『大和撫子の叛逆 ――天照破邪の神
✴︎ 『大和撫子の叛逆 ――天照破邪の神暴風』
帝都・東京の地下三十メートル。
赤黒い瘴気がコンクリートの壁を這い、御影の呪いによって異界と化した冷たい地下道。
霞涼介の血を吐くような絶叫が反響し、本多鮎、花園美羽、風間楓の三人が、涙を振り払いながら暗闇の奥へと駆け出していく。彼女たちの背中が完全に見えなくなるまで、葉室鶴子は美しい黒髪を揺らしながら、一歩も退かずに通路を塞ぐように立ち続けていた。
彼女の目の前には、白い浄衣を纏い、威圧的な神気を放つ五人の初老の男たちが立ち塞がっている。
日本最古の霊的支配者を自認し、霊脈の管理を司る古神道結社『八咫烏』。その中でも、組織の伝統と血統を何よりも重んじ、葉室本家を裏から操る「保守派の長老たち」であった。
「……愚かな。何たる無様ですか、鶴子お嬢様」
中央に立つ、長く白い顎髭を蓄えた筆頭長老が、手にした樫の杖でコンクリートの床を硬く打ち鳴らした。
その一撃だけで、周囲に漂っていた御影の赤黒い瘴気が「バンッ!」と音を立てて弾け飛び、神聖で重厚なプレッシャーが地下空間を支配する。
「葉室の直系たる貴女が、あのような下等なテロリストども……いや、極黒の魔王などという規格外の化け物に魂を魅入られるとは。すぐにお父上(嗣綱)の元へお戻りなさい。我々八咫烏は、このような無意味な化け物騒ぎに深く関わるべきではないのです。貴女には、次代の八咫烏を担うという『血の義務』があるはずです」
長老の言葉は、まるで絶対的な呪縛のように鶴子の鼓膜を打った。
由緒正しき家柄、重い責任、そして「完璧な大和撫子」として生きることの強要。
鶴子は幼い頃から、常にその枠の中に押し込められて生きてきた。感情を殺し、組織の駒として、ただ美しく、ただ強力な神術の使い手として存在する。それが彼女の「当たり前」の日常であり、疑問を抱くことすら許されなかった。
だが。
鶴子は、泥と魔物の返り血で汚れた着物の袖を優雅に払い、スッと背筋を伸ばした。
そして、帯に差していた美しい純白の扇子を抜き放ち、バサリと音を立てて広げた。
「……長老様。確かに私は父から、安全な後方待機を命じられました。八咫烏という組織の『利益』と『損失』を天秤にかければ、それがもっとも合理的で正しい判断なのでしょう」
鶴子の凛とした声が、地下の冷たい空気を震わせた。
その瞳には、かつて「組織の操り人形」であった頃の虚ろな光はない。燃えるような、熱く、確かな『一人の人間』としての意志が宿っていた。
「ですが……あの日。新宿御苑で、天から理不尽な死の光が降り注いだ時。……あの方は、私を突き飛ばし、己の身を挺して、風穴だらけになってまで私を護ってくれました」
鶴子の脳裏に、極限の死地にあってなお不敵に嗤い、「震えて待っておれ!」と言い放った、あの規格外の魔王(持子)の姿が蘇る。
「……あの方は、私のことを『八咫烏の葉室』だから助けたのではありません。ただ一緒に大福を食い、ただ一緒にくだらない話をしただけの……『友』だから助けてくれたのです!」
鶴子は、扇子を持つ手にギュッと力を込めた。
「その『真の友』が、今この冷たい地下の底で苦しんでいるかもしれない時に、己の安全を優先して逃げるなど! 恥を知る者のすることではありません! 私は組織の駒としてではなく、一人の人間として、恋問持子の友としてここに立ちました!」
「血迷ったか、小娘がァッ!!」
筆頭長老が激昂し、顔を朱に染めて怒号を上げた。
「神威の重さ、そして血の掟の恐ろしさを、その身に刻み込んでやる! 生け捕りにしろ! 四肢をへし折ってでも連れ戻すのだ!」
長老の号令と共に、残る四人の長老たちが一斉に印を結び、古神道の祝詞を高速で詠唱し始めた。
「『かけまくも畏き……』」
ドンッ!!
地下道の床が爆発したかのように隆起し、巨大な土の鉾となって鶴子の足元から突き上げられた。八咫烏の誇る強力な属性神術『土遁・岩穿』である。
長年、霊脈の力を引き出してきた長老たちの神術は、ただの土塊ではなく、高密度の霊力が圧縮された「大地の刃」そのものであった。
「シィッ!」
鶴子は咄嗟に後方へ跳躍し、空中で扇子を一閃させた。
「『神風・清嵐』!」
扇子から放たれた不可視のかまいたちが、突き上がってきた岩の鉾を中腹から綺麗に両断する。切り裂かれた岩塊が、重い音を立てて崩れ落ちる。
「甘いぞ、鶴子ォ!」
岩の破片の死角から、二人の長老が左右に展開し、両手から紫電を放った。
「『雷遁・蛇迅』!」
チリチリと空気を焦がす二筋の雷撃が、まるで生きている蛇のように壁や床を這い、鶴子を挟み撃ちにする軌道で迫る。
避ける空間はない。
「『風遁・旋衣』!」
鶴子は着物の袖を翻し、独楽のようにその場で回転した。
彼女の周囲に、竜巻状の高密度な神風の防壁が展開される。二筋の雷撃が風の壁に激突し、激しい火花と雷鳴を散らして弾き飛ばされた。
「……ハァッ!」
防壁を解くと同時に、鶴子は地を蹴り、扇子を刃のように構えて長老たちの懐へ飛び込んだ。
彼女の戦法は、神術による遠距離戦だけではない。風を纏った体術と扇子による近接舞闘術――八咫烏の神楽舞を戦闘に応用した、彼女独自のスタイルである。
「小賢しい真似を!」
迎え撃つ長老の一人が、懐から小太刀を抜き放ち、鶴子の扇子を受け止める。
ガキィィンッ! という硬質な金属音が響く。和紙と竹でできているはずの扇子は、鶴子の極限まで練り上げられた霊力によって、鋼鉄をも凌ぐ硬度を誇っていた。
鶴子は扇子を押し込みながら、空いた左手で印を結ぶ。
「『破魔の息吹』!」
至近距離から放たれた清浄な衝撃波が、長老の身体を吹き飛ばす。
だが、その直後。
「『火遁・紅蓮業火』!!」
背後から、筆頭長老が放った灼熱の炎が、地下道いっぱいに広がって鶴子を飲み込もうとした。
「くっ……!」
鶴子は咄嗟に扇子を広げて風の盾を作るが、五人の熟練の長老たちの息の合った連携攻撃の前に、少しずつ、しかし確実に削られていく。
風の盾を突き抜けた熱波が彼女の白い肌を焼き、着物の裾が焦げる。雷撃の余波で筋肉が痙攣し、舞うようなステップに僅かな遅れが生じ始める。
「ガハァッ……!」
ついに、背後から放たれた岩の礫が鶴子の右肩を直撃し、彼女は大きく体勢を崩して床に転がった。
「そこまでです、お嬢様」
筆頭長老が、冷酷な目で鶴子を見下ろし、杖を突きつける。
「貴女の才能は認めましょう。ですが、我々五人が何十年もかけて練り上げてきた『八咫烏の理』を、若輩の貴女一人が覆せるはずがない。……大人しく、その狂った目を覚ましなさい」
右肩から鮮血を流し、息を荒らげる鶴子。
全身の骨が軋み、霊力は枯渇寸前だった。長老たちの言う通りだ。経験も、出力も、数の有利も、すべてが圧倒的に不足している。
(……ああ。私は、ここで終わるのでしょうか)
霞む視界の中で、鶴子は己の無力さを呪った。
結局、自分は組織の枠を飛び出しても、彼らを護る力など持っていなかったのではないか。
あの時、自分を庇って傷ついた持子の背中に、私は永遠に追いつけないのではないか。
『……フン。これしきの風穴、どうという事はない! わしはこれから、貴様を倒しに行く。だから、震えて待っておれ!!』
――不意に。
鼓膜の奥で、あの日の持子の、傲慢で、狂気に満ちていて、誰よりも気高かった声が再生された。
身体に三つの風穴を開け、向こう側の景色が見えている状態であっても、一歩も退かずに嗤った魔王。
(……そうですわ。あの方は、あんな状態でも戦う意志を捨てなかった)
鶴子は、血で汚れた扇子を杖代わりにして、ゆっくりと、ふらつきながらも立ち上がった。
その瞳の奥で、消えかけていた炎が、再び――否、これまで生きてきた十七余年の人生の中で、最も激しく、美しく燃え上がった。
「……目を覚ますべきは、あなた方の方です、長老様」
「なんだと?」
鶴子は、痛む右肩を押さえながら、静かに、しかし絶対的な確信を持って言い放った。
「あなた方は、霊脈の守護者と名乗りながら、ただ己の血統と組織の保身に縋っているだけです! この帝都に渦巻く本物の絶望(御影)から目を背け、傷つくことを恐れている! そんな臆病者たちに……あの方の往く道を、私の『友』の道を塞がせるわけにはいきませんわッ!」
鶴子は、自身の親指を強く噛み切り、流れた鮮血を純白の扇子に塗りたくった。
それは、古神道における『血の盟約』。自身の生命力そのものを神風の触媒とする、極めて危険な禁呪に近い神術の起動儀式であった。
「……なっ!? 貴女、自らの命を削る気か! 狂気だ、テロリストのために己の血統を捨てるというのか!」
筆頭長老が驚愕に目を見開く。
「ええ、捨てますとも。私の誇り(魂)は、もはやこんな澱んだ組織にはありませんッ!」
鶴子が血に染まった扇子を天高く掲げた瞬間。
地下道に、彼女の命を燃やした凄まじい密度の神気が爆発的に渦巻いた。
それは、八咫烏の本来の始祖たちが持っていたとされる、あらゆる穢れを吹き飛ばす『神の息吹』そのもの。
「やめろォォッ! 全員、最大防御陣を展開しろ!!」
五人の長老たちが顔色を変え、一斉に霊力を集結させて、土と風と雷を編み込んだ強固な多重結界を構築する。
鶴子は、全身から血の汗を流しながら、この一撃に己の人生のすべてを込めた。
「吹き飛べ……!!」
「『八咫烏・秘奥義――天照破邪の神暴風』ェェェェェッ!!!」
鶴子が扇子を全力で振り下ろした。
直後。
狭い地下道に、致死レベルにまで圧縮された「清浄なる暴風」が顕現した。
それはただの風ではない。霊脈の力そのものを物理的な圧力へと変換した、すべてを粉砕し、浄化する神の竜巻である。
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!
暴風が、長老たちの多重結界に激突する。
「ぬ、おおォォォォォッ!?」
「結界が、押し込まれる……ッ!? 馬鹿な、たった一人の小娘の力に、我々五人の霊力が負けるというのか!」
長老たちが血を吐きながら結界を維持しようとするが、鶴子の放つ「命を削った意志の力」は、組織の保身で凝り固まった彼らの呪力を遥かに凌駕していた。
「あの方の……持子様の笑顔を、私はもう一度見るのですわァァァァッ!!」
バリンッ!!
という鼓膜を破るような轟音と共に、長老たちの絶対防護結界が粉々に砕け散った。
「ガアァァァァァァッ!!」
防壁を失った五人の長老たちは、圧倒的な神風の質量を真正面から浴び、コンクリートの壁ごと吹き飛ばされた。彼らの身体は数十メートル後方まで鞠のように転がり、壁にめり込んで、全員が完全に意識を刈り取られた。
「……ハァッ……、ハァッ……」
暴風が収まり、静寂が戻った地下道。
鶴子は、ボロボロになった扇子を取り落とし、そのまま膝から崩れ落ちた。
全身の霊力経路はズタズタに引き裂かれ、血を流しすぎて視界は完全に真っ暗になっていた。指先一つ、いや、呼吸をすることすらひどく痛む。
「……勝った、のですわね……」
血まみれの唇に、鶴子はふわりと、心からの優雅な微笑みを浮かべた。
お堅い大和撫子としての仮面ではない。彼女自身の、一人の少女としての誇り高い笑顔だった。
「……あとは、頼みましたわよ……鮎様、美羽様、楓様……。私の大好きな、無茶苦茶な王様を……どうか……」
薄れゆく意識の中。
暗闇から、音もなく黒装束の集団が現れる気配がした。TIAの風魔裏隠衆である。彼らが、敬意を込めた手つきで倒れた鶴子の身体をそっと抱き上げる。
(……持子様。次に会う時は、また一緒に、あの美味しいケーキを……)
葉室鶴子は、極黒の魔王への純粋な祈りを胸に抱いたまま、深き眠りへと落ちていった。
組織の駒であることをやめ、友のために命を燃やした、美しく、そして気高き大和撫子の勝利であった。




