『叛逆の重力 ――エリート官僚、殿を務める』
✴︎ 『叛逆の重力 ――エリート官僚、殿を務める』
帝都・東京の地下三十メートル。
赤黒い瘴気が粘液のように壁を這い、明滅する非常灯だけが頼りの薄暗い連絡通路。
「ここは俺たちに任せろォォッ!!」
霞涼介の血を吐くような絶叫が、狭い空間に反響した。
その声に背中を押され、本多鮎、花園美羽、風間楓の三人が、涙を振り払いながら暗闇の奥へと駆け抜けていく。彼女たちの足音が完全に遠ざかるまで、霞は一歩も退かずに通路のど真ん中に立ち塞がっていた。
彼の目の前に展開しているのは、国家の暗部を担う内閣府・第七神祇課『彼岸花』の精鋭・暗殺部隊。黒い特殊防護スーツに身を包んだ六人の工作員と、その中心に立つ冷徹な男――霞の直属の上司であり、彼に特殊工作と近接格闘(CQC)のすべてを叩き込んだ霧島隊長である。
「……愚かだな、霞。テロリストの小娘たちを逃がして、お前一人で我々を止められるとでも計算したのか?」
霧島の声には、一切の感情が乗っていなかった。任務を遂行する機械としての、絶対的な冷たさ。
「お前の脳は、内閣府でも一、二を争うほど優秀だったはずだ。常に勝率とリスクを天秤にかけ、最も合理的で『完璧な予定表』を弾き出す。そのお前が、勝率ゼロの壁となって無駄死にを選ぶとはな」
霧島の言う通りだった。
かつての霞涼介は、エリート官僚として分刻みのスケジュールで生き、すべてをエクセルシートの枠内に収めるような男だった。不確定要素を嫌い、感情で動く人間を見下していた。
「……ええ。俺の計算でも、今の俺の勝率は限りなくゼロに近い。合理的じゃないし、大赤字もいいところだ」
霞は、ひび割れた銀縁眼鏡を中指で押し上げ、口角を歪めて獰猛に笑った。
「だがな、隊長。俺の完璧なエクセルは……あの日、時価五万円のメロンパフェを前菜代わりに食い尽くし、俺のスケジュールを秒で破り捨てた、あの規格外の化け物(持子)に出会った日に、完全にバグっちまったんですよ」
霞の脳裏に、ジャンクバーガーを口の周りにソースをつけて頬張り、涙を流して大爆笑していた持子の姿が浮かぶ。
「予定調和の未来なんて、クソ食らえだ。俺は、あのくだらない日常を、あいつのバカみたいな笑顔をもう一度見るためだけに、自分のすべてをドブに捨ててここに来たんだ!」
霞は両腕のガントレットと、両足のミリタリーブーツに仕込まれた『重力呪具』の起動スイッチを叩いた。
旧帝國の遺産【八雷神】の技術を転用したその呪具は、使用者の霊力を代償に、接触した物体の質量や、自身にかかる重力のベクトルを自在に操作する。
ブゥンッ、と空間が軋むような低い駆動音が鳴り響き、霞の周囲の瓦礫がフワリと宙に浮き上がった。
「邪魔をするなら、あんたらの頭蓋骨ごと、その腐った国家の予定表を粉砕してやるッ!」
「……ならば、死で精算しろ。不良債権」
霧島が指を鳴らした瞬間、六人の暗殺部隊が光学迷彩を作動させ、空間に溶け込むように姿を消した。
彼岸花の基本戦術、見えない死角からの同時多発的暗殺術。
だが、霞の超優秀な頭脳は、彼らの戦術などとうの昔にインプット済みだった。
「遅いッ!」
霞は自身の体重にかかる重力を『ゼロ』に設定し、壁を蹴って天井へと跳躍。
直後、彼が立っていた場所に三本の不可視の呪刃が突き刺さる。霞は天井に張り付いたまま、眼下の僅かな空気の揺らぎを計算式で弾き出した。
「そこだ!」
右腕の重力呪具の出力を『三十倍』に設定し、天井から急降下しながら拳を振り下ろす。
ドゴォォォォンッ!!
空気を圧縮した重力の拳が不可視の工作員の一人を直撃し、床のコンクリートごとすり鉢状に粉砕した。迷彩が解け、血を吐いて気絶する部下。
「一人! 次ッ!」
休む間もなく、霞は左足の重力ベクトルを前方へ向け、文字通り弾丸のような速度で水平にすっ飛ぶ。CQC(近接格闘)の間合いに入り込んだ別の二人の工作員の首を、重力を乗せた回し蹴りで同時に刈り取った。
「舐めるな、裏切り者が!」
残る三人が姿を現し、四方から高出力のスタンバトンと呪符を放つ。
「『重力反発』!」
霞は全方位に重力波のドームを展開し、すべての攻撃を弾き返す。その反動で生じた隙を見逃さず、瞬動のステップで懐に入り込み、掌底で次々と三人の肋骨を粉砕していった。
わずか数十秒。
圧倒的な計算力と重力操作の完璧な連携により、霞は六人の精鋭を無力化してのけた。
「……ハァッ、ハァッ……」
しかし、霞の息はすでに絶え絶えだった。重力呪具の連続使用は、術者の霊力と肉体に凄まじい負荷(G)をかける。彼の両腕はすでに内出血で赤黒く腫れ上がっていた。
パチパチパチ、と。
暗闇の中から、乾いた拍手が響く。
霧島が、悠然とした足取りで歩み出てきた。彼もまた、霞と同じ、いや、それ以上に禍々しい漆黒の重力ガントレットを両腕に装着していた。
「見事だ。私の教えた重力CQCを、ここまで完璧にトレースするとはな」
「……お褒めにあずかり、光栄ですね」
「だが、お前の動きはすべて私の『計算内』だ。感情で動く人間は、必ずどこかで合理性を欠き、破綻する」
ドンッ!
霧島が軽く踏み込んだ瞬間、霞の視界から彼の姿が消えた。
(速いッ!? いや、自重をマイナスにして初速を――)
思考が追いつく前に、霞の腹部にダンプカーが激突したような衝撃が走る。
「ガハッ……!?」
霞の身体が「く」の字に折れ曲がり、十メートル以上後方のコンクリート壁に深々と叩きつけられた。壁にクレーターができ、背骨が軋む。
「ゲホッ、ゴホォッ……!」
大量の血を吐き出し、膝をつく霞。その頭を、霧島の重力を乗せた冷酷なブーツが踏み躙った。
「お前は賢すぎた。だからこそ、自分の命を削るような『非合理的な手』を無意識に避けている。それがお前の限界だ、霞」
霧島は右手のガントレットに出力を集束させる。空間が黒く歪み、超重力の球体が形成されていく。これを頭部に受ければ、文字通りミンチになる。
「あのテロリストの少女の夢でも見ながら、死ね」
霧島が右腕を振り下ろした。
絶対の死が迫る、コンマ一秒の世界。
(……非合理的、か)
霞の脳裏に、赤城室長から命令された時のことが蘇る。
『軌道兵器の射線上にいる持子を押さえ込め。国のために死ね』――あの時、もし合理的に計算していれば、自分は確実に持子を見殺しにしていた。
だが、あの時の自分は、思考を放棄して彼女を突き飛ばしたのだ。
(ああ、そうだ。俺はもう……バカになったんだよッ!)
「『リミッター・強制解除』ェェェッ!!」
霞は、絶対に超えてはならない重力呪具の安全装置を、物理的に破壊した。
瞬時に、致死量の霊力が呪具に吸い取られ、霞の全身の毛細血管が破裂し、目、鼻、口から鮮血が噴き出す。
だが同時に、彼を縛り付けていた霧島の重力による拘束が、より強大な霞の『超重力』によって反発し、霧島の身体がわずかに宙へ浮き上がった。
「なっ……!? 貴様、命を捨てる気か!」
霧島の完璧な計算式が、初めて崩れた瞬間だった。
「アアアアアアアアアァァァッ!!」
霞は、踏みつけられていた床を素手で握り潰し、その反動で跳ね起きた。
霧島が慌てて放った超重力の球体を、霞は避けない。避ければ、後ろへ進んだ鮎たちへの通路が崩落するかもしれないからだ。
バキィィィィッ!!
霞は、超重力の直撃を、あろうことか『顔面』で受け止めた。
トレードマークであった銀縁眼鏡が粉々に砕け散り、左目の視界が鮮血で完全に潰れる。頭蓋骨にヒビが入る凄まじい激痛。
だが、霞は一歩も退かず、逆にその重力を利用して前傾姿勢を保ち、右腕に己の残存霊力と生命力のすべてを込めた。
「俺の予定表は……あの時、書き換わったんだよッ!」
霞の渾身の重力右ストレートが、空中で体勢を崩した霧島の腹部――強固な防護スーツの装甲を紙のように貫通し、その内臓へと直接、絶死の超重力を叩き込んだ。
「ガァァァァァァァァッ!!?」
霧島の絶叫が響き渡る。
内側からの重力崩壊を受けた霧島の身体は、弾け飛ぶように後方へ吹き飛び、壁を二つ、三つとぶち抜いて瓦礫の山へと沈黙した。
「……ハァッ……ハァッ……。チェック、メイト、だ……隊長……」
霞は右腕をだらりと下げたまま、荒い息を吐いた。
すでに呪具は完全にショートし、両腕の骨は砕け、立っているのが不思議なほどの満身創痍だった。
「……やり、やがったな、バカ官僚が……」
瓦礫の中から、同じく血まみれになり、完全に戦闘不能となった霧島が掠れた声でこぼす。
「あの、霞涼介が……こんな、計算に合わない真似を、するとはな……」
「……計算、外のことが起きるから……人生は、面白いんですよ……」
霞はふっと笑みをこぼすと、ついに限界を迎えた身体から力が抜け、冷たいコンクリートの床へと仰向けに倒れ込んだ。
砕けた眼鏡の破片が、足元でキラリと光る。
薄れゆく意識の中。
暗闇から、音もなく複数の影が現れるのが見えた。
「……霞殿。見事な殿でござった」
TIAの下部組織、風魔裏隠衆の忍びたちである。彼らが、倒れた霞を素早く担ぎ上げる。
「……あとは、頼む……。絶対、に……あいつを……」
バカみたいに口の周りを汚して笑う、大食らいの魔王。
あいつの顔を思い浮かべながら、霞涼介は誇り高く、深い眠りの底へと意識を沈めていった。




