。
あるいは、本能的な防衛本能。
かつての持子という少女が、「これだけは死んでも思い出したくない」と、魂の最深部に鍵をかけて封印したパンドラの箱。
「……ぬぅ。我が記憶に靄をかけるとは、小癪な」
見えないとなれば、余計に見たくなるのが魔王の性である。
「ええい、ままよ! 開けてみるほかあるまい!」
好奇心という名の獣が、理性の鍵を食い破った。
バリバリバリッ!!
封印のテープが、暴力的に引き裂かれた。
箱が開いた。
むせ返るような、紙とインクの匂い。
そこに詰め込まれていたのは、極めて薄い、B5サイズの冊子の山であった。
「……書物、か?」
持子は、まず一番上にあった一冊を手に取った。
表紙には、美麗なイラストが描かれている。
豪傑な武人と、可憐な美女。
タイトルを見る。
『月下の蝶 ~呂布×貂蟬~』
「ふむ」
持子は頷いた。
「呂布と貂蟬。……まあ、史実通りだな。あの武骨者が小娘に誑かされる、その機微を描いた物語か。悪くない」
魔王は、寛容であった。
かつて自分を裏切った二人だが、今となってはそれも一興。
持子は、次の冊子を手に取った。
『暴虐の愛 ~董卓×貂蟬~』
ドクンッ。
持子の心臓が跳ねた。
表紙には、妖艶な貂蟬と、それに絡みつく巨漢――明らかに董卓が描かれている。
「……おお」
持子の頬が、紅潮した。
「あるではないか。……わしと貂蟬の、愛の記録が!」
ページをめくる。
そこには、史実(記憶)よりも遥かに情熱的で、甘美な二人の姿があった。
魔王・董卓が、貂蟬を力強く抱きしめ、貂蟬もまた、その「強さ」と「孤独」を理解し、身を委ねている。
「うむ、うむ! これぞ正史! 素晴らしい解釈である!」
持子は上機嫌で頷いた。
「そうだ、あやつはわしを憎みながらも、その奥底では愛していたのだ! わしのこの溢れんばかりの『脂』と『包容力』にな!」
自分の前世(董卓)と、自分の現世の容姿(貂蟬に生き写し)が絡み合う図。
それは究極のナルシシズムであり、魔王にとっては至上の癒やしであった。
「素晴らしい。実に尊い。……さて、最後は?」
持子は、箱の底に眠る、一際分厚い冊子を手に取った。
表紙は、黒一色。
そこに、金色の箔押しでタイトルが刻まれている。
『猛獣の檻』
そして、その下に小さく、しかし破壊的な文字列が並んでいた。
【董卓 × 呂布】
「……あ?」
持子の思考が、停止した。
時が、止まった。
董卓。かける。呂布。
父。かける。養子。
豚。かける。ゴキブリ。
「……な、……なんじゃ、これは」
震える手でページをめくる。
衝撃。
核爆発級の、視覚的暴力。
『義父上……ッ!』
漫画の中の呂布が、頬を赤らめ、潤んだ瞳でこちらを見ている。
あの方天画戟を振るい、虎牢関で連合軍を震撼させた鬼神が、内股で、喘いでいる。
『ふん、生意気な倅よ。わしの松明で焼かれたいか』
漫画の中の董卓が、ニタリと笑い、その巨躯を呂布に押し付ける。
「ぶふぅッ!!」
持子の口から、魂が漏れた。
松明ではない。
それは、いちもつ、であった。
ページをめくる手が止まらない。いや、止まれない。
擬音の嵐。
「ズプッ」「ドプッ」「アアンッ」。
男と男。
筋肉と筋肉。
脂と汗。
髭と触角。
宇宙が、そこにあった。
「……ぬ、……ぬぅぅぅぅぅぅッ!!」
持子の脳内で、処理しきれない情報がスパークする。
気持ち悪い。
だが、絵が上手い。
ありえない。
だが、妙な説得力がある。
前世の記憶――呂布の無骨な背中、その汗の臭い、戦場で交わした視線。
それら全てが、この薄い本によって、ピンク色のフィルターで上書き保存されていく。
(わしは……わしは、あやつを、そういう目で見ていたのか……!?)
違う。断じて違う。
だが、この本の中の董卓は、あまりにも幸せそうに、呂布を「征服」している。
最後のページ。
事切れたように眠る呂布の寝顔に、董卓が優しく口づけをするシーン。
『……愛い奴よ』
「ぎゃあああああああああああああッ!!!」
持子の絶叫が、代官山のマンションに響き渡った。
「……あら。随分と楽しそうな悲鳴ですね」
不意に。
闇の底から、冷ややかな声がした。
「ひぃッ!?」
持子は弾かれたように振り返った。
クローゼットの入り口。
腕を組み、氷のような視線で見下ろしているのは、立花雪であった。
東大卒の知性が、眼鏡の奥でサディスティックに光る。
「ゆ、雪……! い、いつからそこに……!」
「あなたが『呂布×貂蟬』でふむふむと頷き、『董卓×貂蟬』を見てニヤニヤして、最後に『董卓×呂布』を見て絶叫する一部始終を見てましたよ、持子さん」
雪は、持子の手から滑り落ちた三冊の本を拾い上げた。
パラリ。
雪の視線が、ページを走る。
ノーマル。
ナルシシズム。
そして、禁断のBL。
「……へぇ」
雪の声は、温度を失っていた。
「随分と……業が深い趣味をしてるんですね」
「ち、違う! わしではない! いや、身体はわしだが、魂は違うのだ! これは過去の遺産で……!」
持子は必死に弁解した。
だが、雪はゆっくりと本を閉じ、不敵な笑みを浮かべて持子に顔を寄せた。
その笑顔は、借金取りよりも、悪魔よりも、恐ろしい「管理者」のそれであった。
「ねえ、持子さん」
雪が、持子の顎を指先で持ち上げる。
「整理しましょうか。あなたは中身が『董卓』。身体は『貂蟬』に瓜二つ。そうおっしゃってましたよね?」
「……う、うむ。左様であるが……」
「で、二冊目の『董卓×貂蟬』……」
雪は、表紙の美女を指差した。
「これを見て、『素晴らしい』って喜んでましたけど……これ
ってつまり、自分(董卓)が、自分(貂蟬の体)を愛でてるってことですよね? 究極のナルシストってことですか?」
「ぐぬっ……! そ、それは……!」
「そして、問題はこの三冊目です」
雪は、黒い表紙の『猛獣の檻』を持子の胸にツンと押し付けた。
「ふふふ、どう、どうなんです?」
「……は?」
「あなた、呂布を、やっちゃいたかったんですか? それとも……もう、やっちゃってたんですか?」
ズガァァァン!!
その言葉は、方天画戟よりも鋭く、持子の精神を貫いた。
「な、なにを……ッ!?」
「だって、あなたは『董卓』なんでしょう? この本に描いてあるの、あなたの深層心理の願望なんじゃないですか? 実は前世で、呂布のこと、そういう目で見てたんじゃないですか?」
雪の瞳が、楽しげに歪む。
「い、いやだ! 違う! あの裏切り者など、わしは……!」
「でも、満更でもない顔して読んでたじゃないですか。『愛い奴よ』って。……やっぱり、愛憎は紙一重ってやつですか? 息子ほど年の離れた部下を、その松明で……」
「やめろぉぉぉぉぉッ!! 言うなぁぁぁぁッ!!」
持子の脳裏に、髭面の自分が、呂布を追い回す映像がフラッシュバックする。
限界であった。
魔王の尊厳も、アイデンティティも、すべてが崩壊した。
「ぶふぅッ……!!」
持子の口から、大量の泡と、魂のエクトプラズムが噴出した。
白目を剥き、痙攣し、その巨体が、ドサリと床に沈む。
気絶。
いや、AO(アセンション・アウト/昇天)に近い、精神的自爆であった。
「……あらあら。図星でしたか? 打たれ弱いですね、魔王様」
雪は、泡を吹いてピクピクしている持子を見下ろし、満足げに微笑んだ。
「……あのぉ。持子さま?」
不意に。
ひょっこりと、クローゼットから顔を出した影があった。
本多鮎である。
主人の断末魔のような悲鳴を聞きつけ、パタパタと駆けつけてきたのだ。
「雪さん……? いったい、何があったんですか?」
鮎は、不思議そうに首を傾げた。
その視線の先には、床で白目を剥いて痙攣している、最愛の主人(持子)。
そして、その横で冷たく微笑む雪。
「な、なにやら……ただならぬ空気ですが……」
鮎が恐る恐る近づいてくる。
「ん? あら、鮎さん」
雪は、手にした「禁断の書」三冊を、パタンと閉じて背後に隠した。
「いえ、なんでもないのよ。ただ持子さんがね……」
雪は眼鏡の位置を直し、床の魔王を見下ろした。
「ちょっと、『昔の男たち』のことを思い出して、興奮しすぎちゃったみたい」
「昔の……男……たち……?」
鮎が、きょとんとした顔で瞬きをした。
「え、ええーっ!? も、持子さまに、そんな殿方が!? しかも複数!?」
「ええ。とっても……『太くて』『強い』絆で結ばれていたみたいよ。松明のように熱い夜を過ごしたとか、過ごさなかったとか」
「そ、そんなぁ……!」
鮎は涙目で、泡を吹く持子にすがりついた。
「持子さま! 起きてください! その男たちとはどういう関係なんですか! 私は聞いてません! 串刺しですか!? それとも……っ!?」
鮎の揺さぶりに、持子の首がガクガクと揺れる。
口からは、まだ「松明……たいまつ……」という譫言が漏れていた。
闇が、あった。
クローゼットの奥深く。
誤解と、トラウマと、腐りきった性癖が渦巻く中。
立花雪だけが、勝利者の笑みを浮かべていた。
これは改行だけで済んだ




