『最終の門、命を託して』
✴︎ 『最終の門、命を託して』
帝都・東京の地下五十メートル。
巨大なドーム状の空間の最奥、魔界の最深部へと通じる分厚い青銅の「最終の門」の前に、圧倒的な死の静寂が降りていた。
濃密な瘴気が肌をジリジリと焼き、呼吸をするだけで肺の粘膜が焼け爛れるような錯覚に陥る極限の領域。
「……ッ、ガハァッ……!」
風間洋助は、口から大量の鮮血をどす黒く吐き出しながら、ぐらつく両足で必死にひび割れた大地を踏みしめていた。
彼は民間霊的組織【TIA】の次期トップ候補であり、あらゆるモノを絶死の兵器に変貌させる「武器の天才」である。だが今、彼を支える両腕の骨は完全に砕かれ、皮膚の下でメキメキと嫌な音を立てて軋んでいた。
頼みの綱であった『霊子振動刀《建御雷》』の刀身は、高周波の共鳴によってあらゆる物質を霊体ごと両断するはずの絶死の刃であるにもかかわらず、眼前のバケモノの「逆鱗」に触れた瞬間の絶大な反発力によって無残にひしゃげ、もはや武器としての体を成していなかった。
(……クソッ、なんて硬さだ。概念そのものの密度が違いすぎる……!)
洋助は、右目から流れる血を拭うことすらできず、霞む視界で眼前の絶望を睨み据えた。
『最悪の古竜』。
神話級とも呼べるその巨大な黒き竜は、悠然と首をもたげていた。
漆黒の顎の奥で、バチバチと空間を歪ませながら圧縮されているのは、空間そのものを「無」に還す、純度百パーセントの呪詛のエネルギー。それが放たれれば、この地下空間はおろか、上層の調節池すらも一瞬にして消滅しかねない極大の破壊がもたらされる。
これまでの死闘、彼ら強者たちが全霊を懸けた一撃は、古竜の強固な鱗一枚すら剥がすことができなかった。
勝機は、完全にゼロ。
どれほど天才的な技術があろうと、どれほど強力な魔力があろうと、人間には決して越えられない絶対的な「質量の壁」がそこにあった。
「……兄さん! 腕が、血が……ッ!」
後方で地に伏せていた楓が、悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。彼女は漆黒の長髪を持つ凛とした美貌の少女であり、TIAの実戦部隊の切り札でもある。だが今は、ただ一人の妹として恐怖に震えていた。
「来るなッ、楓!!」
洋助は、砕けた腕を無理矢理持ち上げ、妹を怒声で制止した。
その顔には、いつもの飄々とした余裕はない。極めて誠実な性格でありながら「無自覚に女性を口説き落とし狂わせる」天性のタラシ体質を持つ彼だが、今この瞬間だけは、すべてを懸けた戦士の顔だった。その瞳に宿る戦意の炎は、少しも弱まっていなかった。
「……いいか、よく聞け。あいつの装甲は、今の俺たちの火力じゃどうやっても貫けねえ。……だが、俺たちがここで立ち止まったら、持子ちゃんは、永遠に一人ぼっちになっちまう」
持子は、極黒の魔王でありながら、孤児院育ちという孤独な幼少期を過ごした過去を持つ。仲間との絆を通じて「人間」として生きる道を選んだ彼女が、今、最深部で御影に洗脳され「愛する者を護る純粋な暴力の化身」へと変貌させられているのだ。
洋助は、砕けた腕の骨を、己の莫大な霊力をギプス代わりにして強引に固定した。
バキィッ! という絶望的な音が響き、毛細血管が破裂して皮膚から血が噴き出すが、彼は激痛を獰猛な笑みでねじ伏せた。
「楓、鮎ちゃん、美羽ちゃん! そしてルージュ! お前たちは、先に行け!」
「なっ……!? 何を言っているんですか、洋助さん!」
鮮やかなピンク色の髪をしたインテリタレントの本多鮎が、信じられないというように目を見開く。
洋助はかつて、増上寺で敗北した鮎を弟子に取り、大剣と長刀の使い分けという地獄の修行をつけた師でもあった。
「ここは、俺が……いや、俺たちが突っ込んで食い止める! 奴の意識が俺たちに向いている間に、あの『最終の門』を潜り抜けろ!」
「ダメだよ! 兄さんだけ残して行けるわけないッ! そんな怪我で、どうやって……!」
楓の目から、大粒の涙が溢れ出した。普段は氷のように冷徹で隙がない彼女の、ただの「妹」としての悲痛な叫びが地下空間に響く。
だが、決死の覚悟を決めた洋助の隣に、スッと並び立つ影があった。
「……洋助さんの仰る通りです。皆様は、どうか先へ」
凛とした、しかしどこまでも深い慈愛に満ちた声。
古神道結社「八咫烏」の次期代表であり、洋助の婚約者である葉室桐子である。
彼女の純白の巫女装束は血と泥に塗れていたが、その立ち姿は、いかなる神仏よりも気高く、美しかった。彼女は、あらゆる邪気や闇の魔力を無効化する「闇の魔力を浄化する者」である。
桐子は、静かに洋助の隣へ歩み寄ると、己の胸の前で両手を強く組み、古神道における『絶命の印』を結んだ。
「『高天原に神留まり坐す……我が命脈を以て、天の岩戸をここに降ろさん』」
シュウゥゥゥゥッ……!
桐子の詠唱と共に、彼女の艶やかな黒髪の毛先が、みるみるうちに「真っ白」に変色していく。己の寿命を直接触媒とする、禁忌の絶対防護神術『天の岩戸』の起動である。
「桐子さん!? ダメです、それ以上術を使えば、あなたの命が……ッ!」
楓が絶叫する。
「構いません」
桐子は、静かに、優しく微笑んだ。そして、隣で血を流す洋助へ、深い愛情を込めた視線を向ける。
「私は、帝都を護る八咫烏の端くれ。そして何より……持子様や、皆様の『友』です。……それに、私の愛する人が、自らの命を削って盾となろうとしているのです。ならば、私がその背中を護り抜くのが、妻となる者の務めでしょう?」
桐子の全身から溢れ出した極光が、彼女と洋助を包み込むように収束し、巨大な光の盾となって鼓動を始める。
そしてもう一人。
壁のクレーターから、ガラガラと瓦礫を払いのけて立ち上がった絶世の美女がいた。
「……フフッ、アハハハッ! まったく、人間というのは本当に美しく、そして脆い生き物ですわね」
ヨーロッパの裏社会を統べる真祖の吸血鬼であり、持子に愛されるためだけに絶世の金髪美女へと女体化した究極の「ドM」ストーカー、エティエンヌである。
彼女の美しい金髪は土埃に塗れ、ドレスは引き裂かれ、頬からは一筋の血が流れていた。だが、彼女はそれを拭おうともせず、折れ曲がった『魔殺しの聖剣』を自身の莫大な魔力で無理矢理再構築し、優雅に構え直した。
「エティエンヌさん……」
「勘違いしないでちょうだい。わたくしは、別に貴女たち人間のために命を張るわけじゃありませんわ」
エティエンヌは、真紅の瞳を妖しく光らせ、巨大な古竜を真っ向から睨み据えた。
「ただ……わたくしの愛しの女神(持子様)の元へ向かう道を、こんな薄汚いトカゲに塞がれているのが、我慢ならないだけ! わたくしの女神が、今この瞬間もあの忌々しい小僧(御影)の呪縛に囚われているかと思うと……腹立たしくて、狂いそうですのよ!」
エティエンヌの足元の地面が、圧倒的な魔力によってヒビ割れ、沈み込む。
「洋助と言いましたわね? 貴方のその馬鹿げた特攻、わたくしも付き合って差し上げますわ! 王の元へ急ぎなさい! わたくしたちの命を懸けて、このトカゲをこじ開けて差し上げますわ!」
天才の意地。
巫女の祈りと献身。
真祖の純愛と狂気。
決して交わるはずのなかった三人の規格外の強者たちが、今、己の命という絶対の対価を支払い、最強の「矛」と「盾」となって死の境界線を引いた。
「兄さん……ッ! 桐子さん……!」
楓は、あらゆる邪気を祓う神話級の白銀の直刀『生太刀』を握りしめ、嗚咽を漏らした。踏み出そうとする足が、泥に足を取られたように動かない。彼らを置いていけば、彼らは確実に死ぬ。その絶望的な事実が、楓の心を縛り付けていた。
ドンッ!
その時、楓と鮎と美羽の背中を、強く、容赦なく押し出す両手があった。
鮎の影の中に潜む下僕であり、三百年間パリの地下墓所を支配してきた吸血鬼の元女王、ルージュである。
「……行きましょう。彼らの覚悟を、無駄にしてはなりませんわ」
金髪真紅の瞳を持つ彼女の声は、ひどく冷徹で、しかし誰よりも深い悲哀と重みを帯びていた。
「皆さんから託された命のバトンを、ここで落とす気ですか。彼らは死ぬために残るのではない。我らが王(持子様)が救われるという『希望』を、貴女たちに託したのです。我々がここで立ち止まれば、持子様の魂は永遠に暗闇の中です! ……振り返らずに、走りなさいッ!!」
ルージュの叱咤が、楓と鮎と美羽の魂を打ち据えた。
「……ッ!」
楓は、乱暴に袖で涙を拭い、生太刀を強く握り直した。自身の前世の記憶に人格を奪われる恐怖を抱えながらも、持子に抱きしめられた温もりを思い出す。彼女を、絶対に独りにはさせない。
鮎もまた、持子に対する狂信的な忠誠を燃やし、瞳に確かな決意の炎を宿した。彼女は持子を「ご主人様」「神」と崇め、虐げられることに喜びを感じる狂信的・マゾヒストである。
「……必ず、ご主人様(神)の元へ! 行きますよ、皆様!」
そして、極限の緊張の中、花園美羽の口からどす黒い殺意が漏れ出した。
「……ッ、クソがぁッ! 邪魔すんじゃねえッ!」
持子の所有物(泥棒猫)として、彼女へドロドロとした重い執着を向ける美羽は、顔を悪鬼のように歪ませて吼えた。
普段のあざとく甘ったるい「〜ですぅ」「〜ですにゃぁ」というアイドル声は欠片もない。怒りと戦闘状態によって完全に引き出された、荒々しく汚い本性の言葉遣いだった。
「私の持子先輩を、あんなキモいショタ(御影)に独占されるなんて……絶対に、絶対に許さない! 死ねッ!! さっさと行くわよ鮎、楓! あの馬鹿たちの命、無駄にしたらぶっ殺すからねッ!」
美羽は、五行と聖闇を宿した七本の特級呪具『七牙』の短刀を逆手に強く握り込む。楓直伝の、一切の音を立てない神速の移動術『無足の歩法』の歩を深く沈み込ませ、狂犬のような殺意と共に前を見据えた。
「ギョォォォォォォォォォォッ!!」
ついに、最悪の古竜の顎から、空間を無に還す漆黒のブレスが放たれた。
ゴォォォォォォォォォォンッ!!
空間の法則が軋みを上げ、視界が黒一色に染まる。
「「オォォォォォォォッ!!」」
洋助とエティエンヌが、同時に大地を蹴った。
洋助は両腕から血の飛沫を吹き出しながら、ひしゃげた霊子振動刀を真っ直ぐに突き立て、ブレスの中心へと突貫する。
エティエンヌは狂気の笑い声を上げながら、魔殺しの聖剣を大上段から振り下ろし、ブレスの側面へと己の全てを叩き込む。
だが、ブレスの圧倒的な質量は、二人を容易く飲み込もうとする。
「させませんッ!! 『天の岩戸』、全開!!」
桐子が絶叫する。寿命を削り尽くさんばかりの極光が爆発し、洋助とエティエンヌを包み込む絶対防護の光の盾が、漆黒のブレスと正面から激突した。
ドガァァァァァァァァァァンッ!!!
凄まじい閃光と衝撃波が地下空間を吹き飛ばす。桐子の盾が軋みを上げ、ヒビが入る。洋助の骨が更に砕け、エティエンヌの体が灼かれる。だが、三人の命を燃やした力が、確かに巨大な古竜のブレスの軌道を、ほんの数メートルだけ、横へと逸らしたのだ。
「今だッ!! 行けェェェェェッ、楓ェェッ!!」
光と闇の暴風の中心から響く、洋助の魂からの絶叫。
「……必ず、助けてみせます! ご武運を!!」
鮎の叫びと共に、四人の少女たち(鮎、美羽、楓、ルージュ)は、洋助たちが己の命を削ってこじ開けた、漆黒のブレスの横に生まれた「僅かな隙間」を、弾丸のような速度で駆け抜けた。
ゴァァァァッ! という絶対的な死の暴風が肌を焼く。あと数センチずれれば消滅する極限の空間。
四人の姿は、最深部へと通じる巨大な青銅の扉――『最終の門』の僅かに開いた隙間へと飛び込み、そのまま暗闇の中へと姿を消した。
ゴォォォォォォンッ……!
四人が潜り抜けた直後、最終の門が重々しい音を立てて完全に閉ざされた。
扉の向こう側から聞こえていた、洋助たちの絶叫も、桐子の祈りも、古竜の咆哮も、破壊の轟音も、すべてが嘘のように遮断される。
そこは、血と泥に塗れた、静寂の世界。
無数の怨念や呪いの汚泥が渦巻き、極黒の魔王・持子が待つ、正真正銘の『魔界の最深部(玉座)』であった。
背中に残してきた英雄たちの、熱く重い命の重みを背負い。
託されたバトンを固く握り締め、四人はついに、最後の戦いの舞台へと足を踏み入れたのである。




