代官山、黄金の脂とニンニクの呪
闇があった。
むせ返るような、豚の脂と、煮詰められた醤油の匂い。
そこは美食の迷宮ではない。
戦う「肉」たちが、己の胃袋という名の限界に挑むための、肉体の神殿であった。
雪はいない。
鮎もいない。
合気武道の稽古を終えた、恋問持子の肉体。
その内部で、かつての暴君・董卓の魂が、餓えた獣のように唸りを上げていた。
枯渇している。
燃料が。
細胞の一つ一つが、暴力的なまでの熱量を渇望しているのだ。
金はない。
だが、腹は減っている。
彷徨い歩く持子の網膜を、夜の闇を裂くようにして黄色い閃光が焼いた。
看板。
そこに躍る、太く、黒い文字。
「ラーメン二郎」
持子は、足を止めた。
口元が、わずかに歪む。
「……ぬぅ」
✴︎麺の関門
暖簾を潜る。
瞬間、空気が変わった。
重力が増したようであった。
ここは、モデルが歩く華やかなランウェイではない。
ましてや、魔王が優雅に君臨する玉座でもない。
ただ、ひたすらに「喰らう」という生存本能に特化した、殺伐とした修練場。
話し声はない。
聞こえるのは、ただ、音。
ズズッ。
ズブ、ズブブッ。
ヌチャ。
極太の麺を引き摺り出し、咀嚼し、嚥下する、湿った音。
そして、天地を揺るがすようなザルの中の湯切りの音。
ッ、シャアッ!!
「……」
持子が、店員に声をかけようとした。
その刹那。
「食券だ」
短く、低く、そして鋼のように強い声。
店員の眼は、持子の白磁のごとき美貌など見てはいない。
ただ、一人の「客」という名の「消化器官」を、冷徹に品定めしている眼だ。
持子は、その威圧感に気圧されることはない。
むしろ、楽しげでさえあった。
千円札を食券機に叩き込む。
バチンッ!
✴︎マシマシの呪
カウンターに座る。
隣の男たちの肩が触れ合う。
熱気。
体臭。
そして、豚臭。
普段なら、この魔王の「覇気」に恐れをなすはずの屈強な男たちが、今は脇目も振らず、眼前の丼という名の小宇宙と格闘している。
直後、死刑宣告のような問いが飛んできた。
「……ニンニク、入れますか?」
店員の目は、真剣で斬りかかる武芸者のそれだ。
斬るか。
斬られるか。
持子の喉が鳴った。
ゴクリ。
本能的に、己の中の「魔王」が鎌首をもたげる。
「全……全部だ。全部入れろッ!」
刹那――。
ドンッ!!
供されたのは、山であった。
クタりとした野菜の連峰。
その頂から、雪崩のように崩れ落ちる背脂の白濁した濁流。
そして、暴力的なまでに厚切りにされた「豚」の塊が、鈍い光を放って鎮座している。
芳香。
持子の鼻腔を、強烈なニンニクの臭気が蹂躙した。
「……良い」
✴︎胃壁の格闘
持子は、割り箸を割った。
パキィッ!
まずは、野菜という名の障壁を崩す。
アブラを絡めたモヤシを口に運ぶ。
咀嚼。
シャク、シャク、ジュワァ……
「……ぬ、濃い。醤油の棘が、直接脳髄を叩きおる……!」
箸を丼の底へと深く突き刺す。
重い。
岩盤を持ち上げるがごとき重量感。
手首を返し、天地を覆す――「天地返し」。
ボフッ。
湯気とともに底から現れたのは、麺ではない。
うどんのように太く、暴君のように硬い、小麦の「質量」。
「……ぬぅ……ッ! なまら、重い……ッ!」
ズズッ!
ズズズゥッ!!
啜る。
麺が、暴れる蛇のように唇を叩き、口内へと侵入する。
持子の腹筋が、その衝撃を逃がすように硬直する。
油。
ニンニク。
化学調味料。
それらが三位一体となり、持子の細胞、そのミトコンドリアの一つ一つに、強引に「栄養」という名の暴力を叩き込んでいく。
汗が、真珠のような粒となって額から吹き出す。
化粧が崩れる。
モデル・恋問持子の仮面が剥がれ落ちる。
そこにいるのは、一人の「飢えた獣」。
「……美味い。……そして、なまら、なまら臭いッ!」
豚を喰らう。
それは肉ではない。煮込まれた意志の塊だ。
ガブリ。
ジュワッ。
噛みしめるたびに、繊維の中から凶暴なまでの塩分と脂が溢れ出し、喉を焼く。
嚥下。
ゴクリ。
音が鳴るたびに、持子の内側に、新たな「魔力」の種が植え付けられていく。
胃袋が熱い。
内臓が、歓喜の悲鳴を上げている。
✴︎完食という名の勝利
格闘。
それはまさに、丼との死闘であった。
食べても食べても、底から湧き出してくるような極太の麺。
隣の男が、無言で席を立つ。
また一人。
敗者は去り、勝者だけが残る。
最後の一口。
持子は、丼の縁を両手で掴んだ。
残ったスープ――それは、豚のエキスと脂、そしてニンニクが溶け合った、魔女の薬。
黄金の液体。
「……ぬ、ぅ、んッ!!」
ゴクッ。
ゴク、ゴク、ゴクッ。
喉が鳴る。
食道が波打つ。
一滴残らず、飲み干した。
ガツンッ。
空になった丼を、カウンターの上に置く。
静寂。
ふと気づけば、厨房の店員が、周りの客が、わずかに口角を上げていた。
敬意。
戦士に対する、無言の賞賛。
「ごっそさん……」
持子が立ち上がったとき、その胃袋は、かつてないほど「重く」、そして「満ちて」いた。
歩くたびに、腹の底で黄金の脂がチャプンと跳ねる。
だが、その不快感さえも、今は心地よい。
✴︎覇王の帰還
店を出る。
冷たい夜風が火照った体に心地よい。
だが、口内から放たれるニンニクの異臭は、もはや魔王の覇気さえも凌駕していた。
周囲の空間が、物理的に歪んで見えるほどだ。
「……ぬ。……これは、明日、雪と鮎には近寄れぬな」
持子は、満足げに自らの腹をさすった。
安くて。
多くて。
そして、暴力的に美味い。
明日、道場へ行くための、そして更なる覇道を突き進むための「魔力の種」は、今、この一杯によって完璧に補填されたのだ。
闇があった。
代官山の街に漂う、濃厚なニンニクの残臭。
恋問持子は、重厚な――あまりにも重厚な足取りで、夜の街へと消えていった。




