『魔王の母、世界を動かす』
✴︎『魔王の母、世界を動かす』
帝都の空を焼いた天の断罪から数十分後。
株式会社スノーの社長室は、冷たい静寂に包まれていた。
立花雪は、主を失って静まり返った暗い部屋の中で、己の腕を刃で切り裂き、呪盤に大量の血を滴らせていた。政府の軌道兵器と通信網を掌握するための極めて高度なハッキングと並行し、彼女はもう一つの「特別な回線」を開くための儀式を行っていたのだ。
雪の血と途方もない呪力が空間を歪め、空中に血の赤を帯びた水鏡のような『魔術回線』を形成していく。不老の命と魂を削るその苦痛すらも、今の彼女にとっては、娘を奪われた怒りと焦燥を紛らわすための鎮静剤に過ぎなかった。
繋いだ先は、日本から一万キロ近く離れたフランス・パリ。
時差により、東京が夜の闇に沈みゆく頃、パリはまだ太陽が高く昇る昼下がりであった。
世界的ブランド『リュクス・アンペリアル』の若き女帝であり、前世で董卓(持子)に仕えた忠臣「李儒」の魂を持つ、エレーヌ・リジュの豪奢な執務室。
その時、リジュは執務室の奥にあるプライベートルームのソファで、荒い息を吐きながら身を横たえていた。
数十分前、彼女は突如として心臓を素手で握り潰されるような激痛と喪失感に襲われ、意識を失いかけていたのだ。それは、パリのレセプションパーティーで持子と魂の念話を通わせ、主従の絆を永遠のものとした彼女だからこそ感じ取れた、遠く離れた異国にいる『王の危機』であった。
「……はぁっ、はぁっ……! 王に、一体何が……っ!」
冷や汗を流しながら身を起こそうとしたリジュの目の前で、突如として空間が赤黒く歪み、空中に水鏡のモニターが顕現した。
そして、その鏡面越しに、血に濡れた腕を持つ立花雪の姿が映し出されたのである。
『――リジュ。聞こえるかしら』
「嘘でしょ……雪!?」
リジュは驚愕に目を丸くし、ソファから弾かれたように立ち上がった。
彼女は持子の親友であり、有能な保護者である雪に絶対の信頼を置いていたが、雪のことは「極めて優秀な一般人のビジネスウーマン」だとばかり思っていた。魔術の素養など微塵も感じさせないほど、雪の隠蔽術が完璧だったからだ。
「なぜ私の部屋に空間魔術が……っ!? まさか雪、あなたが術者なの!? 一般人ではなかったの!?」
パニックに陥りかけるリジュ。だが、雪の声はどこまでも冷徹で、そして深い威厳に満ちていた。
『落ち着きなさい、リジュ。……持子は今、東京の地下深くにある「魔界」へ攫われたわ。それに……見知らぬ少年に唇を奪われ、花嫁にされようとしているの』
「ッ……!! なんですって……!? だから私の魂が、あれほどの王の危機を叫んでいたのね……っ!」
『ええ。これから帝都の地下で、大規模な奪還作戦を開始する。そのために、あなたの力が必要なの』
雪の極めて静かで、有無を言わせぬ絶対的な声色に触れ、リジュはハッと息を呑んだ。
そして即座に呼吸を整え、冷徹な参謀の顔を取り戻す。
「……状況は理解したわ。私に何をさせたいの?」
『東京の裏社会を束ねる「龍胆組・霊学会」をはじめとした、中立の荒くれ者たちを根こそぎこちらに寝返らせる。彼らを札束で物理的に殴りつけて、戦線に投入するわ。だから……今すぐ、エレーヌの流動資産を、私のダミー口座へ送金してちょうだい』
その桁外れの要求に対し、リジュは一秒の躊躇も見せなかった。
「承知したわ。リュクス・アンペリアルの全資産を動かして、即座に手配する。……でも、雪」
通信越しに、リジュの鋭い視線が雪を射抜いた。
「あなたから放たれるその呪力の底知れなさは、人間の枠を遥かに超えているわ。我が王の母代わりであり、私の親友でもあるあなたに、これ以上の隠し事はしてほしくない」
雪は、血に濡れた己の指先を静かに見つめた。
……そうね。これだけの無茶を通すのだ。親友の誓いを交わした彼女に、真実を隠したまま利用するような真似はできない。
「……長くなるけれど。聞いてちょうだい、リジュ」
雪は小さく息を吐き、静かに語り始めた。
「私の正体は、遥か昔に人魚の肉を喰らい、不老の呪いを受けた陰陽師よ。長すぎる年月は確実に私の魂を摩耗させ、ついには何もかも放り出して世捨て人になっていたわ」
「……不老の、陰陽師……」
「ええ。でも数年前、恩人である男の遺言で、天涯孤独となった持子を引き取ることになった。その時、愛する者を失い、怯え震えるあの子の孤独な姿が、永い時をたった一人で生きてきた私自身の魂と完全に重なったの」
雪の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「凍りついていた私の心に、その時初めて、激しい『母性』が目覚めたの。あの子を抱きしめた時……救われたのは持子ではなく、他ならぬ私自身の魂だったのよ」
雪は己の胸を、痛いほどに強く握りしめた。
「本当の母親にはなれないかもしれない。けれど、この子が一人前になるまでは、ずっと傍にいてやりたい。だから長い人生で蓄えた資産でこの会社を立ち上げ、あの子を育て上げた。これが、私のすべてよ、リジュ。……私は、あの子の往く道を邪魔するすべてを排除する」
雪の告白に、通信の向こう側のリジュもまた、静かに涙を流していた。
忠臣として王を愛する彼女には、雪のその痛切な愛の深さが、痛いほどに理解できたのだ。
「……雪。」
リジュの声には、一切の迷いがなかった。
「あなたの真実、そして王への底知れぬ愛、確かに受け取ったわ。あなたの親友として、私のすべてを懸けてあなたを支援する。今すぐ、スイス銀行と裏社会のすべてのダミー口座を直結させるわ。東京のならず者たちに、リュクス・アンペリアルの財力を思い知らせてやりなさい」
「……ありがとう、リジュ」
「武運を。愛する王を、必ず連れ戻して」
通信が切れ、社長室に再び静寂が戻った。雪は即座に裏社会の掌握へと動き出す。
だが、パリに取り残されたリジュの動きは、単なる「資金援助」だけでは終わらなかった。
王が危機に瀕しているのだ。金だけ送って指をくわえて見ているなど、忠臣・李儒の魂が許すはずがない。
「……資金力で東京の裏社会を動かすのは雪に任せる。なら、私はヨーロッパから『最強の物理的暴力』を送り込むまでよ」
リジュは執務室のデスクに戻ると、真っ先にヨーロッパの裏社会を統べる真祖の吸血鬼、エティエンヌへと連絡を入れた。
かつて持子に一目惚れしてプロポーズするも、理不尽な暴力で粉砕され、究極の「ドM」ストーカーとして覚醒。果ては持子に愛されるためだけに自らの肉体を魔術で改造し、息を呑むほど美しい絶世の金髪美女(♀)へと女体化してしまった、あの規格外の化け物である。
『……あら、リジュ。わたくしに何の用かしら? 今、忙しいのだけれど』
甘ったるい女声で電話に出たエティエンヌに対し、リジュは単刀直入に告げた。
「エティエンヌ。持子様が、東京の地下深くの魔界に攫われたわ。見知らぬ少年に唇を奪われ、花嫁にされようとしている」
ガチャンッ!!
電話の向こうで、城の窓ガラスがすべて粉砕される凄まじい音が響き渡った。
『……は? わたくしの、わたくしだけの女神の、唇が、奪われた……? しかも、花嫁ですって……!?』
底知れぬ真祖の殺意が、電話越しでも肌を刺すほどに膨れ上がる。
『許さない……絶対に、万死に値するわ! 今すぐ東京へ飛ぶわよ! わたくしの愛で、持子様を救い出してみせるわぁぁっ!!』
「ええ、存分に暴れなさい。……それともう一つ」
リジュは電話を切り、次にもう一つの「劇薬」へと回線を繋いだ。
それは、ヨーロッパの裏社会で最も恐れられる最強の異端審問官傭兵軍団のトップ。
『聖女』ベアトリス・ド・ロシュフォールである。
『……何の用だ、リュクス・アンペリアルの小娘。我々異端審問官は、安い仕事は受けないぞ』
低く、血の匂いが漂うような女の声。
「安い仕事なものか。白紙の小切手を切るわ。報酬はあなたの言い値でいい。今すぐ、あなたの傭兵軍団の全戦力を東京へ送り込みなさい。ターゲットは、帝都の地下に巣食う怨霊の黒幕よ」
『ほう……? 極東の島国で、大立ち回りとはな。悪くない』
「ただし、絶対に救出すべき『王』がいる。……持子様よ。彼女に指一本でも触れたら、報酬はゼロよ」
その名を聞いた瞬間、電話越しのベアトリスの息遣いが、ピタリと止まった。
『……あの、規格外の化け物か』
低い声に、微かな震えと、そして抑えきれない熱が混じる。
かつてベアトリスは、持子と刃を交え、完膚なきまでに敗北した。絶対に死を覚悟したその時、ベアトリスの顎をすくい上げ、こう告げたのだ。
「……こんなに美しい顔を、血で汚すのは野暮というものだ」
そう笑って慈悲をかけ、命を取らなかった。異端を狩る冷酷な審問官として血塗られた道を歩んできた彼女にとって、その圧倒的な強さと気まぐれな優しさは、決して忘れられない、重すぎる『借り』だった。
『……小切手は破り捨てておけ、小娘』
「どういうこと? 報酬が不満?」
『逆だ。あの時、彼女に拾われたこの命。いつか必ず借りを返さねばと、ずっと業火の中で燻っていたのだ。……持子が危機に瀕しているというなら、これはビジネスではない。「聖戦」だ』
ベアトリスの声から傭兵としての打算が完全に消え失せ、狂信的なまでの熱情が溢れ出した。
『異端を焼き尽くす我らの炎、今こそあの御方のために無償で振るおう。全軍に出撃を命じる』
リジュは即座に、シャルル・ド・ゴール空港に二機の超大型プライベートジェットを手配した。
一機は、愛する女神を救うためならすべてを破壊する、女体化した真祖吸血鬼エティエンヌとその眷属たちを乗せるため。
もう一機は、かつて命を救われた恩義に報いるためなら自らの命すら喜んで投げ出す、『聖女』ベアトリス率いる最強の異端審問官傭兵軍団を乗せるため。
決して交わらぬ「愛の狂気」と「恩義の狂信」、二つの規格外の暴力が、もし同じ機内にいれば日本に着く前に殺し合いになりかねない。だからこその、完全分離の特別フライトである。
「……待っていてください、我が王。ヨーロッパからの最強の援軍が、今そちらへ向かいます」
リジュはパリの空を見上げながら、深く祈りを捧げた。
東京の地下で繰り広げられる地獄の総力戦に、さらなる規格外の化け物たちが、空を超えて参戦しようとしていた。




