『帝都地下迷宮――時間の牢獄と神話竜の門』
✴︎ 『帝都地下迷宮――時間の牢獄と神話竜の門』
帝都・東京の地下深層。
霞涼介たち四人のエリート工作員が、己の命と誇りを懸けてこじ開けた「血の道」。
その悲壮な背中を後にして、本多鮎、花園美羽、風間楓の三人は、ただひたすらに暗闇の底へと続く階段を駆け下りていた。
「……ハァッ、ハァッ……ご主人様、どうかご無事で……!」
鮎は、ボロボロになった衣服の裾を握り締めながら、早稲田大学に籍を置くインテリとしての極めて優秀な頭脳で、周囲の異常な環境変化を瞬時に計算し、一つの絶望的な事実に思い至っていた。
(おかしい。私たちの体感時間と、疲労度の蓄積が、物理的な移動距離と全く見合っていません……!)
彼女の左腕にはめられた高級ブランドの腕時計の針は、すでに狂ったようにグルグルと回転し、計器としての意味を成していなかった。
御影の放つ強大な呪力と、数千万人の怨念が極限まで凝縮されたこの地下空間は、もはや現世の物理法則から完全に切り離された「異界(魔界)」へと変貌している。極度に高められた霊子濃度は、空間のみならず『時間』の概念すらも著しく歪めていたのだ。
(……この地下空間内は、地上に比べて『時間の流れが異常に早い』。地上での一時間が、ここでは数日に相当する……!)
御影は地上に「一週間の猶予」を与えた。しかし、この時間の牢獄に囚われた救出パーティにとっては、最深部に到達するまでに、精神的にも肉体的にも数ヶ月に及ぶかのような途方もない体感時間を、不眠不休の死闘として過ごさねばならないことを意味していた。
事実、彼女たちの身体はすでに限界を迎えつつあった。わずか数十分地下を走っただけのはずが、まるで砂漠を三日三晩彷徨い歩いたかのような猛烈な疲労感と、精神を削り取るような魔力の枯渇が襲いかかっている。
「あぁぁッ……! クソが! 道が、またループしてやがりますぅ……ッ!」
美羽が、重くなった特級呪具「七牙」の短刀をだらりと下げ、冷たいコンクリートの壁に寄りかかりながら、普段のあざといアイドル声と戦闘時の荒々しい口調を混ぜ合わせて悪態をついた。短刀では杖代わりにもならず、彼女の細い足は今にも崩れ落ちそうだった。
彼女たちが辿り着いた地下四十メートル付近の深層は、もはや道としての原型を留めていなかった。
重力の方向がデタラメに入り乱れ、天井に階段が逆さまにへばりつき、壁からは即死レベルの濃度の毒瘴気がガスバーナーのように噴き出している。さらに、一歩踏み外せば二度と元の空間に戻れない「空間の断層」や、踏んだ瞬間に肉体を消滅させる呪術トラップが、モザイク画のように敷き詰められていた。
「厄介ですね……。力押しで進める領域ではありません」
楓が漆黒の長髪を揺らし、神話級宝具『生太刀』を構えながら冷徹に状況を分析する。実戦部隊の切り札であり、スサノオの娘の転生体である彼女のクールビューティーな顔つきに、恐怖の色はない。だが、罠や迷路といった概念の暴力には、剣の物理攻撃は通用しなかった。
絶体絶命。時間だけが容赦無く削られ、じわじわと死が迫る中。
鮎は忌々しげに舌打ちをすると、自身の足元に濃く落ちる「影」に向かって鋭く声を放った。
「ルージュ! 隠れていないで出なさい! あなたの眼で、このふざけた迷宮の正解ルートを割り出すのです!」
『――お呼びでございますか、我がご主人様!』
凛とした、それでいて他者を圧倒する高貴な女性の声が暗闇に響き渡る。
鮎の足元の影がどろりと漆黒の沼のように広がり、そこから一人の絶世の美女が音もなくせり上がってきた。金糸のような金髪に、血のように赤い真紅の瞳。かつてヨーロッパの裏社会を震え上がらせた元吸血鬼の女王にして、現在は鮎の影の中に潜む夜の眷属――ルージュである。
ルージュは現れるなり、鮎に向かって恭しく、そして心底愛おしそうに一礼した。
「ああ、鮎! 貴女のその理知的な眼差し、血と汗に塗れたお姿も最高に美しゅうございますわ! わたくしは最初から、ずっと貴女の影で戦いを見守っておりました。エージェントの殿方たち、見事な散り際でしたわね」
ルージュにとって、絶対の忠誠を誓い、心から愛する「真の主人」は、彼女を下し魂を縛った本多鮎である。そして、その鮎が狂信的に崇拝する魔王・持子、さらにはヨーロッパに残してきた元旦那のエティエンヌの三人は、彼女にとって特別に大好きな存在だった。
ルージュは次に、凛と佇む楓へと向き直り、優雅に扇を広げて敬意を示した。
「楓。貴女の神の剣筋、影の中から見事だと感嘆しておりましたわ。さぞお疲れでしょう」
「……ええ。ルージュが来てくれて助かりました」
そしてルージュは、壁にもたれかかってゼエゼエと息をする美羽をチラリと見下ろし、
「あら。泥棒猫の美羽も、生きておりましたのね。ごきげんよう」
と、まるで道端の石ころを見るような塩対応の挨拶を投げかけた。
「……あぁん!? てめぇ、ブッ殺すぞコウモリ女……ッ!」
美羽が怒りで短刀を振り上げようとするが、ルージュはそれを完全に無視し、鋭い赤い瞳で狂い果てた地下迷宮の構造を見渡した。
「時間の流れが歪み、空間がねじ曲がった迷宮。……ふん、小賢しい。こんなもの、わたくしが三百年間支配し続けたパリの地下墓所の複雑怪奇さに比べれば、児戯にも等しいですわ!」
ルージュの最大の強みは、その卓越した『魔力探知能力』にある。
彼女の真紅の瞳が妖しく発光し始める。吸血鬼の女王が持つ魔眼は、血と魔力の流れを完全に視覚化し、空間や時間の歪みすらも色分けして捉えることができる。御影が構築した理不尽なトラップも、空間の綻びも、彼女の数百年を生きた眼の前では、薄っぺらい設計図のように丸裸にされた。
「わたくしのナビゲートに狂いはありませんわ! 我らが王の元へ至る正解ルートは、わたくしがこじ開けます!」
ルージュが先頭に立ち、優雅な足取りで迷宮を歩き始める。
「三歩前進して、左へ跳躍! そこの床は重力が反転していますわ!」
「壁の赤い苔には触れてはなりません! 魂を吸われますわよ!」
彼女の的確すぎる指示に従い、鮎、美羽、楓の三人は、致死のトラップ群をまるでパズルを解くように次々とすり抜けていく。自衛隊や陰陽師ですら一歩も進めない悪夢の迷路を、彼女たちだけは一直線に最深部へと向かっていた。
だが、迷宮のギミックを抜けられても、体力の限界が誤魔化せるわけではない。
「ハァッ、ハァッ……だめ、もう、魔力がすっからかんですぅ……死にそうですにゃぁ……」
美羽が再び膝をついた。時間の牢獄がもたらす極度の精神的摩耗と、魔力(MP)の枯渇が限界を超えていた。
「甘えるんじゃありませんわ!」
ルージュが指を鳴らすと、何もない空中に黒い亜空間の裂け目が出現した。彼女が世界中から収集した財宝を収納しているチート収納『ルージュ部屋』である。
「これを握りなさい」
ルージュが亜空間から取り出したのは、心臓の鼓動のように脈打つ、血のように赤い結晶体だった。
「な、なんですかこれ……」
「わたくしが数百年かけて精製した、純度百パーセントの『魔石』ですわ。枯渇した精神力(MP)と魔力を瞬時に満タンまで回復させます。直接握りしめて、魔力を吸い上げなさい!」
言われた通り、美羽と鮎、楓がそれぞれ魔石を握りしめると、赤い結晶はスゥッと砂のように崩れ、彼女たちの体内に清冽な魔力の奔流となって流れ込んだ。
「すごい……! 頭の中のモヤモヤが、一瞬でクリアになりました!」
鮎が驚きの声を上げる。確かに精神の疲労と魔力は全回復した。
切り札である『吸血鬼ポーション』は強力すぎるため、ルージュはあえて魔石を選択したのだ。
「ですが、肉体的な疲労と傷はどうにもなりませんね……」
鮎は、先ほどの戦闘で魔物に引き裂かれた腕の傷を見下ろした。
肉体の治癒において、ルージュの吸血鬼の力や鮎たちの闇属性魔術は非常に相性が悪い。
「肉体の回復なら、私に任せてください」
ここで静かに前に出たのは、風間楓だった。
「『布瑠の言』を使えば、たとえ死にかけの致命傷でも瞬時に再生させられますが……あれは魔力を大量に消費するので、極限状態でのみ使うべきです。今の軽い傷なら、通常の神術で燃費良く治せます」
「『高天原に神留まり坐す……天津水、国津水、清め給え、癒し給え』」
楓が涼やかな声で祝詞を唱えると、彼女の手のひらから淡い翠色の光が溢れ出し、鮎や美羽、楓自身の身体を包み込んだ。
細胞が活性化し、裂けた皮膚がシュウゥゥと音を立てて塞がっていく。
「ふう……完璧ですぅ! これでまた、持子様のために邪魔なバケモノどもを全員ミンチにしてやれますにゃぁッ!」
美羽が『七牙』を構え直し、生気を取り戻した獰猛な笑顔を見せる。
「素晴らしい連携ですわ。武器の追加は必要ですか? 」
ルージュの問いに、三人は首を横に振った。手持ちの武器が一番合っているのだ。
「……賢明な判断ですわね。ならば、武器ではなく『護り』を授けましょう」
ルージュは亜空間から装身具を取り出した。
「鮎、我が主。貴女にはこれを。吸血鬼のわたくしには触れることすら忌まわしい代物ですが、強力な防御結界が張れる『聖女のロザリオ』ですわ」
ルージュは銀のロザリオを鮎の首にかけた。
「美羽には、呪的干渉を完全に和らげる『精霊の防護マント』を。そして楓には、神術の威力を底上げし物理衝撃を吸収する『世界樹の腕輪』を貸与しますわ」
それぞれが受け取ったアイテムは、手持ちの武器の威力を殺さず、生存率を飛躍的に高める完璧な防具であった。
「ありがとうございます、ルージュ。これで憂いはありません」
「ええ、我らが王を取り戻すための準備は整いましたわ。……さあ、急ぎなさい! この先に、強大な魔力の渦を感じます。王の元へ至る、最後の関門ですわ!」
ルージュの赤い瞳が、暗闇の奥に潜む「圧倒的な絶望の気配」を捉え、鋭く細められた。
四人が迷宮の最下層へ続く分厚い石の扉を蹴り開けた先。
そこには、地下四十メートル地点に存在する、ドーム状の巨大な空洞が広がっていた。
空気が、重い。息を吸うだけで肺が焼けるような、致死量の瘴気。
そして、その広大な空間の中央に「それ」は鎮座していた。
御影が帝都の怨念を触媒にし、異界の門から喚び出した最強の絶望。
「……ッ、なんという邪気ですか……」
常に冷徹な楓ですら、その威圧感に目を細め、生太刀を強く握り直した。
見上げるほどの巨体。
漆黒の鱗に覆われた全長数十メートルに及ぶその姿は、六本の太い角が生えた禍々しい頭部、ビルをも砕く質量の尻尾、そして、空間そのものを融解させる呪詛の炎を口の端から漏らす、**『神話級の巨大竜』**であった。
「ギョォォォォォォォォォォッ!!」
巨大竜が咆哮を上げた。
ただの鳴き声だけで、地下空間全体が激震し、強固な防具を装備した鮎たちの身体すらも吹き飛ばされそうになる。
この狭い地下空間において、その質量の暴力と広範囲のブレスは、「絶対的な死」を意味していた。




