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合気の階梯、あるいは九十九キロの呪縛

合気武道編


一段絡 そして書き直し

 終わった。


 稽古が、終わったのである。


 はぁっ……! はぁっ……!


 荒々しいわしの呼気が、静まり返った道場に響き渡っている。


 三人の「岩」と呼ばれる屈強な先輩部員たちは、とっくに帰路についていた。奴らを相手に限界以上の稽古を行い、幾度となく畳の味を舐めさせられたわし、恋問持子こいとい・もちこは、まるで使い古された雑巾のように床へへたり込んでいた。


 全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げている。

 骨の髄まで、ギシギシと軋んでいる。

 道着は汗で重く張り付き、指先一本すら自力で動かすのが億劫なほどだ。


 だが――


 不快ではない。不快であるものか。


(……悪くない。いや、むしろ心地よいとすら言えるぞ……)


 かつて魔王として君臨していたわしであれば、ただの「疲労」など屈辱以外の何物でもなかっただろう。無尽蔵の魔力で他者を圧倒し、汗をかくことすら忘れていた日々。


 だが、今は違う。


 極限まで己の肉体を使い果たし、限界の底を削り、その先にある「何か」を掴もうともがくこの時間は、今のわしにとって何にも代えがたい至福であった。


 ――ふと。


 わしの視界を覆うように、ぬるりと、一つの影が落ちた。

「お疲れ様。よく頑張ったね、恋問さん」


「っ……!?」


 弾かれたように顔を上げる。

 そこには、この合気武道部の顧問を務める教師、影安かげやすが立っていた。

 歩いてきた気配など、微塵もなかった。

 呼吸音も、衣擦れの音すらも。

 まるで最初からそこに生えていた幽霊のように、この男は唐突にわしの頭上に現れたのだ。


「……影安、か」


 荒い息を吐きながら、わしは濡れた黄金の瞳で男を見上げた。

 影安は、どこにでもいる温厚な教師の顔をしている。春の小川のように穏やかな声色だ。だが、その瞳の奥には、決して動かぬ巨石が沈んでいるような、底知れぬ凄みが潜んでいる。魔王であったわしの直感が、こいつはただ者ではないと常に警鐘を鳴らしていた。


「……聞きなさい、恋問さん。合気武道にはね、大きく分けて三つの階梯レベルが存在するんだ」


 唐突に始まった講義。

 わしは居住まいを正そうとしたが、身体が言うことを聞かない。


「一つ目は、『柔術』だ」


 影安は、指を一本立てた。

「今の君たちがやっている基礎稽古の段階だね。肉体を徹底的にいじめ抜き、人間の身体の物理的な構造を知り、技のかたを筋肉と骨に叩き込む。この基礎となる土台が無いと、後で必ず行き詰まることになる。……『以前の君』のようにね」


「ぐっ……」


 図星を突かれ、わしは言葉に詰まった。

 あの「三人の岩」に手も足も出ず、赤子のように転がされた最大の理由だったのだから。


「二つ目は、『合気柔術』」


 影安の目が、スッと細められる。


「恋問さんは、札幌で本当にいい師匠についたんだね。君の身体の奥底には、とてもいい『種』が埋まっている。この基本の練度が保てれば、君はたぶん、合気柔術までは間違いなく到達できるだろうと僕は踏んでいるよ」


「……その、先は……?」


 わしは無意識のうちに、身を乗り出していた。


「三つ目は――『合気の術』だ」


 その四文字が道場に響いた瞬間、周囲の空気がピンと張り詰めた気がした。

 精神と肉体が完全に融合し、物理法則の壁すらも超絶する神技の領域。力学的な有利不利を完全に無視し、触れた相手の意識すらもコントロールする究極の境地。


「座りなさい」


 影安はそう言うと、わしの正面に静かに正座した。

 促されるまま、わしも痛む身体に鞭打って正座の姿勢をとる。


「僕の両手首を、全力で握ってみて」


「……後悔するなよ、影安」


 わしは両腕を伸ばし、男の細い手首をガッチリと掴んだ。

 かつては分厚い鋼鉄の扉すら握り潰した、魔王の万力のごとき握力である。常人ならば、それだけで手首の骨が軋み、悲痛な悲鳴を上げるはずだった。


「いくよ」


 影安は表情一つ変えず、ごく自然に腕を動かした。


 フワリ、と。


「えっ――!?」


 わしの巨大な力が、どこかへ「消えた」。

 影安の腕が上がると同時に、わしの重心が前へポッカリと引き出される。これが『合わせの上げ』。相手の力のベクトルに完全に同調し、反発を生まずに持ち上げる技術だ。


「なっ、なんだ今の……っ」


 体勢を立て直そうとするわしを意に介さず、影安は休むことなく次々と技を展開していく。


「っ!?」


 今度は、手首の接点ではなく、わしの肘や肩へと力の支点がズレた感覚があった。わしの腕が勝手に跳ね上がる。『力点を変える上げ』だ。


 さらに影安は、皮膚の『摩擦』だけを利用してわしの身体をフワリと浮かせ、続く動作では、人間の骨格の弱点を正確に突く『柔術の上げ』で、わしの両腕を捻り上げるように崩してみせた。


 理解が、追いつかない。


 何が起きている? 魔法か? いや、魔力など一切感知できない。これは純粋な技術だ。人間の、肉体のことわりだ。


「そして、これが……『合気柔術』の上げだ」


 影安が短く息を吐いた瞬間。


 ――グルンッ!!


 わしの身体が、まるで無重力空間に放り出されたかのように宙に浮き、次の瞬間には、畳の上へと仰向けに激しく転がされていた。


 受け身を取る暇すらない。


 抵抗感、ゼロ。


 力のぶつかり合いすら生じないまま、ただ己の体重と力が裏返り、気づけば道場の天井を見上げていたのだ。


「……あ、う……」


 呆然とするわしを見下ろし、影安は静かに微笑んだ。


「今の技の理屈は、口では説明しない。ただ感じて、試して、盗んで、自分のものにしなさい」


「教えないのか……?」


「本当は手取り足取り教えたいんだけどね」


 影安は苦笑交じりに首を振った。


「言葉で教わったものは、頭で理解した気になっても、身体はすぐに忘れてしまう。でも――自分が痛い思いをして、何度も転がされて、自分自身の身体で気づいたものや、自分で盗んだものは、一生忘れないんだ」


 男の瞳の奥に、武術家としての確固たる炎が燃えているのがわかった。


「今の君は、ちょうど『柔術と合気柔術のはざま』にいる。入り口の少し先といったところかな」


「間、だと……」


 わしの顔がわずかに歪んだ。魔王として絶対の力を持っていたわしが、まだそんな入り口付近をうろついているというのか。焦燥と不満が入り混じり、唇を噛む。

 だが、そんなわしの心情を見透かしたように、影安は困った生徒を宥めるような声を出した。


「すごいことなんだよ、それは。君の成長スピードは異常だ。僕なんて、四十を過ぎてからやっとその場所に辿り着いたんだからね。合気柔術というものが何なのか、ついこの間、やっと理解できたばかりなんだ」


(この男……どこまで底知れないのだ)


 常に涼しい顔をしているこの教師もまた、永遠に終わりのない道を歩き続ける求道者ぐどうしゃなのだと、わしは思い知らされた。


「……ならば、その先の『合気の術』は?」


 わしは食い下がった。

 渇いている。

 強さを、高みを、誰よりも欲している。魔王のプライドにかけて、ここで立ち止まるわけにはいかないのだ。

 影安は、わしの黄金の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「君が合気柔術の領域まで到達できたら……合気の術が出来る本物の師匠に、合わせてあげる。僕からの約束だ」


「……ッ! 言ったな、影安!」


「よし。じゃあ、今日はもう帰りなさい。しっかり休むのも稽古のうちだよ」


 そう言ってきびすを返した影安だったが、道場の出口付近で思い出したように立ち止まり、振り返った。


「――それと、恋問さん」


「……なんだ」


「最近、少し『軽くなった』んじゃない?」


 影安は、にっこりと白い歯を見せて笑っていた。


 ――ドクンッ!!


 わしの心臓が、早鐘のように大きく跳ねた。


          *


 全裸である。

 帰宅したわしは、マンションの脱衣所にある大きな鏡の前に立っていた。


 一糸纏わぬ姿。

 鏡の中に映っているのは、間違いなく「絶世」と呼ぶにふさわしい美女だった。透き通るような白い肌、引き締まったウエスト、しなやかで長い四肢。余分な脂肪など一ミリもついていない、完璧なプロポーションだ。


 だが、見た目「だけ」は以前からずっとこのままだった。

 魔王・恋問持子の真の問題は、その中身――『質量』にあった。


(……九十九・九九キログラム……)


 それが、昨夜までのわしの体重である。

 人間の身体の限界を超えて魔力を極限まで圧縮し、無理やりにこの華奢な体型を維持してきた結果、わしの肉体は恐ろしいまでの密度を持ち、鉛のごとき重さになってしまっていたのだ。

 一歩歩けば床板がミシリと鳴り、油断すれば椅子を破壊する、ヘビー級ボクサーも青ざめる圧倒的質量。

 それをどうにかすべく、わしは腹心である雪と鮎の二人と共に、一ヶ月にも及ぶ地獄のダイエット合宿を敢行した。

 水すら制限する過酷な断食。

 血を吐くような毎日のランニング。

 意識が遠のくまで耐え抜いたサウナ。

 常人なら確実に干からびているであろうその苦行の果てに、わしの体重は「針一本分」たりとも減っていなかったのだ。魔力という名の絶対的な質量の壁。それはまさに、魔王にかけられた呪いそのものであった。

 だが、今日。先ほどの道場で、影安の奴は確かに言ったのだ。


『軽くなったんじゃない?』と。


 あの底知れぬ武術家の感覚は、何よりも正確だ。奴がそう感じたのなら、間違いなくわしの身体に変化が起きているはず。


 ゴクリ。


 わしは大きく唾を呑み込んだ。

 恐る恐る、右足を体重計に乗せる。続いて左足。

 足元のデジタル表示が、チカチカと赤い光を点滅させる。


(頼む……! 減っていてくれ……!!)


 祈るような気持ちで目を閉じた。

 ピタリ、と。

 電子音が鳴り、数字が確定する。

 薄く目を開け、足元を見下ろしたわしの瞳孔が、極限まで開いた。


『58.0kg』


「…………う」


 わしの口から、震える息が漏れる。

 幻覚ではない。何度瞬きをしても、数字は変わらない。


「う……おおおおお…………うおおおおおおおおおおおッ!!!」


 咆哮、である。


 獣のごとき歓喜の雄叫びが、マンションの浴室に木霊こだました。

 勝った。勝ったのだ。己にかけられた呪いのような重力に、魔力という名の脂肪の塊に、ついに打ち勝った!


 五十八キロ。


 それは一般的な女性の平均的な体重かもしれない。だが、わしにとってこの数字は、かつての世界征服よりも遥かに困難で、何倍も価値のある「大勝利」の証だった。

 わしは即座にスマートフォンを手に取り、雪と鮎へメッセージを飛ばした。


『雪! 鮎! わしは重力から解き放たれたぞ! 今宵は宴じゃ!』


 闇がある。



     *

 


 エピローグ


 闇の、さらに奥底。

 合気武道同好会顧問。影安かげやすである。

 影安の口元が、暗がりの中で三日月のように歪んだ。

 笑み、である。

 彼の脳裏に、かつて北の大地で武を極め、持子にあの「形」を託した一人の老人の顔が浮かんでいた。


「……高倉先生」


 影安は、誰に聞こえるでもなく、低く呟いた。

 その声には、武の深淵を覗き込む者だけが知る、震えるような歓喜がはらんでいる。


「種は……見事に、芽吹きましたよ」


 フッと。


 影安の静かな吐息が、格技場の淀んだ空気に溶けていく。


「……どうか、笑ってやってください。とんでもない『化け物』が、産声を上げました」


 令和の闇に、再び深い静寂が降りる。

 だが、その闇の底では、芽吹いたばかりの強靭な武の種が、次の獲物の血肉を求めて、恐るべき速度で根を張り始めていた。


さらに改行地獄!

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