基本稽古の先にあったもの
書き直し
✴︎代官山。
令和の東京において、そこは洗練と流行の象徴、最先端の空気が流れる街である。
だが、その一角。
私立高校聖ミカエル学園の放課後の格技場には、外界から完全に隔絶された「闇」があった。
むせ返るような、古い畳の腐臭。
獣のごとき男女たちが撒き散らす、濃密な汗と血の匂い。
そこは、蠱毒の壺であった。
数多の毒虫を一つの壺に放ち、互いに喰らわせ合い、最後に残った最強の毒のみを抽出する呪術の器。
この淀んだ空間は、まさに強者だけが生き残るための、現代の蠱毒の壺なのだ。
「……基本稽古、終了」
小柄な女の、氷のように冷たい声が響いた。
千回の素振り。
そして、千回の四股。
それは単なる運動ではない。己の肉体を一度徹底的に破壊し、絶望の淵から新たな武の器として再構築するための、凄惨な儀式であった。
ドサァッ……。
恋問持子の肉体が、糸の切れた操り人形のように畳へ崩れ落ちた。
限界など、とうの昔に超えていた。
全身は自らが流した泥と汗、そして尿にまみれている。
手の平の皮は完全に裂け、ズル剥けの赤肉から止めどなく血が流れている。
モデルとして持て囃された「絶世の美貌」も、魔王・董卓としての「誇り」も、今はない。
そこにあるのは、ただ極限まで消耗し、徹底的に凌辱された一つの「肉塊」でしかなかった。
「……次は、形稽古だ」
巨漢の男が、無感情に宣告した。
誰も、倒れ伏す持子を助け起こそうとはしない。
手を差し伸べる者など、この壺の中にはいないのだ。
自力で立てない者、動けない者は、ただのゴミである。それがこの空間の絶対のルールであった。
ズカッ。
巨漢、細身の男、そして小柄な女。
三人の猛者たちが、ゆっくりと動き出す。
行われるのは、殺し合いの自由組手ではない。
「形」である。
武の理を、物理的な人体の構造を、反復によって筋肉と骨髄の髄まで刻み込むための、神聖なる儀式。
三人一組。
二人が向かい合い、命のやり取りにも等しい技を掛け合う。
残る一人は、少し離れた場所からそれを見つめる。「見取り稽古」である。
他者の動きの深淵を覗き込み、良い技を己の血肉として盗み、悪い点を己の反省とする。
彼らはそれを、無言のまま順番に交代しながら行っていくのだ。
「……しッ!」
巨漢の丸太のような腕が、細身の男の手首を万力のように捕らえた。
骨が砕けるほどの力。
だが、細身の男は力で逆らわない。
スッ、と。
まるで流水が岩を避けるように、最短距離で巨漢の懐へと滑り込んだ。
手首を支点にし、己の重心をわずかに、だが致命的にズラす。
グラリ。
巨漢の巨大な質量が、見えない糸に引かれたように前のめりに崩れた。
そこへ、細身の男の指先が音もなく伸びる。
ピタリ。
巨漢の両眼球のわずか数ミリ手前で、男の指による「目潰し」が寸止めされていた。
殺気だけが、空気をビリリと震わせる。
「……次」
今度は、巨漢と小柄な女が対峙する。
巨漢の突き。空気を裂く重砲のような一撃。
対する女は、逃げない。
逆に、弾かれたように前へ跳び込んだ。
女の細い両腕が、巨漢の太い腕に螺旋状に絡みつく。
ぐるんッ!
巨漢の放った直線の力が、女の作り出した螺旋の渦に飲み込まれた。
回転の力。
巨漢の体勢が錐揉み状に崩れる。
その瞬間、女の姿が巨漢の視界からフッと消えた。「死角」へと回り込んだのだ。
トン。
女の指先が、巨漢の首の後ろ――延髄付近の急所に、羽毛のように軽く触れていた。
もし実戦であれば、巨漢は首の神経を断ち切られ、即死している。
「……あ、あ……」
持子は、冷たい畳の上に倒れ伏したまま、その光景を見ていた。
口からは血の混じった涎が垂れ落ちている。
指一本動かせない。
だが、その黄金の瞳だけは、ギラギラと異様な光を放ち、三人の動きに釘付けになっていた。
(……美しい)
持子の魂が、震えた。
巨漢の「剛」。
細身の男の「柔」。
小柄な女の「速」。
彼らが無言で交わしているのは、肉体と肉体をぶつけ合う「死の対話」だ。
人体の構造を知り尽くし、関節を極め、急所を正確に、かつ最短距離で狙い撃つ芸術。
魔王・董卓として、後漢の世で数多の暗殺者の技を見てきた。
だが、目の前で繰り広げられているこの武道は、それらとは次元が違う。
ただひたすらに、純粋に、人殺しの技術を「理」へと昇華させているのだ。
(……立ち、たい)
持子の中に、ドロリとした感情が湧き上がった。
それは、妖を喰らった時に得た「魔力」ではない。
純粋な、一人の人間としての、狂おしいほどの「闘志」であった。
札幌の冷たい道場で、師匠・高倉から教えられた合気の種。強さを求め、ただひたすらに形を繰り返した遠い記憶。
(わしも、あの対話の中に……あの死の舞踏の中に、混ざりたい……っ!)
身体は完全に死んでいる。
限界を超えて酷使された太ももは氷のように冷たくなり、裂けた手の平は脈打つように痛む。
失禁した排泄物の不快感すら、もはや感じない。
ただ、目だけ。
目だけが、彼らの武の理を、少しでも己の魂に刻み込もうと血走っている。
(欲しい……! あの技が、あの強さが……欲しい……!)
魔王の欲望ではない。
武術家としての、果てしない渇望。
彼らの技を、理を、その強さを、頭からバリバリと噛み砕いて「食らいたい」。
ポタリ。
持子の鼻から、限界を超えた脳圧に耐えきれず、一滴の鮮血が畳に落ちた。
視界が暗転していく。
意識が、深い闇の底へと沈み込んでいく。
だが、その薄れゆく意識の最深部で、魔王・董卓の魂が、そして恋問持子の武術家としての本能が、ニタリと三日月のように笑った気がした。
持子は、触れたのだ。
武の深淵という、底なしの闇に。
(……喰って、やる……必ず……貴様らの武を、わしが……)
持子の内に、かつてないほどの「餓狼のような飢え」が芽生えていた。
ただの着飾った美少女が、魔王の魂を宿した器が、真の「武術家」として覚醒の産声を上げた瞬間である。
地獄の千本振りと四股は、終わったのではない。
恋問持子の、血に飢えた本当の「修行」が、今、ここから始まったのである。




