勉強したい魔王と、発情している下僕
✴︎忠犬の愛は、非常時には枷となる
夏休み終了、三日前。
事務所の会議室には、処刑台のような空気が漂っていた。
机の上に散乱するのは、手つかずのプリントとドリル。
魔王・恋問持子にとって、これらは勇者の剣よりも恐ろしい「留年への招待状」だった。
「雪よ……。頼む。わしの代わりに筆を執れ。文字を書くのは得意だろう?」
「断る」
雪は即答し、パソコンのキーボードを叩き続ける。
「あと三日で終わらせなさい」
「鬼か貴様は! 三日など瞬きする間に終わるではないか!」
持子が頭を抱え、絶望のあまり机に突っ伏したその時だ。
「お困りのようですね、持子さま♡」
鈴を転がしたような声と共に、本多鮎が現れた。
彼女は持子の忠実な下僕(犬)でありながら、学校では一つ上の学年に通う優秀な先輩でもある。
制服を完璧に着こなし、知的メガネをかけたその姿は、まさに救世主。
「おお、鮎! さすがは我が配下! その頭脳をわしに貸せ!」
持子はガバッと顔を上げ、尻尾を振って近づいてくる鮎を迎えた。
普段なら、この美しい下僕が自分を慕ってくる様子を見るだけで、魔王としての征服欲が満たされ、悦に入るのだが……今は状況が違う。一刻を争うのだ。
「お任せください。……ですが、タダでは教えられません」
鮎は妖艶に微笑み、持子の隣にぴったりと座った。
「一問教えるごとに、ご褒美をいただきます。持子さまの『愛』を……♡」
【フェーズ1:余裕と許容】
「まずは漢字の書き取りです。『薔薇』という字、書けますか?」
「書けるか! 植物など食えればよい!」
「ふふ、では手を添えて一緒に書きますね」
鮎が背後から回り込み、持子の右手を優しく包み込む。
その体温と、ふわっと香る甘い匂い。
(……む。悪くない)
普段の持子であれば、この密着感は心地よいものだ。自分に絶対服従する美女が、甲斐甲斐しく世話を焼く。そのシチュエーションは、暴君としてのプライドをくすぐる。
「はい、こうして……ここは止め、ここは払い……」
「うむ。貴様、教え方は上手いな。……よしよし、良い子だ」
持子は余裕の表情で、鮎の頭を撫でた。
鮎は「はふぅン♡」と甘い声を漏らし、恍惚の表情を浮かべる。
(うむ、可愛いものよ。この程度のスキンシップでやる気を出すなら、安いものだ)
だが、その余裕は長くは続かなかった。
【フェーズ2:焦燥と違和感】
一時間が経過。進捗は芳しくない。
なぜなら、鮎の要求がエスカレートし、勉強時間が削られているからだ。
「正解です! ではご褒美に、5分間のハグをお願いします♡」
「5分!? 長い! 1分にしろ!」
「ダメですぅ。持子さまの成分を補給しないと、私、干からびて死んじゃいます……」
むぎゅぅぅ。
鮎は持子の首に腕を回し、全力で抱きついてくる。
豊満な胸が押し付けられ、吐息が耳にかかる。
(……普段なら、この柔らかな感触を楽しんでやるところだが……)
持子はチラリと時計を見た。
針は無情に進んでいる。まだ課題の1割も終わっていない。
鮎の体温が高い。暑い。そして重い。
思考回路が「快楽」よりも「焦燥」に支配され始める。
(重い。邪魔だ。この腕がなければ、わしは次のページをめくれるのに! くそっ、この感触が今はただの枷でしかない!)
【フェーズ3:限界と拒絶】
さらに時間が経過。
持子の額には脂汗が浮かび、目は血走っていた。
対する鮎は、持子エキスを吸って肌ツヤが良くなり、完全に「発情モード」に入っている。
「次は英語の長文読解ですね。……ふふ、この問題の条件は」
鮎は持子の太ももの上に跨がり、顔を至近距離まで近づけた。
その瞳はドロドロに濁り、欲望の炎が燃え盛っている。
「『ディープ・キス』です♡ さあ、持子さま。私の口内を制圧してください……!」
その瞬間。
持子の頭の中で、「堪忍袋」という名のダムが決壊した。
普段なら。
ああ、普段なら!
この忠犬の行きすぎた愛情表現も、「仕方ない奴め」と笑って受け入れ、なんならその唇を奪って支配してやっただろう。
だが今は!
目の前に「留年」というギロチンが迫っているのだ!
視界を塞ぐ鮎の顔が、とてつもなく邪魔な「障害物」にしか見えない!
「…………どけ」
「え? 持子さま……? まだ舌が入って……」
「どけと言っているのだぁぁぁッ!!!」
ドガァァァン!!
持子は、太ももの上の鮎を思い切り突き飛ばした。
物理的な拒絶。
色気もへったくれもない、純粋な排除である。
「あひぃッ!?」
鮎は無様に床を転がり、壁に激突した。
「はぁ、はぁ……! 貴様は! 今! 非常に! 邪魔だ!!」
持子は鬼の形相で叫んだ。
「わしは今、生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ! 貴様のその粘着質な愛撫など、今はただの雑音! 鉄球! 足かせに過ぎん!!」
「そ、そんな……。愛の重さが、持子さまの負担に……?」
鮎が涙目で見上げてくるが、今の持子に慈悲はない。
「消えろとは言わん! だが黙れ! 呼吸もするな! 酸素が減る!」
持子は鮎を完全に無視し、シャーペンを握りしめた。
もう頼らん。
こんな発情犬に時間を費やすくらいなら、わしの野生の勘で埋めた方がマシだ!
カリカリカリカリッ!!
持子は猛烈なスピードで解答欄を埋め始めた。
「問:作者の気持ち」→「回答:知らん」
「問:Xを求めよ」→「回答:ここにある」
「問:This is a pen.」→「回答:これはペンだ。だから何だ」
全てを書き終えた頃、持子は真っ白に燃え尽きていた。
床では、突き飛ばされたショックで気絶したまま、それでも幸せそうに「持子さま……暴力……ステキ……♡」と呟く鮎が転がっていた。
結局。
始業式の日、持子は、補習を受けることになった。




