『国民の妹を辞めた日、私は魔王の歌姫になった』
✴︎2 地下のライブハウスは、安酒の饐えた匂いと湿ったコンクリート、そして行き場のない人間たちの淀んだ熱気に満ちていた。
かつて「国民の妹」ともてはやされ、まばゆいスポットライトとパステルカラーのサイリウムに包まれていた清純派アイドルのステージとは、天と地ほどもかけ離れた暗がりである。客の数はまばらで、皆一様に暗い目をしており、アイドルを応援しに来たオタクたちの熱狂とは無縁の、どこか壊れた人間たちの吹き溜まりのような空間だった。
その後方、一段高くなった薄暗いVIPスペースから、その光景を見下ろす三つの影があった。
「……埃臭いし、ジメジメしていますし。持子様、このようなむさ苦しい場所、絶対的な美を誇る貴女様にはふさわしくありませんわ。あんな泥棒猫の初舞台など、私が後で録画を確認して報告すれば済むことですのに」
不満げに唇を尖らせながらそう囁くのは、かつてトップモデルとして君臨し、今は持子の「第一下僕(忠犬)」として狂信的な愛を捧げる本多鮎である。彼女はピンク色の髪を揺らしながら、隣に座る主へとすり寄ろうとしたが、目に見えない威圧感に阻まれてピタリと止まった。
「黙って見ておれ、鮎」
低く、しかし王の威厳に満ちた声が響く。前世における三国志の暴君・魔王董卓の魂を宿す絶世の美女、恋問持子である。透き通るような白磁の肌と、妖しく輝く黄金色の瞳。神が引いたとしか思えない黄金比の肉体を高級な黒のレザージャケットで包んだ彼女は、腕を組み、静かにステージを見据えていた。
「雪からの試練だ。あの泥棒猫が、己の『業』とどう向き合い、どう昇華させるのか。この目で見届けてやるのが、アレの罪を丸ごと買い取った主としての務めである」
持子の言葉に、鮎は「はぁぁ……持子様、慈悲深くて素敵……っ!」と恍惚とした吐息を漏らす。その二人のやり取りを、タブレット端末の青白い光に顔を照らされながら、冷静な眼差しで見つめる大人の女性がいた。
芸能プロダクション『株式会社スノー』の社長であり、持子たちを束ねる絶対的なプロデューサー、立花雪である。
「あんたたち、少し静かにしなさい。もう始まるわよ」
知的でクールな佇まいの雪が、眼鏡の奥から全てを見透かすような視線をステージへ向ける。彼女の指先はタブレット上で、本日の観客の属性データと、会場内の音響モニタリング画面を的確に弾いていた。
「雪……わざわざこんな地下の、陰気な場所を選ばなくとも良かったのではないか? わしの財力——いや、お前の腕があれば、もっと華やかなステージを用意できたはずだべさ」
持子が、ふと素の北海道弁を漏らしながら尋ねる。持子にとって雪は、孤独な自分を救い出してくれた恩人であり、至高の推しであり、母のような絶対的な存在だ。そのため、雪の決定には従うものの、純粋な疑問があった。
雪はタブレットから目を離さず、淡々と答えた。
「華やかなステージに出して、大衆から石を投げさせる趣味は私にはないわ。……1月15日の進路面談で、私はあの子に『アイドルとしての嘘を捨て、歪んだ執着を歌で示せ』とテストを課した。あの子が抱える窃盗癖という業と、あんたへの狂信的な隷属。それは、光の当たる表舞台ではただの『気味の悪い劇物』にしかならない」
雪はふっと、皮肉と、そして深い愛情の混じったプロデューサーとしての笑みを浮かべた。
「でも、劇物は使い方次第で、特効薬になる。世の中には、綺麗事や希望の歌じゃ救われない、泥水をすすって生きている人間が山ほどいるわ。あの子の痛々しい本質は、そういう『壊れた人間たち』の心にだけは、深く刺さる。……あの子の借金330万円を返済させるための、これが私なりの現実的なプロデュースよ」
雪の言葉が終わるか終わらないかのうちに、客席のざわめきを切り裂くように、ひどく不協和音めいた、重く冷たいピアノのイントロが鳴り響いた。
ピンスポットライトが、ステージの中央に立つ小さな影を照らし出す。
花園美羽。
かつてはフリルとリボンで着飾っていた彼女だが、今日身に纏っているのは、装飾の一切を排した、闇に溶け込むような漆黒のドレスだった。クリスマスの夜に好んで着ていたブラックサンタの衣装を思わせる、手癖の悪さを隠すのに都合の良い色。
しかし、その顔に、あの甘ったるい「〜ですぅ」という媚びた妹の笑顔はない。あるのは、世界を冷徹に値踏みし、己の損得と欲望だけで生きてきた、ひどく冷たく、そして空虚な「泥棒猫」の素顔だった。
美羽はマイクスタンドを両手で強く握りしめ、ゆっくりと口を開いた。
『綺麗に並んだショーケース ガラスの向こうの煌めきは
誰かのための値札 私には一生買えない光
だから私は微笑んだ あどけないふりをして誤魔化して
その隙に指先を滑らせるの』
囁くような、呪詛のような歌い出しだった。
アイドルの甘い声帯を使いながら、吐き出される言葉はあまりにも痛々しい。極貧の中で育ち、金や損得への異常な執着を抱え、他人の物を盗むことにスリルと快感を覚えていた己の過去。
『一枚五百円の肉を詰めるように 他人の愛を胃袋に詰め込んで
それでも心は飢えたまま
私のポッケに隠した盗品たち
どれだけ集めても 私はずっと空っぽだった』
美羽の歌声が、徐々に熱を帯びていく。
それは単なる声量の増加ではない。アイドルとしての嘘を捨て、持子への歪んだ執着や自身の泥棒猫としての業を乗せて歌い上げた瞬間、彼女の歌声は事務所の窓ガラスを共鳴させた時と同じように、異様な熱量(魔力)を放ち始めたのだ。
ビリッ、ビリリッ……と、ライブハウスの壁や、バーカウンターのグラスが共鳴し、不気味な音を立て始める。
雪がタブレットの波形を見つめ、小さく息を呑んだ。
「……凄まじい熱量ね。物理的な音波を超えて、空間そのものを震わせているわ」
経営者としてのシビアな目を持つ雪でさえ、その魂の叫びの出力には圧倒されていた。
客席の空気は凍りついていた。
心地良いメロディでも、勇気を与える歌詞でもない。人間の底知れぬ醜さ、取り繕うことのできない卑しさ、満たされない欠乏感を、鋭いナイフのように突きつけてくる歌。
だが、この地下室に吹き溜まった観客たちは違った。
親から見捨てられた者、社会の枠組みから外れた者、どうしても止められない悪癖に自己嫌悪しながら生きている者。彼らは、ペンライトを振ることも忘れ、ステージ上の小さな少女に釘付けになっていた。
美羽の剥き出しの傷口から流れる血に、自分自身の痛みを重ね合わせ、ぼろぼろと涙をこぼす者さえいた。
『ああ、でもあの日、神様は残酷な顔で笑ったの
三百三十万の罪と一緒に 私の嘘も業も丸ごと買い取って
圧倒的な暴力で 私をねじ伏せたの』
美羽の脳裏に、修学旅行の小樽オルゴール堂での絶望が蘇る。退学と人生の破滅という絶体絶命の窮地。そこに現れ、天文学的な借金と引き換えに、彼女の魂を永遠の隷属へと縛り付けた絶対君主の姿。
『浄化なんてされたくない 真っ白になんてなりたくない
嘘つきのまま 泥棒猫のまま
あの美しい人の足元に這いつくばって
永遠に黒い影を舐め続けたい』
歌声は悲鳴のような高音へと達し、彼女の中に溜まっていたドロドロの闇の魔力が、目に見えるほどの陽炎となってステージを包み込んだ。
VIP席で見ていた鮎が、チッと舌打ちをした。
「……不愉快な歌。あんな泥棒猫のくせに、持子様への愛を歌い上げるなんて、おこがましいにも程がありますわ」
毒づきながらも、鮎の瞳はステージから離せなかった。持子への狂信的な愛情と、敗北から始まる隷属の快感。形は違えど、鮎自身も持子に叩き潰され、狂信的な忠犬へと生まれ変わった過去を持つからだ。美羽の歌う「歪んだ執着」は、鮎の心の奥底をも激しく揺さぶっていた。
「……フン」
持子は腕を組んだまま、静かに鼻で笑った。
彼女の黄金の瞳は、美羽の放つ闇の魔力の中心に、確かな光を捉えていた。氷川神社での巫女・風間楓との『合舞』を見たあの日から、美羽の内に芽生えていた「白く輝く光の魔力(種)」である。どれほど醜い業を抱え、泥まみれの執着を歌おうとも、持子に捧げるその純粋な隷属の想いだけは、強靭な光の芯となって彼女の歌を支えていた。
『私は貴方のポッケに隠された盗品
誰にも見つからない、暗くて狭いこの場所が
私だけの、永遠の楽園——!』
最後のワンフレーズと共に、美羽は己の持てるすべての熱量と魔力をマイクに叩きつけた。
直後、パーンッ! という破裂音と共に、ステージ上の照明の電球が一つ、限界を超えて弾け飛んだ。
静寂。
荒い息を吐きながら、美羽は肩で息をしている。前髪が汗で額に張り付き、その瞳には清純派アイドルの虚飾は欠片も残っていなかった。
数秒の重い沈黙の後——地鳴りのような拍手と歓声が、地下のライブハウスを揺るがした。
「うおおおおおっ!!」「美羽! 最高だ!!」
綺麗事の応援ではない。心の底の傷を抉られ、そして同時に肯定された者たちの、魂の底からの叫びだった。大衆には決して届かない。しかし、傷ついた一部の人間にとっては、彼女の痛々しい本質を隠さない歌声が、間違いなく救済の教典となったのだ。
万雷の拍手の中、美羽はゆっくりと顔を上げ、一直線にVIP席を見上げた。
薄暗がりの中にあっても、持子の黄金の瞳ははっきりと見えた。持子は席を立つと、バルコニーの手すりに手を置き、ほんのわずかに、対象を圧倒する「覇気」を美羽に向けて放った。
それは恐怖ではなく、圧倒的な包容力。「貴様はわしの所有物である」という、絶対的な王からの肯定のサインだった。
その瞬間、美羽の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
アイドルの作り泣きではない。自分の醜い本質をすべて晒け出し、それでもなお、愛する神様に「下僕」として受け入れられたという、極上の歓喜の涙だった。
「……ま、初陣にしては、悪くない声でしたわね。駄犬の遠吠えくらいには」
鮎がそっぽを向きながら、不器用な強がりを口にする。
持子はフッと柔らかく、不器用な優しさを滲ませた笑みを浮かべ、隣の雪を見た。
「見事な采配であったな、雪。あの泥棒猫は、自分の居場所の深さを、ようやく理解したようだ」
雪はタブレットの電源を落とし、優しく微笑み返した。持子のすべてを包み込むような、広く無償の愛に満ちた母のような眼差しだった。
「ええ。ミリオンヒットにはならないけれど、熱狂的な信者は確実につくわ。……これで少しは、あの子も自分の力で借金を返せるようになるわね」
大衆から愛される清純派アイドルの光の道は、完全に閉ざされた。
しかし花園美羽は今、暗闇の中で誰よりも熱狂的に愛される「泥棒猫の玉座」を手に入れたのだ。彼女はステージの上で深く、深く一礼をした。観客たちへ向けてではない。己の魂の全てを握る絶対の魔王と、その居場所を用意してくれた冷静で優しいプロデューサーへ向けて。




