魔王、名を取り戻す
書き直し
✴︎闇が、ある。
むせ返るような、古い畳の腐臭と、濃密な獣の闇である。
猛り狂う者たちの汗が蒸気となり、天井の梁にまで染み付いている。
都内、私立高校聖ミカエル学園の格技場。
そこはすでに学校という施設の枠を超え、武の闇が満ちた一個の巨大な「生きた臓器」として脈打っていた。
「――来たか」
声ではない。
気配だ。
道場の隅に鎮座する「三つの岩」――巨漢、細身の男、小柄な女の三人が、入り口の影を射抜いた。
ズカッ。
恋問持子は、そこに立っていた。
昨日とは、違う。歩幅は狭い。
一歩踏み出すたびに、膝の皿が悲鳴を上げ、大腿四頭筋がブチブチと断裂音を奏でている。
深刻なダメージを受けた肉体は、本多鮎という女から啜った魔力供給がなければ、動くことすらできなかったはずの状態である。
だが、持子は立った。
昨日と同じ、地獄の釜の蓋の上。
ヒュンッ!
小柄な女が、無造作に放る。あの、芯に鉛を仕込んだような、異様に重い木刀だ。
ガシィッ!!
持子は、それを受け止める。
衝撃で、肩から背中にかけて落雷のような激痛が疾る。
顔が歪む。だが、その瞳に宿る闘志の炎だけは、決して消えてはいなかった。
三人の反応は「無関心」。
挨拶も、評価もない。いない者のように扱い、すぐさま己の肉体を虐める基本稽古を開始した。
「千回ッ!!」
持子は、死に物狂いで木刀を振り上げた。
ブチリ。
筋肉が限界を迎え、千切れる音が鼓膜を叩く。
手の平の皮が裂け、柄が赤黒い血でヌルリと滑る。
涙と汗で、視界がぼやける。
人間としての尊厳など、とうに捨てた。
今そこにいるのは、ただ三人の背中を追い、虚空を斬り裂き続ける一匹の飢えた「狼」であった。
数日間の地獄が過ぎたのか。
持子の脳髄において、時間感覚は完全に喪失していた。
破壊と回復の、無限の螺旋。
その凄絶な繰り返しの中で、肉体が鋼のように鍛え上げられていく。
その日。
基本稽古が終わった直後、異変が起きた。
三人が「間」を作り、技の研究稽古を始めたのだ。
持子もまた、立ったままその端に参加していた。
三人が動く。
極限まで削ぎ落とされた持子の網膜に、三人の技がかつてなく鮮明な映像として焼き付く。
細身の男が放つ、「一本捕り」。
(……見える)
持子の肉体が、学習する。
極限の修行が、隠されていた才能を引き出したのだ。
頭ではない。動きの理を、身体で理解し始める。
「ぬんッ!!」
持子が、動いた。
ガシィッ!
細身の男の手首を、血に塗れた掌で掴み取る。
不格好ながらも、その泥臭い動きは間違いなく技を成立させていた。
理が、男の重心を奪う。
ズドンッ!!
細身の男の身体が宙を舞い、畳へ投げられることに成功した。
静寂。
周囲の部員たちが息を呑み、道場が完全に静まり返る。
止まった。
あの三人が、初めて稽古を止めたのだ。
彼らは、ゆっくりと持子の前に並び立った。
昨日までの冷たい視線が、劇的に変化している。
そこにあるのは、同じ地獄の釜の底を這いずり回った「同類」として見る目であった。
巨漢が、重低音で言った。
「……名は」
「……。……ぬ」
持子は肩で息をしながら、黄金の瞳で巨漢を睨め上げる。
「……恋問持子だ」
巨漢が、不器用に頷いた。
「岩田剛毅」
次に、細身の男が静かに名乗る。
「森盛夫」
最後に、小柄な女がふわりと顔を綻ばせた。
「千手美貴」
「――恋問、持子」
三人の声が、重なった。
初めて、名前を呼ばれた。
ただの肉塊ではなく、「個」として認められ、孤独が完全に解消された瞬間であった。
「……カカッ。……カカカカッ!」
「はーっはっはっは!!」
笑いが、漏れた。
強さの世界で認められた、狂おしいほどの喜び。
ふと。
むせ返るような血と汗の臭いが、一瞬だけ、澄み切った冷気へと変わった気がした。
――ヒュルルルゥゥ……。
凍てつくような、吹雪の音。
刺すような冷気が肌を刺す、遠い札幌の道場である。
古い木造の床の冷たさと、ストーブの灯油の匂い。
持子の脳裏に蘇ったのは、己に合気武道を教えた師匠、高倉の深く静かな声だった。
隣には、共に形稽古を叩き込まれた兄弟弟子の竜が立っている。
枯れ木のようにゴツゴツとした、だがひどく温かい高倉の手が、幼い持子の頭を撫でていた。
『よく聞け、持子、竜。わしがお前たちに教えた形稽古は、いわば「種」だ。今はまだ、お前たちの肉体という土壌が未熟ゆえ、芽は出ん』
死期を悟った武術家の、己の魂を託すような凄絶な眼差し。
『だが、お前たちが真摯に向き合い続ければ……必ず、天の導きが現れる』
『お前たちの肉体を極限まで砕き、練り上げ、基礎を叩き込んでくれる者が必ず現れる。……その時こそ、わしが植えたこの合気の種が、お前たちを真の武の頂きへと導くだろう』
(……お師匠様。竜よ)
持子は、血と涎と汗にまみれた顔で、天井を仰いだ。
出たぞ。
芽が、出たのだ。
この、三匹の獣という「天の導き」が、わしの未熟な肉体を徹底的に砕き、地獄の底で練り上げてくれた。
合気の種が、今、極限の土壌を得て、狂おしいほどの生命力で発芽したのだ。
持子の内側で、かつての董卓が持っていた破壊の魔力が、合気武道という「理」によって鍛造されていく。
制御不能なほどに美しく、強靭な「武の魔力」への昇華。
闇があった。
むせ返るような、汗と血の臭い。
そして、戦友を得た獣たちの、清々しい熱気が満ちていた。
「岩田、森、千手……。明日も、わしを……。わしを、壊してみせよ……ッ!」
恋問持子の咆哮が、令和の空を突き抜け、遥か時空を超えた古の長安の風さえも揺るがした。
魔王が、最強の理を纏い、ふたたび、還ってきたのである。




