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『星を喰らう鬼神 ――天曹地府祭』

✴︎ 『星を喰らう鬼神 ――天曹地府祭』


帝都・東京の地下三十メートル。

赤黒い瘴気がコンクリートの壁を這い、明滅する非常灯が頼りなく周囲を照らす薄暗い連絡通路。


「ここは俺たちに任せろォォッ!!」


霞涼介の血を吐くような絶叫が反響し、本多鮎、花園美羽、風間楓の三人が、涙を振り払いながら暗闇の奥へと駆け出していく。彼女たちの足音が完全に遠ざかり、深い地下の静寂が戻るまでの数秒間。

土御門朔夜は、深く、ひどく面倒くさそうな、しかしどこか清々しい溜息をついた。


「……あーあ。行っちまった。これで完全に後戻りはできなくなりましたね」


朔夜は、だらしなく羽織っていたダボダボのカーディガンの袖を、ゆっくりと肘のあたりまで捲り上げた。普段なら絶対にそんなことはしない。彼の信条は「事勿れ主義」であり、極力汗をかかず、面倒事を避け、のらりくらりと平穏に生きることこそが至上の目的だったからだ。

しかし今、彼の目の前に立ち塞がっているのは、その「平穏な人生」を完全にへし折りに来た、国家最強の呪術集団であった。


「朔夜。お前のその怠惰な性格には目を瞑ってきたが、度を越しているぞ」


通路を完全に封鎖するように立ち並ぶのは、狩衣の上に最新鋭のタクティカルベストを着用した、陰陽庁執行部『六壬りくじん』の熟練陰陽師たち十数名。

そして、その陣形の最前列で、無数の式神を宙に侍らせながら朔夜を鋭く睨み据えている初老の男。

六壬の重鎮であり、土御門の分家筋である朔夜の類稀なる才能を誰よりも評価し、彼に陰陽道のすべてを叩き込んだ師匠――土御門泰臣つちみかど やすおみその人であった。


泰臣の放つ霊的なプレッシャーは、この地下に充満する御影の瘴気すらも押し退けるほどに重く、そして清冽だった。彼がそこに立っているだけで、周囲の空気がピンと張り詰め、呼吸をするのすら苦痛に感じる。


「国家に逆らうテロリストであるTIAに与し、あまつさえ特級危険物(恋問持子)の奪還に手を貸すなど、六壬の陰陽師として、いや、土御門の血を引く者としてあるまじき行為だ。今すぐ投降しろ、朔夜」


泰臣の言葉には、確かな弟子への情が滲んでいた。

朔夜の才能は、間違いなく次代の陰陽庁を背負って立つ次元にある。もしここで朔夜が頷き、大人しく縛につけば、泰臣の政治力をもって「潜入捜査の一環であった」と強引に揉み消し、彼を六壬のエリートコースへと引き戻すことも可能だろう。

だが。

朔夜は首をポキポキと鳴らしながら、口元に凶悪で、どこか楽しげな笑みを浮かべた。


「お言葉ですがね、お師匠様。俺はあの大食らいのゴリラ……いや、最高の悪友に、まだ『ラーメン二郎の正しい食い方』を教えてないんですよ」


「……何をふざけたことを言っている」


泰臣の顔に、怒りの筋が浮かぶ。国家の存亡が懸かったこの局面で、ラーメンの話など、狂っているとしか思えなかった。

だが、朔夜は大真面目だった。


「ふざけてなんかいませんよ。あいつはね、俺の適当で、先が見え透いて退屈だった人生に、土足で上がり込んでペースをめちゃくちゃにしやがった。……でも、それが死ぬほど楽しかったんです」


朔夜にとって、世界はあまりにも「簡単」すぎた。

幼い頃から陰陽道のことわりが手にとるように理解でき、他人が何十年もかけて修める術式を数日で模倣できた。だからこそ、彼は本気で努力することをやめ、適当に手を抜いて生きる術を身につけた。どうせ先は読める。どうせ結果は同じだ。そう思って生きてきた。

しかし、恋問持子という規格外の魔王は違った。

彼女の行動は一切の予測が不可能であり、彼女の周囲では常に常識が破壊され、見たこともない景色が広がっていた。完璧な予定表通りに生きていた霞を狂わせ、教義に縛られていた流星を解き放ち、そして、事勿れ主義だった朔夜の胸に「もっとこいつらと一緒に馬鹿をやりたい」という、熱い火を灯したのだ。

朔夜は、カーディガンの内ポケットから、真っ赤な文字で呪が刻まれた十数枚の『特級呪符』を取り出し、指の間に挟み込んだ。


「破門上等。国がどうなろうと、お偉いさんが何を企んでいようと、知ったこっちゃない。俺の式神の全霊を懸けて、冥府魔道だろうが、あいつへの道を切り開いてみせますよ!」


「……愚か者が! お前がその才能を国のために使わぬというのなら、私がここでその翼をへし折る! 執行部隊、捕縛せよ! 殺すな、四肢の自由だけを奪え!」


泰臣の号令と共に、十数名の精鋭陰陽師たちが一斉に真言マントラを詠唱した。


「『オン・キリキリ・ハラハラ・フダラン・パソワカ』!!」


十数枚の呪符が空中に放たれ、それらが瞬時に五行の『火』と『雷』の属性を持った巨大な狼の式神へと変貌する。灼熱の炎と紫電を纏った狼の群れが、狭い通路を埋め尽くすように朔夜へと殺到した。

並の術者であれば、この面制圧の前に霊的防御を張る暇すらなく黒焦げにされるだろう。

だが、彼らが相手にしているのは、六壬が誇る百年に一人の天才である。


「手数が多けりゃいいってもんじゃないですよ、先輩方。陰陽道の基本は『相克そうこく』でしょうが」


朔夜は一歩も動かず、ただ右手の二本の指で挟んだ一枚の青い呪符を、前方へ向かって弾き飛ばした。


「『急々如律令・水陣・玄武乃盾げんぶのたて』」


極めて短い、最小限の詠唱。

しかし、そのたった一枚の呪符から爆発的に膨れ上がった霊力は、通路の床に溜まっていた泥水を瞬時に巻き上げ、極低温に圧縮された巨大な氷の盾を形成した。


ドガァァァァァァァンッ!!

炎と雷を纏った狼の式神たちが氷の盾に激突し、凄まじい水蒸気爆発を起こす。

狭い地下道が真っ白な蒸気に包まれた。視界が完全に奪われる。


「甘いぞ朔夜! 蒸気の目隠しなど、霊視の前では無意味だ!」


精鋭の一人が霊力を目に集中させ、蒸気の中の朔夜の霊的反応を捉えようとした。

しかし、次の瞬間、その陰陽師の背後から、声がした。


「だから、教科書通りすぎるんですよ」


「なっ――!?」


振り返る間もなく、その陰陽師の首筋に、朔夜の手刀が寸止めで叩き込まれた。霊気を流し込まれた陰陽師は白目を剥き、崩れ落ちる。


「空間転移!? いつ印を結んだ!」


「結んでませんよ。あらかじめカーディガンの裏地に『縮地』の陣を仕込んどいたんです。いちいち印を結ぶなんて、面倒くさいでしょう?」


朔夜は蒸気の中で音もなく立ち回り、次々と先輩陰陽師たちの死角に潜り込んでは、彼らの霊的経絡(急所)を的確に突き、あるいは足元の影から這い出させた蛇の式神で拘束していく。


「ギャァッ!」


「くそっ、捉えきれん! 霊力反応が四方八方に分散している!」


「俺の霊力を分与した紙人形デコイを、蒸気の中にばら撒いてるんです。先輩方、霊視に頼りすぎですよ。もっと五感を使ってください」


からかうような朔夜の声が、四方八方から木霊する。

圧倒的な数の不利を、戦術と天才的な呪力操作の効率で完全に覆していた。わずか数分の間に、十数名いた精鋭部隊の半数が無力化され、床に転がっている。


「……いい加減にしろ、朔夜」


ズォォォォォォォォォンッ!!

突如として、地下道の重力が十倍に跳ね上がったかのような、圧倒的な霊圧が押し寄せた。

充満していた水蒸気が、ただの「気合い」だけで跡形もなく吹き飛ばされる。

視界が晴れたその先で、土御門泰臣が、ゆっくりと右腕を天に掲げていた。その周囲には、これまでの式神とは次元が違う、神格すら帯びた二体の巨大な化け物が顕現していた。

全身が灼熱の溶岩で構成された巨大な大蛇、『騰蛇とうだ』。

そして、周囲の空気を凍てつかせる白銀の毛並みを持つ巨虎、『白虎びゃっこ』。

六壬のトップに君臨する男が使役する、十二神将の最高位クラスの式神である。


「……げっ。いきなりそれ出すんですか。大人げないなぁ、お師匠様」


朔夜は額に冷や汗を浮かべ、反射的に後方へと跳躍した。


「小細工で私の部下をあしらった程度で、勝った気でいるな。お前の底の浅さは、実戦経験の乏しさにある!」


泰臣が腕を振り下ろす。


「喰らえ! 『騰蛇・焦熱地獄』!」


ゴオォォォォォォォォォッ!!

大蛇の口から、地下道のコンクリートすらもドロドロに融解させる、絶対的な火力の業火が放たれた。それは、先ほどの精鋭部隊の炎とは比べ物にならない。回避する空間すら残されていない、完全な面制圧。


「チィッ……! 『五重・金剛防壁』!!」


朔夜は両手で瞬時に印を結び、五枚の特級呪符を同時に展開して分厚い霊的防壁を何重にも構築した。

だが。

バリンッ、ガシャンッ! というガラスが砕けるような音と共に、朔夜の絶対防壁が第一層、第二層と、瞬く間に溶かされ、破られていく。


「くっ、あぁぁぁっ!」


防壁を貫通した熱波が朔夜の全身を焼き、カーディガンが焦げ、白い肌が水膨れを起こす。

なんとか五層目で業火を相殺したものの、朔夜は激しいダメージに膝をつき、口からボワッと黒い煙を吐き出した。


「ハァッ……ハァッ……。相変わらず、理不尽な火力だ……」


「まだ終わらんぞ。『白虎・真空刃』!」


息をつく暇もなく、今度は白虎が前足を振り下ろした。

空気が圧縮され、目に見えない無数の「真空の刃」となって朔夜へと襲いかかる。


(躱せない……ッ!)


朔夜は咄嗟に腕で顔を庇うが、真空の刃は彼の衣服を切り裂き、腕や脚、頬に無数の裂傷を刻み込んだ。


「ガハァッ……!」


鮮血が宙に舞い、朔夜の身体が後方へと弾き飛ばされ、無様に床を転がる。


「……終わりだ、朔夜」


泰臣は、騰蛇と白虎を従え、倒れ伏す弟子を見下ろした。


「お前の才能は認める。だが、才能だけで越えられるほど、陰陽道も、世界も甘くはない。圧倒的な『格の違い』というものを、身を以て理解しただろう。さあ、大人しく呪符を捨てろ」


床に倒れたまま、朔夜は血だらけの顔を歪め、浅い呼吸を繰り返した。

全身の骨が軋み、肉が焼け焦げ、指一本動かすのすら億劫だった。


(……あーあ。やっぱり、ダメか。お師匠様には、どう足掻いたって敵わない)


いつもの朔夜なら、ここで絶対に諦めていた。

「負けました、降参です」と両手を挙げて、痛みを避けるために平穏な道を選んでいたはずだ。

だが。

朔夜の脳裏に、理不尽で、横暴で、めちゃくちゃで、最高に輝いていた持子と仲間たちの姿がフラッシュバックする。

国家のテロリストになってまで道を切り開いている霞。神の教義を捨てて拳を振るう流星。組織の掟を破って扇を振るう鶴子。

そして、あいつ。

大食らいの暴君。

自分を庇って、穴だらけになって、血みどろになってまで「震えて待っておれ!」と嗤った、あの規格外の背中。


(……あいつらが、命懸けで走ってんのに……俺だけがここで「面倒くさいから」って寝転がってるなんて……後で何て言われるか分かったもんじゃねえな)


「……ふっ、はははっ」


朔夜は、血だらけの唇から笑い声を漏らしながら、ゆっくりと、ゆらりと立ち上がった。


「……まだ立つか。これ以上は、命に関わるぞ」


泰臣が険しい表情で警告する。


「お師匠様。あなたは間違っちゃいない。国の秩序を護るのも、才能ある若者を更生させようとするのも、正しい大人のやり方だ。……でもね」


朔夜は、ダボダボのカーディガンを完全に脱ぎ捨て、ワイシャツの袖を引きちぎるように捲り上げた。

そして、彼はゆっくりと、自身の親指を強く噛み切り、ツーッと流れた鮮血を、一枚の『漆黒の呪符』に塗りたくった。

それを見た瞬間、泰臣の顔から血の気が引いた。


「ま、まさか朔夜! お前、その術式は……ッ! やめろ、それを未完成のまま使えば、お前の霊的経絡が焼き切れるぞ! 下手をすれば寿命が――」


「ええ、知ってますよ。だから今まで、面倒くさくて一回も使ってこなかったんです」


朔夜は、血に濡れた漆黒の呪符を両手で挟み込み、目を閉じた。

彼がこれから行おうとしているのは、土御門の秘伝中の秘伝。いや、歴史の中でその危険性ゆえに封印されてきた、禁忌の大呪術であった。


「事勿れ主義の俺が、自分の寿命イノチを前借りしてまで、バカやりたいと思える連中に出会えたんですよ。……これ以上の『大正解』の人生なんて、他にありますか?」


朔夜がカッと目を見開いた瞬間。

彼の髪の毛先が、霊力の過剰な抽出によって一瞬にして「真っ白」に染め上がった。

目、鼻、口から一斉に鮮血が噴き出し、朔夜の身体が内側から崩壊しかける。だが、その凄絶な痛みを、彼は狂気じみた笑顔でねじ伏せた。


「『土御門裏禁呪・天曹地府祭てんそうちふさい――命数前借めいすうまえがり』!!」


朔夜の絶叫と共に、彼が放った漆黒の呪符から、文字通り「星の輝き」を凝縮したような、圧倒的な高密度の霊力が爆発的に解放された。


「狂ったか、朔夜ァァッ!」


泰臣が騰蛇と白虎を同時に突撃させる。

巨大な火蛇と白虎が、朔夜を食い殺そうと迫る。


「顕現せよ、星を喰らう鬼神ッ!」


朔夜の背後の空間が裂け、そこから巨大な、漆黒の甲冑を纏い、六本の腕を持つ『鬼神きじん』の式神がその半身を現した。

朔夜の寿命を代償にしてのみ顕現を許される、規格外の禁忌の化身。


「オォォォォォォォォォッ!!」


鬼神の咆哮が、地下道を激震させる。

鬼神の六本の腕が、迫り来る騰蛇の首を鷲掴みにし、白虎の牙を素手で受け止めた。


「なんだとッ!? 十二神将が、力負けしているだと!?」


泰臣が驚愕の声を上げる。


「行けェェェェッ!!」


朔夜が両腕を突き出すと同時に、鬼神が騰蛇と白虎を力任せに壁へと叩きつけ、そのままの勢いで泰臣の展開していた数十層に及ぶ『絶対防護結界』へと突撃した。


ガァァァァァァァァァンッ!!!


陰陽術の極致と、禁忌の術式の真っ向衝突。

周囲のコンクリートの壁が粉々に吹き飛び、地下道の天井が崩落し始める。御影の瘴気すらも、その霊力爆発の余波で完全に浄化され、一帯が純白の光に包まれた。


「ぐ、おォォォォォッ……!」


光の中で、泰臣の絶叫が響いた。

彼が全霊を込めて維持していた結界が、鬼神の圧倒的な質量と呪力によって、ついにガラスのように粉砕されたのだ。

爆風が泰臣の身体を弾き飛ばし、彼は壁に激突して、そのまま意識を刈り取られた。


「……ゴハッ、ゲホォォッ……!!」


同時に、術の代行者である朔夜の身体も、ついに限界を迎えた。

鬼神の姿が霧のように消散すると共に、朔夜は大量の血を吐き出し、膝から崩れ落ちた。


「……ハァッ……ハァッ……」


視界は真っ赤に染まり、全身の感覚はすでにない。毛先が白く変色した髪が、べっとりと額に張り付いている。

前方の土煙が晴れ、泰臣や六壬の精鋭たちが全員倒れ伏しているのを確認すると、朔夜は壁に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。


「……あーあ。ホントに、寿命縮んじまったな……」


それでも、彼の口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。

これで、背中の道は守った。鮎たちは、きっとあいつの元へ辿り着いてくれるだろう。


「……たく、面倒くさいこと、させやがって……。後で、絶対……二郎の全マシマシ、奢らせてやるからな……持子……」


意識が完全に暗闇に沈む直前。

黒装束に身を包んだTIAの風魔裏隠衆たちが、音もなく現れ、倒れた朔夜の身体をそっと抱き上げるのが見えた。


(……頼むぜ。鮎さん、美羽ちゃん、楓ちゃん。……あいつを、連れ戻してくれ)


土御門朔夜は、最高の悪友への純粋な祈りを胸に抱いたまま、深き眠りへと落ちていった。

事勿れ主義を捨てて得た、一人の人間としての、気高く美しい勝利であった。


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