「好きにしろ」と言われた日、私は怪物を失い、魔王に魂を預けることにした
空の器と黄金の首輪
スイートルームの窓から、午後の柔らかな日差しが差し込んでいる。
ベッドの上では、本多鮎がまだ小さく震えていた。
憑き物が落ちた反動か、それとも虚脱感か。まるで雨に打たれた捨て猫のように丸くなっている。
「……ふぅ」
持子は呆れたように溜息をついたが、その手は優しく鮎の頭に置かれていた。
よしよし、と子供をあやすように撫でる。
不器用だが温かい感触。
鮎はその掌にすがりつくように額を擦り付け、しばらくの間、静かに嗚咽を漏らしていた。
(……何故、わしはこうも甘い顔をしておるのか)
持子は自問する。
先ほど、鮎の魂に長年寄生していた異形の『妖』と、それに喰われて肥大化していた『闇の心』だけを残らず喰らい尽くした。本来の彼女の心を傷つけぬよう。
かつての董卓であれば、敗者は即座に処断し、肉塊に変えていたはずだ。だが、この女を壊しきれず、あまつさえ多大な魔力を消費して救ってしまった。
それは、鮎の心の奥底に見た「歪んだ愛」と「孤独」が、かつての自分の過ちを呼び起こしたからだ。
(……貂蟬)
ふと、脳裏に一人の女の顔が浮かぶ。
かつて愛し、そして裏切られた絶世の美女。
あの頃のわしは、絶対的な権力を持ちながらも、人の心の機微にはあまりに無頓着だった。
軍師・李儒の諫言に耳を貸さず、王允の謀略に踊らされ、最後には義理の息子・呂布の凶刃に倒れた。
だが、何よりの後悔は——貂蟬を、一人の人間として愛してやれなかったことだ。
ただ美しい所有物として囲い込み、彼女の心の孤独に寄り添うことも、魂を救済することもできなかった。
似ているのだ。この本多鮎の、不器用で、歪で、破滅的な愛への渇望が。
妖と闇の心という不純物を取り除き、空っぽになったこの「壊れた器」を、今度こそ見捨てることはできなかった。
今度こそ、主として、庇護者として、正しく導いてやりたいと思ったのだ。
*
「……さて。そろそろ帰らねばならんのだが」
鮎が落ち着きを取り戻した頃、持子は立ち上がり、床に落ちていた制服を拾い上げた。
「ぬぅ……」
眉間に皺が寄る。
妖と闇を喰らうための魔力回路のオーバーヒートによる発汗で、ブラウスもスカートも、そして下着に至るまでぐっしょりと濡れてしまっている。
冷えて重くなった布地は、不快そのものだった。
「これでは着られん。……困ったな」
「待って、持子ちゃん」
ベッドから鮎が這い出してきた。その瞳は、さっきまでの濁りが嘘のように澄んでいる。
「すぐにクリーニングに出すわ。このホテル、ランドリーサービスは超一流だから、特急でお願いすればすぐ乾くはずよ」
「……ほう。気が利くな」
「ふふ、それくらいさせてよ」
鮎はフロントに電話をかけ、VIPの権限を使って至急のクリーニングを手配した。
スタッフが服を回収しに来るまでの間、二人はバスローブ姿でソファに向かい合った。
静かな時間。
だが、二人の間には、以前のような刺々しい緊張感は微塵もなかった。
「……ねぇ、持子ちゃん」
鮎が膝を抱えながら、上目遣いで持子を見つめた。
「さっき言ったわよね。『空いた器に、美しいものを詰め込め』って」
「うむ。言ったな」
「私……決めたの」
鮎は、熱っぽい瞳で持子を射抜いた。
「この空っぽの器に、持子ちゃんを入れたい」
それは、求愛のようでもあり、信仰告白のようでもあった。
自分の中の怪物――妖と闇の心が完全に消えた今、その空虚な穴を埋められるのは、その怪物を喰らった圧倒的な「美」しかない。
「……」
持子は紅茶を一口啜り、つまらなそうに、しかし拒絶することなく答えた。
「好きにしろ」
その瞬間。
二人の視線が交錯した空間に、不可視の魔力が揺らめいた。
スゥッ……
持子の胸から、鮎の胸へと。
常人には見えない『黒い霧の糸』が伸び、絡み合い、そして結ばれた。
先程の精神干渉。持子が鮎の心の深淵まで潜り、寄生していた妖と闇の心を喰らった時に繋がった強固なパス。
それは一方的な支配ではなく、魂の契約——『絆』の糸となって、二人を不可分なものとして繋ぎ止めたのだ。
鮎は自分の胸に手を当て、その温かい繋がりに恍惚とした表情を浮かべた。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……ご主人様」
その言葉は、確かに持子の耳に届いた。
だが、持子は顔色一つ変えずに窓の外を見ている。
「好きにしろ、と言ったはずだ」
肯定も否定もしない。ただ、そこに在ることを許す。
それが魔王なりの、不器用な受容だった。
すると、どうだろう。
鮎の背後に、幻覚のようなものが見え始めた。
ふわりとしたバスローブの裾から、見えないはずの「犬の尻尾」が、ブンブンと音を立てんばかりに嬉しそうに振られているのだ。
かつてのプライドの高いトップモデルの面影はない。
そこにいるのは、主に忠誠を誓い、その傍に侍ることを至上の喜びとする、一匹の美しい獣だった。
持子は口の端をニヤリと吊り上げ、黄金の瞳で新しい従僕を見下ろした。
かつての呂布のように力でねじ伏せるのではなく、心で繋がった「犬」。
「励むがよい。……忠犬になれよ。駄犬にはなるなよ?」
その言葉に、鮎はとろけるような笑顔で応えた。
「はいっ……❤」
ただ、笑う。
その笑顔には、もう一片の曇りもなかった。
最強の魔王と、その美しさに魂を捧げた元・捕食者。
奇妙で、歪で、けれど強固な主従関係が、ここに爆誕したのだった。
改行と書き直し。
読み直すとヤバい書き直したくなる。




