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聖ミカエル学園祭・狂騒曲――魔王の収穫祭と、修羅の純情

聖ミカエル学園祭・狂騒曲

~魔王の「収穫祭ハーベスト」と、修羅の純情~


✴︎闇の底の玉座、あるいは絶対的支配


闇があった。

むせ返るような、甘い脂の匂いと、若き獣たちが無自覚に垂れ流すフェロモンの闇である。

十月。私立聖ミカエル学園。

芸能科を擁するこの特別な学園の文化祭は、ただの牧歌的な祭りではない。それは、美貌と才能という名の凶器を持った若き猛獣たちが、己の存在証明とプライドをかけて練り歩く、華麗にして残酷な巨大な「狩り場」であった。

そしてその狩り場の頂点に、一人の魔王が君臨していた。


恋問持子こいとい もちこ

身長百七十五センチメートル。透き通るような白磁の肌に、すべてを見透かす黄金の瞳。その内側に、三国志の暴君・董卓の魂と、ブラックホールのごとき底なしの胃袋を宿した、現役女子高生モデルである。


「……ぬ。遅い」


二年A組の教室。そこはシックな黒と白の装飾で統一され、洗練された英国貴族の館を模した『ロイヤル・バトラー&メイドカフェ・忠誠ロイヤリティ』と化していた。

その最奥。教卓を無造作に積み上げ、真紅のベルベットの布で飾り立てた特等席――「玉座」だけが、教室の中で異質な重圧プレッシャーを放っていた。

持子は、そこに深く腰掛けていた。

身に纏うのはメイド服。だが、それは決して他者に奉仕するための安易な代物ではない。胸元が扇情的に大きく開き、スカートには脚線美を露わにする深いスリットが入った、彼女のための特注品「女帝メイド服」である。


黒のガーターベルトが食い込む滑らかな太ももを優雅に組み、持子は気だるげに扇子を揺らした。


「……おい、そこの執事クラスメイト。紅茶だ」


持子が、扇子の先で一人の男子生徒を指し示す。


「は、はいっ! ただいま!!」


弾かれたように動いたのは、クラスでも一、二を争うヤンチャ男子・吉田であった。普段であれば「モデル気取りが」と持子に憎まれ口を叩く彼だが、今日ばかりは様子が違った。持子の全身から放たれる圧倒的な「支配者のオーラ」の前に、彼の貧弱な反抗心など完全に圧殺され、思考回路はとうにショートしていた。


「お、お持ちしました、お嬢様ッ!」


吉田が、小刻みに震える両手でボーンチャイナのティーカップを差し出す。


「……ぬ。貴様、手が震えているぞ」


持子はカップを受け取らず、白魚のような指で吉田の手首をガシッ、と無造作に掴んだ。


「ひっ!?」


「脈が速い。……興奮しているのか? このわしに仕えることが、それほど嬉しいか」


持子の黄金の瞳が、吉田の魂の奥底まで射抜くように細められる。


「う、うっす! ……いや、その、なんかスゲェっす! マジで、その……!」


圧倒的な美と暴力的なカリスマの前に、吉田の語彙力は完全に死滅していた。

持子はニヤリと口角を上げると、吉田の手首を掴んだまま、強引に自らの口元へとティーカップを運ばせた。


ズズッ。

静かな教室に、わざと音を立てて紅茶を啜る音が響く。


「……ぬるい。だが、貴様のその無様な熱意に免じて、特別に許してやろう」


持子は吉田の手をふいと離すと、カップに添えられていた彼の指先を、ちろりと赤い舌で舐め上げた。


「あ……ッ!?」


吉田の顔が、一瞬にして湯沸かし器のように限界まで沸騰する。


「褒美だ。……下がれ」


「あざーっす!! 俺、一生ついていきますッ!!」


顔面を真っ赤に染め上げた吉田は、もはや自分が何を言っているのかもわからぬまま、千鳥足でフラフラと去っていった。教室内は、魔王による絶対的な支配と、それに傅く喜びに満ちていた。

そこへ。


「あらあら。随分と楽しそうね、恋問さん」


凛とした声が、教室の空気を切り裂いた。

人垣が自然と割れる。現れたのは、三年生の制服を完璧なプロポーションで着こなした、小柄な美少女であった。

本多鮎ほんだ あゆ

かつての大手芸能事務所のトップモデルにして、現在は持子と同じ弱小事務所「スノー」に所属する先輩。その実態は、持子を絶対神と崇め奉る狂信的な「忠犬」である。

だが、ここは公衆の面前。プロフェッショナルである鮎は、完璧な「厳しくも頼れる美しい先輩」の仮面を顔面に張り付けていた。


「サボってないで、ちゃんと働きなさいよ。後輩」


鮎が腕を組み、冷ややかな視線で持子を見下ろす。


「……ふん。来てやったか、鮎」


持子は玉座から一歩も動かない。二人の視線が交錯し、バチバチとした青白い火花が散る――周囲の生徒たちには、そう見えていた。


(……ああっ! 持子さま! そのメイド服! その絶対領域! なんと尊い! 今すぐその足元に這いつくばって靴を舐め回し、私を、私を徹底的に虐げてくださいぃッ!)


だが、鮎の内面は、激しい嫉妬と異常な信仰心でドロドロのマグマのように溶け落ちていた。


(……ぬ。こやつ、目が完全にイッておるな。また発情期か。世話の焼ける犬だ)


持子は、鮎の僅かな呼吸の乱れから、その隠された情欲を冷ややかに見抜いていた。


「先輩風を吹かすのは良いが、鮎よ。……貴様、少し肩が凝っているのではないか?」


「え?」


持子が、スゥッと音もなく玉座から立ち上がった。

百七十五センチの巨躯が、小柄な鮎の身体に覆いかぶさるように影を落とす。


「わしが……直々に揉んでやろう」


「ちょ、こいと……ひゃうッ!?」


鮎が抗議の声を上げる間も与えず、持子の長い指が鮎の肩、僧帽筋の急所へと深く、容赦なく突き刺さった。

ドクンッ。

――魔力注入。

持子の丹田の奥底でドロドロに練り上げられた、黒く、重く、そして絶望的に甘美な「気」が、指先を通じて鮎の体内へと強引にねじ込まれる。


「あ、あぐッ……❤ こ、ここでは……ダメ……変な声が……出ちゃうッ!」


鮎の膝がガクガクと震え、立っていることすらままならなくなる。

表向きは、先輩思いの後輩によるマッサージ。だが、その実態は、魂に刻まれた主従の契約パスを通じた、極めて濃厚で暴力的な魔力の補給(給油)であった。


「くく……。良い声で鳴くではないか、偉大なる先輩?」


持子は、鮎の敏感な耳元に唇を寄せ、毒のように囁いた。

鮎は顔を限界まで真っ赤に染め上げ、潤んだ瞳で持子を上目遣いに睨み(見つめ)ながら、蚊の鳴くような小声で喘いだ。


「……あとで……体育館裏で……絶対に、倍にして返してくださいね……ご主人様……❤」



✴︎回廊の捕食者と、白き浄化の光


メイドカフェでの業務(という名の支配)を早々に切り上げた持子は、「学園の視察」と称して喧騒に包まれる廊下へと繰り出した。

目的は一つ――新鮮な獲物である。

普段、モデルの仕事と赤点回避の補習に追われ、同年代のクラスメイトと交流する時間が極端に少ない持子にとって、何千人もの若者が集う今日の文化祭は、文字通りの絶好の「収穫祭ハーベスト」であった。


「――あっ、恋問さん! お疲れ様!」


人混みの中から声をかけてきたのは、図書委員を務める真面目で大人しい女子生徒、佐々木であった。彼女の腕には、大量のパンフレットが抱えられている。


「うむ。精が出るな、佐々木」


持子はすれ違いざま、逃げ道を塞ぐように佐々木の身体をふわりと抱き寄せた。壁ドンならぬ、歩行中の強制的な抱擁ハグによる捕獲である。


「えっ、きゃっ!? こ、恋問さん!? ここ廊下だよ!? みんな見てるし!」


「じっとしておれ。……顔色が悪いぞ。少し、わしの元気を分けてやろう」


(……いただくぞ。若き乙女の、無自覚に純粋培養された生気オドをな……!)


持子の背中から、常人の目には決して視認できない『黒い霧の触手』が無数に伸びた。

それは軟体動物のように滑らかにうねり、佐々木の制服の隙間、うなじから背中へと這うように滑り込む。


ゾワリ。

物理的な接触ではない、霊的な愛撫。

冷たい霧の手は、佐々木の脊髄に沿って這い上がり、彼女の肉体に蓄積された「疲労」と、若さゆえに持て余している「余剰エネルギー」を、極太のストローで吸うように一気にすすり上げた。


チュルルルルル……ッ。


「んっ、あ……あぁ……ッ❤」


佐々木の口から、本人も予期せぬほど甘く、だらしない吐息が漏れた。

急激なエネルギーの喪失と、それに伴う奇妙な快感によって全身の力が抜け、彼女の膝が力なく崩れ落ちる。


「ふふ……。無防備で、素直な身体だ」


持子は佐々木を抱きとめたまま、その薄い耳たぶを甘噛みした。


――魔力充填率、120パーセント。

持子は満ち足りた表情を浮かべると、完全に腰が抜けてしまった佐々木を、廊下の端にある木製のベンチへと優しく寝かせた。


「……うむ。良い夢を見るがよい」


魔王は踵を返し、唇の端を艶やかに吊り上げて、再び喧騒の中へと姿を消した。

廊下のベンチに、骨抜きにされた佐々木だけが残された。


そこへ。

音もなく、一人の少女が現れた。

騒がしい人混みの中にありながら、彼女の周囲だけ空気がシンと澄み切っているかのような、異様な透明感を纏った美少女である。

少女は、ベンチで荒い息を吐きながら眠る佐々木の前に静かに立ち止まった。


「……けがらわしい」


少女は、冷たい氷の鈴を鳴らすような声でぽつりと呟いた。

そして、佐々木の脂汗の滲む額に、白く華奢な指先をそっと当てる。


「――はらえ」

閃光。

一瞬、少女の指先から、清冽な青白い光が弾け飛んだ。

シュウウウッ……。

佐々木の身体の奥底まで蝕み、絡みついていた持子の黒い魔力が、昇る朝日に焼かれる霜のように、悲鳴を上げて霧散していく。


「……ん、あれ?」


佐々木が、パチリと目を覚ました。

鉛のように重かった身体が、羽のように軽い。


「私……いつの間にか寝てた? なんだか、マッサージにでも行ったみたいにすごくスッキリしたかも……」


佐々木は不思議そうに首を傾げながらも元気よく立ち上がり、再びパンフレット配りの業務へと戻っていった。

少女は、去っていく佐々木を見送ろうとはしなかった。

彼女の鋭い視線は、廊下のずっと向こう、人混みをモーゼの海のように割って悠然と歩く、背の高い黒髪の女――恋問持子の背中にのみ釘付けになっていた。


「……見つけた。あいつが、元凶」


少女の瞳に、深い敵意とも、警戒ともつかぬ、鋭利な刃物のような光が宿る。

そこへ。


「はぁ、はぁッ! 匂う……! 匂いますよぉッ! 持子さまの芳醇な残り香がッ!」


ドタバタと、恥も外聞もない騒がしい足音が近づいてきた。本多鮎である。


「この濃厚でえっちな匂い! さっきここで、私以外の泥棒猫に魔力を注入しましたね、持子さまぁッ! ズルい! ズルいです! 私という公認の忠犬がありながらッ!」


鼻の頭を犬のようにヒクつかせながら、鮎は少女の横を疾風のごとく駆け抜けていった。

少女は、遠ざかる鮎の背中もまた、静寂の目で見つめていた。


「……あっちも、相当深く憑かれている。……いや、自ら望んで染まっているのか。……業が深いな」

少女は、ふう、と小さく、しかし重い息を吐いた。

「……私の『仕事』が、増えそうだ」



✴︎演武・修羅の舞(あるいは、人としての矜持)


午後。

祭りの喧騒から少し離れた、学園のメインアリーナ(体育館)。そこは今、異様な殺気に完全に支配されていた。

照明が落とされ、深い暗闇に包まれた空間の中、三本のスポットライトが天から降り注ぐ柱のように立ち上る。


「合気武道同好会、演武ッ!!」


怒号。

それはマイクを通したものではない。丹田から絞り出された生身の咆哮が、広大な体育館の空気をビリビリと震わせた。

光の中に現れたのは、純白の道着に身を包んだ、異形の者たち。

百キロを超える質量を筋肉の鎧で覆う巨漢・岩田剛毅。

研ぎ澄まされたカミソリのように鋭い細身の刃・森盛夫。

そして、無機質なまでに正確な技術を持つ鋼鉄の女・千手美貴。

通称「三つの岩」と呼ばれる、怪物たちである。

そして、その中央に君臨するのは、魔王を自称する少女、恋問持子であった。

持子は、深く、長く息を吐き出した。

午前中、校内で乙女たちからたっぷりと「収穫」してきた生気。今、彼女の体内には、山をも吹き飛ばせそうなほどの沸き立つ万能感が渦巻いている。

しかし、持子はその魔力回路を、己の意志で強引に閉ざした。

有り余る力を丹田の奥底へと沈め、何重もの鋼鉄の扉で完全に封印する。

魔力による身体能力のブーストは、一切なし。

骨格の強化も、反射神経の加速もなし。

ここにあるのは、ただのひょろ長い女子高生としての脆弱な肉体と、師から骨の髄まで叩き込まれた合気武道の「理合りあい」のみ。


その裸の技術だけで、この怪物たちと真っ向から向き合う。

それこそが、持子なりの「魔王としての矜持」であり、同じ道を歩む師や友への、嘘偽りのない最大限の礼儀であった。


「始めッ!!」


裂帛の気合いとともに、いちの太刀が動いた。

森盛夫である。

彼は蛇のような、いや、それ以上の這うような速さで動いた。

観客の視界からフッと消えるほどの速度で持子の死角である背後へ回り込み、その細い手首を極めにかかる。

だが。

自らの指先が持子の手首に触れた瞬間、森は全身の産毛が逆立つような戦慄を覚えた。

(……なんだ、これは!?)

いつも持子と組み合う時に感じる、見えない壁のような圧倒的な圧力(魔力)が、今日は微塵もない。そこにあるのは、温かく、柔らかく、そして脆い、ただの人間の皮膚と筋肉だけだった。

(馬鹿な、手を抜いているのか!?)

森が怒りとともに力を込め、手首をへし折らんとした刹那。

持子は、皮膚の表面のわずかな摩擦だけを利用する「合気」の技術によって、森が込めた力のベクトルを、ふっと虚空へと受け流した。


「……森よ。相変わらず見事な速さだ。だが、獲物を仕留めようとする『殺気』が先行しすぎている」


脳髄に直接響くような持子の静かな声。

持子は一切の筋力を使わなかった。突進してきた森の勢いを一ミリも殺さず、ただ自身の身体を軸にして、円を描くように導いただけだ。

たったそれだけの動作で、森の身体は重力を失った木の葉のように宙を舞い、為す術もなく畳の端へと吹き飛ばされていった。


肩落かたおとしッ!」


ダンッ! と派手な受け身の音が響く。

(……なんて恐ろしいほど繊細な技術だ……! 血の滲むような、狂気の修練の結晶だッ!)

森は畳の上で受け身を取りながら、歓喜の武者震いを抑えきれなかった。


✴︎の太刀。

気配が、より鋭利なものへと変わった。千手美貴である。

小柄な彼女が、森が吹き飛んで生じた一瞬の死角から、撃ち出された弾丸のように飛び込んできた。

狙いは、急所中の急所――目。

一切の躊躇のない、眼球への指突き(サミング)。

だが、持子は瞬き一つしなかった。

相手の動作の「起こり」、微細な呼吸のリズム、筋肉が収縮する音。そのすべてを、「観の目」と呼ばれる全体を見渡す視座で完全に読み切っていたのだ。


「……千手ッ!!」


持子の手刀が、顔面スレスレで千手の突きを弾き落とす。

その手刀に触れた瞬間、千手の脳裏にも、電流のような理解が貫いた。


(この泥臭い感触……! 本当はこんなにも真っ直ぐで、不器用な『武人の芯』を持ってるじゃない……!)


打撃の交差から、流れるような回転へ。

千手の身体は、持子を中心とした竜巻のような円運動の渦に完全に巻き込まれる。


「四方投げッ!」


千手の身体が空中で美しい放物線を描き、激しい破裂音とともに畳へと叩きつけられた。


✴︎そして、さんの太刀。


「次は俺だァァァッ!!」


咆哮とともに、百キロを超える巨体の岩田が、戦車のごとき絶望的な勢いで正面から突進してくる。

小細工など一切ない、純粋な暴力としてのタックル。

持子は、いつも浮かべている不敵な笑みを消し、真顔であった。

へその下の丹田に、己の全意識、全存在を集中させる。

物理法則が支配するこの重力の海の中で、一人の「人」として、この圧倒的な質量を受け止めねばならない。


(……来い、岩田。貴様のその重さ……「人」として、正面から受け止めてやる!)


持子は、一歩も退かなかった。

逃げるどころか、逆に岩田の懐、衝突のゼロ距離へと「入身いりみ」で鋭く踏み込んだ。


ドスゥゥゥッ……!


鈍く、重い衝撃音がアリーナに響く。

だが、岩田は違和感に目を見開いた。巨大な綿の壁に突っ込んだような錯覚。押すことも、引くこともできない。持子の身体が、岩田の重心と完全に同化し、その運動エネルギーを飲み込んでしまったのだ。

次の瞬間、持子の身体がその場で極限まで縮こまり、そして爆発的に膨張した。


「切返しッ!」


「ぬんッ!!」


持子が、肺の奥底から呼気を吐き出しながら、天を突くように腕を振り上げる。

その瞬間、百キロの巨体が、ふわりと重力を失って宙に浮いた。

完璧なタイミング、骨格の崩し、そしてミリ単位の重心移動が生み出した、極めて論理的な「物理の奇跡」であった。

空中で、岩田は見た。

自分を見上げる持子の顔を。

滝のように汗を流し、極限の負荷で顔は紅潮し、細い四肢は悲鳴を上げている。だが、その苦悶に満ちた表情は、岩田の目には、この世のどんな芸術作品よりも美しく映った。


ズドォォォォォォォォォォンッ!!!!


轟音。文字通り、地球が揺れたかのような衝撃で岩田の背中が畳に叩きつけられ、アリーナの床板がミシミシと悲鳴を上げた。

静寂が訪れた。

三つの岩が、畳の上で呼吸を荒らげて沈黙している。

中央に立つ持子の肩は大きく上下し、酷使した膝はガクガクと笑っていた。だが、彼女の胸の奥底からこみ上げてくるのは、疲労を遥かに凌駕する、焼けるような充足感だった。

持子は、乱れた道着の襟をゆっくりと正し、畳の中央に静かに正座した。

そこには、他者を見下す魔王の傲慢さは欠片もない。あるのは、同じ武の道を歩み、己をここまで鍛え上げてくれた者たちへの、偽りのない深い敬意だけだった。


「岩田。森。千手」


持子が静かに名を呼ぶ。

三人は、激痛の走る体を無理やり起こし、這うようにして持子に向き直り、正座した。

言葉など、もはや必要なかった。

交えた拳と、流した汗と、骨の軋む痛みだけが、彼らの間で全てを語っていた。


――お前たちがいたから、わしは「人」として強くなれた。


――お前がいたから、俺たちは誰も到達できない高みを見ることができた。


ただ武を志す若者たちの間に、狂おしいほどの情熱の火花がスパークしていた。

持子は、両手を深く畳についた。

額が畳に触れるほど、深く、深く。


座礼。


顔を上げた彼女の黄金の瞳は、これまでにないほど澄み切った、純粋な感謝の念で満ち溢れていた。


「――感謝」


短く、重いその一言が、広大な体育館の隅々にまで染み渡る。

岩田がくしゃくしゃの顔で笑い、森が天井を見上げて息を吐き、千手が潤んだ瞳のまま、それぞれが深く頭を下げた。


直後。

観客席から、堰を切ったように、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。



✴︎冷たい夜風と、隠された修羅


夕闇が空を侵食し、後夜祭のキャンプファイヤーが赤々と点火されようとしていた頃。

祭りの喧騒から遠く離れた、薄暗い校舎の裏手。

持子たちの所属する芸能事務所「スノー」の社長兼敏腕マネージャー・立花雪たちばな ゆきは、冷たいコンクリートの壁に寄りかかり、静かに夜空を見上げていた。

手には、すっかり冷めきった缶コーヒー。


「――立花雪さん、ですよね」


不意に。

背後から声がした。

雪がゆっくりと視線を向けると、そこには一人の少女が立っていた。

昼間、廊下で佐々木を祓った、あの異様な透明感を纏った美少女である。

雪は、長年の業界生活で培った、いつもの「人の良さそうなマネージャー」の快活な笑顔を作ろうとした。

だが、少女が次に発した言葉が、その仮面を一瞬にして凍りつかせた。


「……『風間』の者です」


ピタリ。

雪の呼吸が、脈拍が、一切の動作が止まった。

張り付いていた営業スマイルが、剥がれ落ちる。

東大卒の才女の顔でも、タレントに振り回される苦労性のマネージャーの顔でもない。

能面のような、底知れぬ絶対的な静寂が、雪の美しい顔立ちを支配した。

雪は、何も言わず、ただ一度だけ小さく頷いた。


「あの魔神(持子)と、それに憑かれている魔人(鮎)について、お話があります。これ以上の野放しは、世界の理に反する」


少女は、感情の読めない淡々とした口調で告げた。その瞳は、雪という人間の奥底に潜むモノを見透かそうと、静かに探りを入れている。


「……分かったわ」


雪の声は、先ほどまでの彼女とは別人のように低く、そして絶対零度のごとく冷たかった。


「後日、そちらの指定する場所へ行く。……話は、その時にしましょう」


少女は、小さく頷いた。用件は済んだとばかりに、音もなく踵を返して闇の中へ去ろうとする。

その無防備な背中に向けて、雪がぽつりと言った。


「――坊や(ボウヤ)に、宜しく言っておいてね」


少女の足が、ピタリと止まる。

その瞬間だった。

ゴオォォォォォォッ!!

雪の全身から、空間を歪ませるほどの凄まじい「圧」が爆発的に噴出した。


――殺気。


それは、凄みだとか威圧感といったチャチな比喩表現ではない。肌を直接切り裂き、内臓を鷲掴みにするような、純粋で鋭利な「死の予感」の具現化であった。

一介の芸能事務所のマネージャーが放つものでは断じてない。幾多の修羅場を潜り抜け、自らの手で命を散らしてきた本物のバケモノだけが持つ、濃密な殺気。


「ッ!?」


少女が、弾かれたように後方へと退き飛んだ。

ザッ!

数メートルの距離を一瞬で取り、極限の緊張状態で身構える。常に冷静沈着であったその白い顔には、初めて明らかな驚愕と戦慄の色が浮かんでいた。

一瞬の、永遠にも似た静寂。

雪は、ふっと憑き物が落ちたように殺気を霧散させると、いつもの困ったような、人の良さそうな笑顔に戻っていた。


「……あら、ごめんなさい。ちょっとした冗談よ。気にしないで」


雪は、カラカラと笑いながら冷たい缶コーヒーを一口飲んだ。

少女は、額に冷や汗を浮かべながらしばらく雪を凝視していたが、やがて、強敵を見つけた獣のように楽しそうに口元を歪めた。


「……なるほど。そういうことですか」


少女はクスクスと笑い声を残し、今度こそ完全に闇の中へと溶けて消えていった。

残された雪は、空になった缶コーヒーをゴミ箱へ放り投げ、深い、深い溜息をついた。


「……やれやれ。うちのモデルたちのせいで、また胃薬の消費量が増えそうね」



✴︎祭りのあと、あるいは魔王の果てなき食欲


後夜祭。

巨大な炎が天を焦がすように燃え上がるグラウンドの片隅。

持子は、屋台エリアのベンチを二つ占領して座り込んでいた。

その目の前には、焼きそば、たこ焼き、クレープ、チョコバナナ、りんご飴、イカ焼き……文化祭で販売されているありとあらゆるジャンクフードが、エジプトのピラミッドのように高く積まれている。


「……はぐ、むぐ、んんッ。美味い! 娑婆の飯は格別よのう!」


演武で魔力を使い果たしたわけではない。だが、純粋な肉体の極限の酷使は、魔王にかつてないほど心地の良い、ブラックホールのような空腹をもたらしていた。


「……おーい、持子さーん。探したわよ」


雪が現れた。先ほど裏庭で放った致死量の殺気など微塵も感じさせない、いつもの「タレントに振り回される可哀想なマネージャー」の顔で。


「おお、雪か。遅かったではないか。貴様の分の焼きそばも残してあるぞ」


持子は、口の周りにソースと青のりをべったりとつけたまま、豪快に笑った。


「はいはい、ありがとう。……ほら、顔、汚れてるわよ」


雪は苦笑しながら、持子の口元を自らのハンカチで丁寧に拭ってやった。


「……雪さん、持子ぉ!」


そこへ、鮎もドタバタと走り込んできた。

その両腕には、追加の特大フランクフルト五本と、山盛りの唐揚げパックが抱えられている。


「残ってた屋台の肉、全部買い占めてきましたよ! さあ、遠慮なく召し上がれ。……先輩からの、愛の奢りです」


鮎は、完璧なアイドルの笑顔で差し出した。

だが、その潤んだ瞳が「さあ、私の獲ってきた獲物を食べて! そして私を褒めて! 撫でて! 踏んで!」と激しく訴えかけているのを、持子は見逃さなかった。


「……うむ。でかしたぞ、我が忠犬・鮎よ」


持子は、特大フランクフルトに猛然と食らいつきながら、空いた片手で鮎の頭をワシャワシャと乱暴に撫で回した。


「はふぅン……❤ あぁっ、持子さまの手、油でギトギトですぅ……最高ぉ……ッ」


鮎が、人目もはばからず、骨抜きにされたような甘い声を漏らして身をよじる。


「ちょ、鮎! あんた先輩キャラの設定どこ行ったのよ! ただの変態じゃない!」


雪が的確なツッコミを入れるが、もはや狂信者には馬耳東風である。

燃え盛るキャンプファイヤーの炎に照らされた三人の影が、グラウンドに長く、長く伸びていく。

その影の先には、まだ見ぬ「風間」の少女という新たな嵐の予感が確実に混じっていたが――目の前の食欲と忠誠心(という名の性癖)に支配された魔王たちは、まだそれを知る由もなかった。


十月。私立聖ミカエル学園祭。

それは、魔王・恋問持子が、その圧倒的な美貌と暴力的な技術、そして底なしの食欲によって、学園を文字通り完全に「掌握」した、記念すべき狂騒の一日となったのである。


「……で、雪よ。この後打ち上げで行く予定の焼肉だが」


「まだ食う気かアンタはァァァッ!!」


雪の悲鳴にも似たツッコミが、秋の夜空に虚しく響き渡った。


めちゃくちゃ書き直ししました。

もう18時になるよ。

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