『影の絶対君主と、奪還の狼煙』
✴︎『影の絶対君主と、奪還の狼煙』
恋問持子が攫われたという報せは、瞬く間に東京の裏社会と政府機関を駆け巡った。
制御不能の特級危険物であり、世界の命運を握る「魔王」の喪失。本来ならば、国家中枢が恐慌を来してもおかしくない未曾有の事態である。
しかし、事態は単なる「特級危険物の喪失」というパニックだけでは済まなかった。
内閣府の地下深層。第七神祇課『彼岸花』の専用オペレーションルームにて、室長である赤城太郎は、いくつものモニターに映し出される絶望的な報告書の数々を、銀縁眼鏡の奥の冷たい瞳で見つめていた。
「……なるほど。御影による地下空間の魔界化、および軌道兵器『天叢雲』のコントロール奪取、ですか」
赤城の声には、微塵の動揺もなかった。
彼は「国家の調整官」である。政治家や官僚の顔色をうかがいながら、霊的事件の被害を最小限に、あるいは「初めからなかったこと」に抑え込む冷徹な実務家だ。多種多様な民間クランを「ギルド」として競わせ、資金や事後処理と引き換えに危険な任務を押し付けるシステムを構築し、彼らを「安価な使い捨ての駒」として利用してきた。
その彼にとって、今回の事態――すなわち、自身が独断で起動させた極秘の軌道兵器のメインシステムが第三者(実際は株式会社スノーの立花雪だが、赤城はTIAによるものと推測していた)にハッキングされ、さらに自身の直属の部下である霞涼介が命令に背いたという事実は、本来ならば自身の首が飛ぶどころか、国家転覆に等しい大失態である。
だが、赤城の優秀すぎる官僚的頭脳は、この絶体絶命の盤面を、瞬時に「最高の政治的カード」へと変換していた。
「室長、総理大臣と官房長官から急ぎのホットラインが……! 現場の被害状況と、天叢雲の不発について説明を求められています!」
血相を変えたオペレーターが叫ぶ。赤城はネクタイを締め直し、マイクのスイッチを入れた。
『――ご安心ください、総理。事態はすべて、私の想定通りに進んでおります』
滑らかで、一切の感情を排した声。赤城は息を吐くように、巨大な絵図を描き始めた。
『新宿御苑における霊子レーザー兵器の運用は、テロ組織による妨害工作に遭いました。妨害を行ったのは、民間霊的組織【高田馬場囲碁愛好会(TIA)】。彼らは国家の防衛システムをハッキングし、兵器の射線上に割り込んだのです。……ええ、そうです。彼らはかねてより旧帝國の危険な遺産を不法に占有し、国家の統制を脅かしていました。私はこれを機に、TIAを**「国家に対するテロリスト組織」**として公式に認定し、徹底的な武力鎮圧を行うべきだと具申いたします』
赤城の瞳の奥で、冷酷な野心が光る。
TIAが『八雷神』の技術を小出しにして得ていた不可侵権。それが目障りだった。この非常事態に乗じてTIAをテロリストに仕立て上げ、自衛隊の武力で制圧すれば、彼らが秘匿するすべての技術を国家が合法的に接収できる。御影による帝都滅亡の危機すらも、赤城にとっては国家主導の完全なる管理体制を築くための「便利な口実」に過ぎなかった。
『同時に、御影という存在や地下の霊的災害については、一般市民から完全に隠蔽します。カバーストーリーは「地下鉄構内における大規模な有毒ガス漏れおよび大規模な地盤沈下」で統一。都内の地下鉄や地下道、地下街はすべて通行止めおよび立ち入り禁止とします。……はい。すべては、国体を護るためです』
通信を終えた赤城は、次なるカードを切った。
「極暑の山本一佐へ通信を繋げ。大義名分は与えられたぞ、と」
数分後、地上ではテロ組織討伐の大義名分を得た自衛隊・特殊作戦群『対特殊武器衛生隊(通称:極暑)』が、地響きを立てて動き出していた。
指揮を執る山本貞二郎一等陸佐は、徹底した火力至上主義者である。彼はかねてより、TIAが持つ『八雷神』の完全な技術情報を国が管理すべきだと考えており、民間であるTIAを快く思っていなかった。
「全車両、前進! 我が国の誇る火力で、無法者どもを制圧せよ!」
山本の号令のもと、主砲に「霊素圧縮徹甲弾」を採用した『10式戦車改(魂喰らい)』や、物理透過能力を持つ怨霊を捕捉する『16式機動戦闘車(不知火)』など、旧帝國の遺産と現代兵器を融合させた「対・超自然重装甲部隊」が、次々とTIAおよびその協力クランの地上拠点へと制圧に向かったのだ。
しかし、国家の動きに対するTIA代表・風間助平の対応は、神速を極めていた。
赤城がテロリスト認定の手続きを踏むよりも早く、彼らは新宿・高田馬場の拠点を即座に放棄。東京の地下深くに存在する**『大日本帝國 陸軍第九式・霊的國防機関【八雷神】』の遺産である、堅牢な巨大地下秘密基地**へと、司令部の全機能を完全移行させていたのである。
さらに、TIAの連携網は強固だった。彼らに協力する古神道結社『八咫烏』、修験道集団『鳳翼山伏衆』、仏教系権威『曼荼羅浄土門』の三組織も、自衛隊の重装甲部隊が到着するよりもはるか前に、拠点である神社や寺などの宗教施設から「完全撤退」を完了していた。
自衛隊の戦車が重低音を響かせて包囲した施設は、すでにもぬけの殻であり、物理的な破壊を免れる形で無傷のまま自衛隊へ引き渡されることとなった。山本一佐の武力行使は、見事に空を切らされたのだ。
一方、国家の治安維持を担うもう一つの要、警視庁。
内閣府からは当然、「TIAおよび協力組織の構成員をテロリストとして拘束せよ」との強硬な指示が下っていた。
しかし、警視庁・公安部『特殊呪歌対策課』の葛西研二課長は、薄暗い執務室で報告書を眺めながら、忌々しげに舌打ちをした。
自衛隊の重武装展開が「過剰」であると批判的で、常に現場の被害を最小限に抑えようと奮闘する葛西にとって、赤城の強引なやり方は到底看過できるものではなかった。おまけに、彼はTIAの風間助平とは古い事件で協力した腐れ縁がある。
「……ったく。上が勝手に踊狂って、現場に泥を押し付けやがって。適当にやっておけ」
葛西は部下たちにそう指示を出すと、のらりくらりと内閣府からの圧力を躱し始めた。警察部隊はTIAの主力に対する積極的な捜査や突入を一切行わず、逃げ遅れたり、運悪く酒場で酔い潰れて寝過ごしていた「極めて間抜けなクラン員」を数名逮捕し、書類上の体裁だけを整えてお茶を濁すにとどめていた。
各組織の思惑が複雑に絡み合い、欺瞞と裏切りが交錯する中、帝都の真の戦場は、陽の当たらない深い地下へと移ろうとしていた。




